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2002.10.22 T.T.さん(男性)
 このサイトを拝見致しまして、感謝の念と共に良かったなぁと思っております。今の
日本はすっかりおかしくなってしまい、明治の人たちの志が全く生きておりません。
私は右翼でも左翼でもありませんが、正しい事、悪い事、その本質が人間性に鑑みて
現代に判断するならば、明治の先人は何ともすばらしく、昭和の先人達も如何程にす
ばらしいか。一部の暴走を認識した上でそう考えます。東京裁判とその後の教育のど
こに親兄弟を尊敬し、地域に貢献し、自分の生まれた国に感謝する気持ちが育とうか。
2歳の子供を抱える父として考えます。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、過分なお褒めの言葉をいただき、ありがとうございます。
最近、更新が滞っておりますが、新しい情報も載せていきたいと考えております。
今後ともよろしくお願い申し上げます。


2002.11.2 N.S.さん(女性)
 初めて拝見いたしました。
出身者名簿、感動いたしました。
豊田穣氏の作品を拝読し、68期生を詳しく知りたいと思い始めた頃、松永市郎氏の
「思い出のネイビーブルー」に、私の出身地の民謡を習ったという記事を見つけ、生
徒の出身地が判ればいいのになあ、と思っていたのです。
68期では、大野竹好大尉を敬愛しております。
卒業写真を見て、米粒大だったので、泣きそうになってしまいました(笑)
300人クラスの悲哀・・・
大野大尉の写真は、坂井三郎氏の「写真集 大空のサムライ」にある2枚と、豊田氏
の「同期の桜」掲載の、1号時代の写真から起こしたと思われる似顔絵しか入手でき
ませんので、金沢まで行き、大野大尉のお墓の写真を頂戴してきました。
お墓を研究資料として扱うことが通常となっている国文科ではありますが、さすがに
お墓にカメラを向けるのは、非常に心苦しく、何度もお詫びしながら撮らせていただ
きました。
しかし、私の人生におけるベストショットともいえる、素晴らしい写真を撮らせてい
ただきました。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
最近、チョット、プライベートで繁忙を極めたため更新が出来ていませんが、今後ま
すます、内容の充実を(写真も含めて)計っていく所存ですので、よろしくお願いい
たします。


2002.11.17 S.N.さん(女性)
 初めてメール致します。
私は、海軍第十五期Y.Y.のひ孫に当たるものです。
曾祖父は、明治41年12月24日に自決したと聞かされています。祖父も祖母もす
でに他界し、私の父も詳しいことを知りません。なぜ、自決を選んだのかいつか調べ
たいと思っていました。何か、お分かりになる方がいらしたら、よろしくお願い致し
ます

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご照会のY.Y.氏の件、「海軍兵学校出身者名簿」によれば、死亡年月日はNさ
んのご指摘と合致いたします。
また、遺族のご連先は東京在住のT.Y.氏となっております。
当方では残念ながらこの程度のことしか分かりかねます。
(略)
以上、よろしくお願い申し上げます。

2002.11.20 S.N.さん(女性)
 ありがとうございました。
水交会に問い合わせしてみます。19日は、私の40才の誕生日でしたので、このお返事
が素敵なプレゼントでした。


2002.12.1 S.A.さん(女性)
 こんにちは。
祖父のことを調べようと思い、ホームページを拝見しました。
祖父の名前はS.A.、第47期卒業です。
昭和19年のレイテ沖海戦で戦死いたしましたが、
その時どの船に乗っていたのか、どうしても分かりません。
もしお分かりでしたら教えていただきたく、お願いいたします。
ちなみに母方の祖父は同期卒業、同じくレイテ沖海戦で戦死したR.F.です。
こちらについては艦長だったこともあり、最後の船は最上であったことは分かっております。
何か情報がおありでしたら、ご一報くださいますようお願いいたします。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 ご照会の、S.A.氏はご存知の通り、一般的に「初月」「若月」「秋月」「涼月」などを率いた
連合艦隊「第61駆逐隊」隊長として知られております。
残念ながら、どの駆逐艦に乗船されておられたのかは、私の知るところではありません(略)
お役に立てずに、恐縮です。


2002.12.5 C.H.さん(男性)
作者様へ 
 膨大なるリストの作製誠にお疲れさまです。さてあなたが作製しておられる兵学校
出身者リストの第69期生の欄に左近充という名称がありました。私は豊田穣(68期
出身)さんの小説が好きでよく拝読していますが彼が兵学校入校時所属した2分隊に
同名の人がいます。しかもその人の名称があなたのリストの68期生のところに見え
ません。もしかしたら間違いではありませんか?御確認お願いいたします。
一海軍ファン

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご照会の件、ご承知の通り兵学校の分隊組織は各学年クラスで構成されております。
従って豊田穣と左近充正章が同じ隊に所属していたと思われます。
因みに、分隊長は最高学年の生徒の中でも、最も優秀な生徒が伍長として指揮をとり
ます。
以上、よろしくお願い申し上げます。


2002.12.22 Nさん(男性)
 質問があります。
井上成美海軍大将の『新軍備計画論』はなぜ却下されたのですか?その背景には
なにがあったのでしょうか?
現在卒論でその事について書いています。
何かアドバイスお願い致します。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 下記、ご参考になれば幸いです。
寒さ厳しき折、お風邪を召さずに卒論頑張ってください。
 
「彼が挫折した原因は、その狷介孤高な性格にも一因があったかもしれない。しかし、
彼を育てた日本海軍の体質自体に、より大きな原因が見いだされるべきである。・・・
日本海軍は巨大な技術集団であった。合理主義を至上のモットーとする集団では、当然
ながら情緒的、精神的な面が軽視されがちであり、対人関係も淡白になる。こうした雰
囲気のなかからは、いわゆる『政治性』は生まれ難いし、むしろ、政治的な思考や行動
様式を嫌悪する傾向が強くなる。日本海軍が日本陸軍の独断的な横暴を阻止できず、
結局は戦争へと引きずられていったのは、こうした陸・海の政治力の落差があったから
である」。
(青山学院大学教授 池田清「日本海軍史から見た井上成美」)
 
「帝国海軍は日本海海戦で有史以来の完全勝利を収めたうえ、第一次世界大戦ではほ
とんど戦争らしい戦争も経験しなかったので、双方に決戦を強行する意志がないかぎり、
艦隊決戦は生起しないという、ユトランド海戦の戦訓はもとよりのこと、大陸国家であるド
イツさえも、西部戦線では敵と互角に戦っていたにもかかわらず、連合国海軍による海上
封鎖の結果、ドイツ国内経済の破綻をきたし、そのため降伏を余儀なくされた事実を深く
認識しなかった。
帝国海軍では、軍縮条約によって課せられた兵力量の不足を『質』でもって補うとさかん
に言われたが、その意図するところは、単に個艦能力の優越をもって相手に勝てるだろう
と、漠然と考えていたのではなかろうか。そして『質』の問題も、その内容をつきつめていく
と、結局は大砲口径を大きくするとか、搭載砲数を多くするということであって、これはやは
り量的競争に他ならない」。
(戦史研究家 妹尾作太男「『新軍備計画論』が語る戦略家・井上成美」)
 

2003.1.4 K.N.さん(男性)
 明けましておめでとうございます。
  小生、福島県郡山市のNと申すものです。
  さて、一昨年の11月我が中田町(約1500世帯)で自慢まつりが開催されました。
13の町内会より、自慢できるものを町民の協力を頂き展示し、多くの市民がおとずれ
大盛会のうちに終了致しました。
 じつは、私の町内会はちょうど100世帯でしてこの事業に何を出品しようかと町内会
長を中心に協議したところ、神主様に協力頂こうということになり、早速町内会長がおじ
ゃましたところ、ご先祖様にたいそう偉い軍人さんがおられ、日露戦争の功績により 
明治天皇より賞状を頂いたそうで、その賞状を出品して頂けることになりました。その他
にも3点ほどの出品の協力を頂きましたが、その天皇陛下より頂いた賞状の前には直
に人だかりができて、私も役員でもあり大変嬉しく思った次第です。
 この度、我が家にもインターネットが接続となりました。
自慢まつりのことを思いだし、さっそく海軍兵学校のホームぺージを見させていただき
ましたところ、神主様の先祖様の氏名に誤字がありました。確認の意味で地元郡山に
ある当時、福島県最初の中学校であった現、福島県立安積(あさか)高等学校の卒業
生名簿を見たところ、やはり誤字であると確信しました。下記のとおりですので訂正お
願い致します。
(略)
◎元日、神主様の近くの日光大権現様へのお参りの帰り上記 I.Y.様の墓に
寄りま したその戒名の左下に東郷 平八郎書とあります。
 私は、我が地区にも偉い人がいたことを大変誇りに思いました。

管理人からの返信
 ご指摘ありがとうございました。
早速、訂正させていただきました。
 今後ともよろしくお願い申し上げます


2003.1.17 R.W.さん(男性) 
 海軍兵學校出身者名簿第五十四期 大石宗次中佐の欄に「スリガオ海峡(山雲艦長)」
とありますが
芙蓉書房刊 陸海軍将官人事総覧によれば 大戦中ずっと歐洲に駐在してゐた様に記載
されてをります。
どちらが正しいのでしょうか、お伺い申し上げます。  

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、貴重なご指摘をいただき恐縮です。
大石宗次氏の件は、当方のケアレスミスでした。
お詫びし訂正させていただきます。
因みに、大石氏は海軍兵学校第54期を首席で卒業し、恩賜の短剣を授与されています。
昭和47年2月26日に亡くなっています。
娘さんが、民主党衆議院議員(神奈川4区)として、ご活躍です。
以上、よろしくお願い申し上げます。

2003.1.18 R.W.さん(男性)
 拝復。 ご回答ありがとうございます。
十四日付産經新聞三面に「秋山眞之海軍中將の孫 大石尚子議員 インド洋の護衛艦
隊員を激励」と謂う記事があり 御尊父の経歴を確認したかったわけです。 大學校第三十六
期では山本長官の二番機に搭乗して戦死した室井捨治航空乙参謀と首席をあらそったと
仄聞してをります。
令夫人 すなはち 議員のご母堂が中將の末娘と謂う事のようです。 ご回答 重ねて厚く御
禮申し上げます



2003.1.15  S.M.さん(男性)
 あなたの海兵学校関与ページ上にすばらしい資料が豊富にあって、これを見つけて大変
感激しました。
 私の今書いている「回天」とその他の特攻生存者についての本の参考文献リストにあなたの
ページの中の『海軍兵学校沿革」HTMLの著者名を載せたいので、教えてもらいましょうか?
 よろしくお願いします。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
 ご照会の件、下記の通りです。
 
「海軍兵学校沿革」著者
中島親孝(なかじま ちかたか)
明治38年、北海道札幌生まれ。
海軍兵学校第54期卒。成績は4番目で恩賜の短剣を賜る。
海軍大学甲種学生を経て、第5水雷戦隊参謀、第2、第3艦隊通信参謀。
昭和18年11月連合艦隊通信参謀。
戦後、第2復員省に勤務。
平成4年没。

以上、よろしくお願い申し上げます。
末尾ながら、先生のますますのご活躍を祈念いたします。


2003.1.29 M.O.さん(男性)
用件のみ申し述べます。
私は視覚障害者の方のために音訳の作業をはじめ、吉田俊雄著『連合艦隊の栄光と
悲劇・東郷平八郎と山本五十六』を手がけていますが、有名でない方の人名の読み
方を調べるのに難渋しております。どなたかその調べ方について、ご教示いただけ
るとありがたいのですが・・・・。たとえば、海軍兵学校名簿の人名にふりがなが
ついているものでもあれば問題はかなり解消します。そのようなものは参照可能で
しょうか。  

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご照会の件、下記の通りとなります。
1,「海軍兵学校出身者名簿」には、ルビはふってありません。
2,呼び名については、例えば山本権兵衛は「やまもとごんのひょうえ」が正解で
しょうが、むしろ一般的には「やまもとごんべい」でしょう。
要は、どちらでも良いでしょう。
3,正確を期すのであれば、「水交会」に問い合わせされると良いでしょう。
(略)
あまりお役に立てずに恐縮です。

2003.1.31 M.O.さん(男性)
 早速のご回答ありがとうございました。
水交会問い合わせましたら、士官でも分かる場合があるので個別に照会するよう
に、との連絡をいただきました。
これから準備にかかるつもりです。取り急ぎ御礼まで。


2003.1.28 H.O.さん(海軍兵学校第75期)
 このサイトを初めて開き、よく資料を収集されたものと感心しました。
尚一層充実されますよう期待しております。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、過分なるお褒めと激励のお言葉を賜り、誠にありがとうございます。
最近、公私にわたり多忙を極めており、更新がままならぬ状態ですが、出来うる限
り頑張ります。
今後ともよろしくお願い申し上げます。


2003,2,22 A.H.さん(海軍兵学校76期)
 初めてMAILさせて頂きます。小生、兵学校第76期のA.H.と申します。いつも、
貴方様の素晴らしいHPを見ながら、諸先輩の偉業や、初めて聞く戦史など、勉強 し
、また、楽しませて頂いております。
76期の公式ページではありませんが、この4月頃、九州76期の仲間で、PCの初心
者が集まり、同期生の趣味、スポーツなどの自慢話や、元気の出る話題紹介を中心
にしたHPを立ち上げたいとの話が出まして、今、苦心しながら、モデルを作っていますが、
そのHPのLINK先に是非貴方様のHP「海軍兵学校」を入れさせて頂きたく、MAILした
次第です。
 最初は幼稚なページになるかと思いますが、今年「還暦」を迎える76期生徒の、
パソコン時代への挑戦という事で、お許し頂き、また、今後、至らぬところもご指摘頂け
れば幸いです。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
過分なるお褒めの言葉を賜り、誠にありがとうございます。
当サイトは、リンクフリーですので、是非よろしくお願い申し上げます。
また、H様のHPが立ち上がりましたら、URLをお知らせ下さい。
差し支えなければ、小生のHPにもリンクさせていただきます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2003.3.13 A.H.さん(海軍兵学校76期)
 本日やっとの事でHPを立ち上げました。
PC歴2年の初心者がチャレンジしますのも、兵学校76期、76歳の「IT時代への老いの意地」
かもしれませんし、自らへの挑戦でもあります。
どうか、これからも宜しくご指導、ご指摘を賜りますようお願い申し上げます。
LINKの件有難うございました。

2003.4.16 A.H.さん(海軍兵学校76期)
 HP立ち上げの節はお世話になりました。お陰さまで1ヶ月経ちましたが、少しずつアクセスも増え、
多少は同期生のPCへの興味を高めるのに役に立ったかなと思っています。
 まだ、小生の勉強不足で、老人になった同期生に見やすい、楽しめるページにするのには程遠
いものですが、貴ページと同じように、あくまで、小生は、期友の紹介をするプデューサーに徹するつ
もりでいますので、これからも何なりとご指摘頂ければ幸いです。
 なお、もし貴ページにLINKさせて頂ける内容に育った折には、是非宜しくお願い致したします。
 開設1月を過ぎましたので、とりあえずご挨拶申しあげる次第です。


2003.2.23 M.S.さん(海軍兵学校第75期)
 兵75の者で、貴≪人物伝≫や≪お手紙紹介≫を興味深く拝見し、又、兵学校出身者
名簿などの御編集に感銘しています。
ついてはこのHome Pageご作成筋の御略歴や当初のご趣旨等お教えいただければ
幸甚です。
尚、米海軍関連筋で”Imperial Japanese Navy Page”なる
(http://www.combinedfleet.com/kaigun.htm)
貴重な努力にも最近出会い、この米筋の画像や戦史への協調などの可能性は?
などの感想も湧きました。
新千年紀は3年目もイラクその他混迷の雲晴れません。
貴URL益々のご発展を蔭ながら祈念申し上げつつ、
草々

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、ご返事が大変遅くなり申し訳ありません。
過分なるお褒めの言葉をいただき、恐縮しております。
いたって単純な動機からHPを開設いたしましたが、その後、各方面からの反響に驚
いております。
従来、情報発信はマスメディアの独占でしたが、インターネットの登場により、個人
でもHPにより自由に情報を発信できるようになり、メディアの形態も変化の時を迎
えていると感じられます。
当サイトは、趣味の域を出ておりませんが、「今はなき海軍兵学校とは何か」を、歴
史的事実として、ネット上に少しでも記録しておきたいとの一念です。
今後とも、よろしくご指導のほどお願い申し上げます。


2003.3.5 Sさん(男性)
私は在日中国人で、Sと申します。
海42期の奥田喜久司大佐に関して、教えて戴きたいと思います。
中国では最近、彼に関する資料が発見されたのですが、
誰も奥田大佐に関して知りません。
宜しくお願いします。
敬白

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、返事が大変遅くなり申し訳ありません。
 ご照会の、奥田喜久司氏に関しては、小生も全く知識を持ち合わせておりません。
分かる範囲は、下記の通りです。
なお、「水交会」にお問い合わせされれば、何らかの情報が得られるかも知れません。
以上、よろしくお願いいたします。
昭和10年11月15日発令、海軍大佐、「神威」艦長。
昭和11年11月16日発令、航空本部総務部第1課長。
昭和13年12月15日発令、13空司令。
昭和14年11月4日発令、海軍少将、成郡で戦死。

2003.3.11 Sさん(男性)
 色々と、大変ありがとうございました。
近いうちに、「水交会」の関係者の方に連絡して見ます。
本当に感謝しております。
敬白


 
2003.3.21 T.Y.さん(男性)
前略
海兵59期海軍少佐S.K.は私の父方祖母の弟です。
空技廠のテスト・パイロットとして、昭和17年8月17日に相模湾上空で殉職致しました。
独逸より輸入したユンカースJU−88の試験飛行中の事故でした。
4月18日の米軍の本土初空襲があったため、試験飛行中に陸軍(?)に誤認され撃墜
されたと云ひます。
殉職に関しては戦史資料室の横須賀鎮守府戦時日記に記述があります。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、貴重なご連絡ありがとうございます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
末尾ながら、S.K.氏のご冥福を心よりお祈りいたします。


2003.4.4 K.O.さん(男性)
 いつも拝見させて戴いております。
 私は呉在住の、海兵67期卒の故、J.O.大尉の遺族であります。
ですので毎月のように一術校へ行っては教育参考館において参拝しております。
息子も3歳になってからは一緒に参拝させ、海軍魂を持った誇り高き日本男児になるよ
う育てております。
 例えば、海上自衛隊の基地にたびたび連れて行って、直立不動で「自衛艦旗降ろし方」
のセレモニーも見せて参りました。今年の3月21日 遠洋航海に向かう練習艦隊を江
田島で見送りました。今年の1月26日、インド洋から帰港した護衛艦「ひえい」をお
出迎え。息子も一生懸命に旗を振っておりました。
 自分のことしか考えない人が多い今の日本に最も必要なのは、「国家を意識して
(愛して)生きる人を多くすることである」と私は考えました。そうすれば誇りや公共
心も生まれ、家族への愛・近隣への愛・地域への愛も生まれてくる(思い出す)のではな
いでしょうか?
 その「国家を意識する」上で最も視覚的に効果的なのが、「自衛艦旗降ろし方」のセレ
モニーと教育参考館への参拝であると思ったのです。息子は今では自分からセレモニーや
一術校に行きたいと懇願し、セレモニーにおいては艦内アナウンスに合わせて、「10
秒前!」「時間!」と号令をかけて敬礼をしております。
息子はこの4月から小学校に入学致しますが、これまで培ってきた愛国心・公共心を誇り
と共に抱き、小学校生活を過ごしてくれるものと信じています。
 未だに私たちのO氏はトラック島の沖深くにいらっしゃいます。どんなに帰りたいこと
でしょう。
後世の我々の事を想って、守って戦死された方々の恩に報いるためにも、我々はいいかげ
んな生き方をしてはならないと思うのです。
 今後とも私たち家族は海兵の遺族であることを誇りとし、その誇りを子供たちに伝えつ
つ立派に育てていく所存であります。
 最後に貴ホームページの今後ますますのご隆昌を祈念申し上げ、敬意と感謝を衷心より
捧げます。
管理人からの返信
 メールありがとうございました。
また、PC故障のため、返事が大変遅くなり申し訳ありませんでした。
ご子息が、小学校へご入学とのこと、おめでとうございます。
末尾ながら、故O氏のご冥福をお祈りすると共に、O氏の益々のご活躍を祈念いたします。


2003.5.3 K.Y.さん(トルコ在住・女性)
 はじめまして。
私は、トルコのイスタンブールのイルタ・コミュニケーション・アンド・プロモーティングという
ドキュメンタリーを制作会社の共同プロデューサーで、K.Y.と申します。
現在、トルコ文化省や日本外務省の国際交流基金などから援助をいただき、トルコと日
本の交流の歴史に関わる番組「太陽と月と星」をトルコ国営放送(TRT)向けに制作して
います。
実は、その中で、1890年(M23)に和歌山沖で難破したオスマン帝国軍艦エルトゥー
ルル号の生存者69名を、日本の軍艦が「比叡」と「金剛」で送還したという話しがあ
り、艦長および乗組員の写真を探しております。
あるウェブサイトの掲示板より、ある方からこのホームページの第17期卒業写真とし
て掲載させていると教えていただき、拝見させていただきました。ウェブサイトでは
各人の顔までははっきりわかりませんが、私共にとって非常に有用な資料です。
そこで、お尋ねしたいのですが、これらの写真(アルバム)を番組の中で使用させて
いただくことは可能でしょうか。2月に取材のために来日いたしましたが、残念なが
ら、再度の訪日は困難な状態にあります。従いまして、もし使用させていただける場
合、高解像度のデジタル写真をEメールでお送りいただくか、または、写真を送付い
ただくというようなことは可能でしょうか
また、他に、田中、日高両艦長の写真はありますでしょうか。(日高氏に関しては大
将のページにあるのと同じ写真が手元にあります)
唐突なお願いで大変恐縮ですが、ご対応いただければ幸いです。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご照会の件、下記の通りです。
「海軍兵学校卒業写真」は、海上自衛隊第1術科学校 の教育参考館に所蔵のもので
す。
下記へお問い合わせ下さい。
海上自衛隊第1術科学校
〒737-2195広島県安芸郡江田島町  
TEL0823-42-1211
また、田中、日高艦長の写真は、下記「水交会」へお問い合わせされれば何らかの手
掛かりが得られると思います。
(略)
以上、よろしくお願い申し上げます。
末尾ながら、Y様の益々のご活躍を祈願いたしております。


2003.7.6 H.K.さん(男性)
前略 
 貴サイトを拝見、、詳細にわたる豊富な内容に感服しました。
私の父の軍歴について詳細を知りたいので、若しお分かりになるようでしたら教えていた
だきたくお願いする次第です。                  
あるいは、戦史室等の該当資料保管部門をご紹介いただければ、幸いです。
 父は、海兵48期、加藤良之助、貴名簿に載っていますが、昭和10年頃から18年ま
での勤務先、発令年月等が不明確です。
昭和8年に特殊潜航艇(甲標的)試作艇の初めてのテストパイロットとして実験、開発等
に従事した関係で、開戦前には9軍神他乗組員の訓練指導官を勤め、開戦後特殊潜航
艇母艦「千代田」副長になっていましたが、その後普通の潜水艦の艦長としてアリューシ
ャン等に転戦後、51潜水戦隊司令として、サイパンを基地としてガダルカナルの補給作
戦に従事していたようですが、19年5月呉に転勤発令、後任者の着任が遅れたため敵
機動部隊迎撃に出撃6/30戦死、海軍少将に昇任しました。                    
 なお、戦史室にあった米軍側資料によると、51潜水戦隊の「ロ104」、「ロ105」等数
隻は駆逐艦「イングランド」のソーナーに探知され次々に撃沈、その日時は5/30未明と
なっていました。
 潜水艦関係資料を熱心に収集し、雑誌「丸」等に度々寄稿しておられるK.U.氏
(海兵74期)から父の軍歴の詳細について照会されましたが、履歴簿?が見あたらない
ので、宜しくお願い申し上げます。

【追伸】
 先程、私の父、海兵48期、加藤良之助の軍歴について調査をお願いしましたが、
書き落としたことがあったので、追伸します。
 私の弟、加藤直之は海兵75期で、終戦により3ケ月繰上げ卒業し、復員船に乗って
いましたが、急性肺結核をマラリヤと思って治療が手遅れとなって、昭和23年3/10死
亡しました。貴サイトの75期の名簿には載っていませんので、お知らせします。
 また、海兵74期K.U.様の住所は次の通りですから、ご参考までにお知らせします。
(略)

管理人からの返信
 当サイトをご覧いただきありがとうございます。
さて、ご照会のお父様の件下記の通りです。
「海軍兵学校出身者名簿」は、『海軍兵学校出身者(生徒)名簿』(昭和53年12月20
日発行)に準拠しています。
この名簿は、氏名、戦没地、死亡年月日、遺族氏名、連絡先住所・電話番号が掲載さ
れています。
これによれば、加藤良之助氏は昭和19年6月25日の戦死となっております。
なお、詳細な軍歴は当方では分かりかねます。
軍歴簿は、「厚生省援護局業務2課保管履歴」として厚生労働省に存在していると思
われますが、詳細は「水交会」にお問い合せ下さい。
(略)
また、弟様加藤直之氏は海兵75期のご卒業とのことですが、当名簿は舞鶴分校(入
校時、海軍機関学校)関係者465名は含まれておりません。
従って、弟様が掲載になっていないと思われます。
以上、よろしくお取りはからいのほどお願い申し上げます。
末尾ながら、お父様と弟様のご冥福を心よりお祈りいたします。

2003.7。10 H.K.さん(男性)
前略 
 加藤良之助の軍歴調査について、早速有益なる情報をお知らせいただき誠に有難
く感謝しております。
お蔭様で
〒100-8045 東京都千代田区霞が関1−2−2
   厚生労働省社会・援護局業務課 調査資料室 海軍担当
    電話 代表 03-5253-1111 内線 3487

に問い合わせたところ、詳細な軍歴を交付していただけることが分かり、必要書類を
準備中です。
 なお、弟、加藤直之は,貴文のとおり、入校時は海軍機関学校でしたが、卒業時に
は海軍兵学校になっていましたので、名簿に載ってないことが理解できました。
末尾ながら、貴方様のご健勝と貴サイトの益々の充実を祈念します。
まずは取り急ぎ御礼まで <m(__)m>                          草 々 


2003.7.6 K.T.さん(男性)
 初めまして。
 不躾ながら是非お尋ねしたいことがあります。特攻隊の遺書にはどの程度本音が
書かれているのでしょうか。一説には検閲が厳しくて本音を書くことはできなかったな
どと流布されているようです。
 例えばヒットした映画に「ホタル」というのがあります。その中に知覧から出撃す
る隊員が「検閲のある遺書に本当のことがかけるか」という場面があります。映画は
特攻隊員がもっぱら国家によって「殺された」という反戦のイメージを発するもので
す。しかしサヨク的イデオロギーの映画だと見抜くける人はそう多くないでしょう。
この映画は公開当時、保守派の間でも評価が高かったそうですから。
 私は広島在住で、江田島の教育参考館で特攻隊の遺書はたびたび読んでいますが、
お国の為に死を決意した特攻隊員の清々しい言葉だと感じました。男が大義に殉じる
とき、このような言葉しか出ないのではないか、公なる行為に殉じるときは、私的な
言葉は消え、似たような紋切り型の言葉になるような気がします。
 サヨクは、それを国家強制による生の声の封殺と見るわけです。つまり、遺書は検
閲の末の完全な虚飾の品と決め付けるわけです。この意見は「正論7月号」に掲載
の、「知覧特攻平和会館の無残」八木秀次氏が詳しく指摘しています。
 もし、特攻隊の遺書が検閲による虚飾ならば、後世の人間は虚飾に涙していること
になります。逆に遺書が本音であれば、サヨクは人間の最後の言葉を愚弄する許すべ
からざる人種と言わざるをえません。
 事実はどうだったのか。もし当時のことを知っている方がおられれば是非お伺いし
たいと思います。史実を歪めることなく後世に伝えることこそ、亡き同胞に対する子
孫の誠実な態度ではなかろうかと思うからです。

管理人からの返信
 メールありがとうございました。
ご承知の通り、海軍兵学校や海軍関連学校は、海軍軍人を生業とする職業軍人、就
中、士官を養成するための学校です。
海軍軍人が作戦上、死に直面することは当然のことであり、特攻隊の指揮官として海
軍兵学校出身者も数多く戦死しております。
しかし、学徒出陣や徴兵により参戦した多くの兵士達の戦争観は一律のものではなか
ったと思われます。
人間顔かたちがそれぞれ異なるように、生い立ち、人生観、世界観は自ずと異なるも
のと思います。
お国のため、特攻隊となった7000名の若者達も複雑な心境であったと思われま
す。
公にされた「遺書」が検閲を受けたのかどうかよりも、7000名の有為な若者達が
戦死した事実を重く受け止めるべきと思います。

2003.7.9 K.T.さん(男性)
 お返事ありがとうございました。おっしゃるとおり、私たちは7000名の有為な若
者達が戦死した事実を重く受け止めるべきだと思います。であればこそ先の質問をさ
せていただきました。
 海兵は自ら志願し、高倍率の試験を突破した職業軍人だと思っていました。予科練も
同様かと思っていました。であれば「死」は軍人として自ら選択したはずであり、学
徒動員や徴兵とは本質的に異なるのではないかと思っていました。
 例えば警察官が市民を守ろうとして殉職したり、消防士が子ども救おうとして勇敢に
火の中に飛び込んで殉死したとき、国家によって「殺された」と見るべきでしょう
か。これは彼らの名誉を踏みにじるなにものでもありません。まして職業軍人におい
ておや。
 先日、海上自衛隊の友人に会いました。彼は今年定年退職の一佐ですが、在任中もっ
ぱら艦隊勤務を勤めた海の男です。イラク派兵が話題にのぼったとき、現場の指揮官
の判断の話になりました。
 冷戦時代は何度もソビエト艦と遭遇しておりますが、領海に迫ったときが最も緊迫す
る一瞬です。あるとき、宗谷海峡で、15000トンのソ連原子力潜水艦が領海50
00メートルに接近浮上したときがありました。総員戦闘配置につき、アスロックと
ミサイルの引き金はすべて艦長である彼の手に握られていました。
 領海内に侵入した相手を攻撃すれば専守防衛上責任問題になります。反対に逡巡して
万一こちらが撃破されれば、臆病者の誹りを受けます。ねじれ憲法の責任を負わされ
るのはいつも現場の自衛隊です。行くも退くも不名誉な結果しか待っていません。そ
れを覚悟の軍事行動です。乗組員150名の顔がいっせいに艦長に向けられ判断を仰
ぎます。国家国民という言葉が一度に頭の中に集中する瞬間です。
 私が「もしやられそうになったら、お前は国に殺されると言うか」と問うと、「馬
鹿、このときの為に給料もらっているんじゃないか。ただ職務を遂行するのみ」と答
えました。これが軍人の正しい言い分だと信じています。
 彼は少年術科学校で四年間江田島教育を受けた私の同期の桜です。当時校長は海兵5
4期生でした。士気高く、私たちは海兵を先輩と仰ぎ、その精神を受け継ぎ、参考館
に刻まれた戦夥しい英霊を胸に刻んで日本の平和と独立を守るために日夜励んできた
つもりです。
 特攻隊の遺書を虚飾とする言説を見逃すとするなら、自衛隊の士気にも影響し、世間
では、自衛隊の使命感も虚飾と見るでしょう。ただ、金のために働く職業人にしかす
ぎず、事においては「国に殺される」不名誉な集団と言うことになります。これまで
同様、海外では制服を着れば国賓並に遇せられるものが、自国内においては私服に着
替えねばならない不名誉な集団を改善できません。
 さらに、海兵の伝統精神を、誇りを持って後輩に伝えることができなくなります。英
霊を冒涜するものは自らを冒涜することだと思います。ただ戦争という大きな事故に
巻き込まれて不本意な死をとげた難民の命と、7000人の戦死した事実の重みを、
我々は同様に戦争の犠牲者として受け止めればよいのでしょうか。
安らかに眠ってください。
あやまちは 
二度と繰り返しませぬから
 平和公園の石碑に刻まれた平和の誓いです。この主語は日本国民です。これを読んだ
インドのパール判事が、何と言う情けない国民だろうと嘆いた気持ちを思い出しまし
た。
 同じ問いを予科練の特攻隊員にも出しましたが、出撃が後回しになって生き残って
しまった元特攻隊員の方が、一般の郵便物は確かに厳しい検閲があったが、お国の為
に死んでゆく者の遺書を検閲する必要があるはずがない。本音であるから信じてよい
との返信を頂きました。私は、後世に伝えるべきあの戦争の意味は、ヒューマニズム
ではなく、「日本人はアングロサクソンと戦った」と言う史実の重みだと思っていま
す。それが英霊に報いる鎮魂だと思うからです。
 夏になりました。8月15日には、家内と知覧の英霊を供養してきます            
 

2003.7.29 O.K.さん(ジャカルタ在住・男性)
こんにちは
海軍兵学校のサイトを拝見して、お便りさせて頂きます。

 小生はジャカルタ駐在の商社マンで、ダイビングが趣味です。先日、ジャワ島、西ジャ
ワ州、チレゴン近郊、バンテン湾に沈んでいる米重巡洋艦ヒューストン号というのを見に
行ってきました。下記は、参考文献ですが、この参考文献で書かれている海戦の名前は
なんと言うのでしょうか? またこの当時、1943年3月2日にヒューストン号、パース号を
沈めた日本帝国海軍の艦船の名前がわかれば教えて下さい。宜しくお願いします。

以上

 第2時世界大戦当時、日本帝国陸軍は東(スラバヤ方面)と西(ジャカルタ方面)からほ
ぼ同時に上陸作戦を展開しました。この時の西側の上陸地点がチレゴン近くのバンテン
湾です。
 この上陸作戦は当然、連合国側も警戒していたわけで、双方の海軍部隊による駆け引
きがおこなわれており、数日前には東方面上陸部隊の帝国海軍護衛艦隊と連合国海軍
がジャワ海で戦闘を行っています。
 このジャワ海沖海戦で、連合国側は旗艦をはじめとする数隻の損害をだし退却。その際
に当時連合国側の海軍基地のあったチラチャップに時計の反対周りで向かったのが軽
巡洋艦バース号(豪)と重巡洋艦ヒューストン号(米)の2隻。
 この2隻がボンタン岬を廻ったところで、偶然にも上陸作戦を実施中の西方面上陸部隊
輸送船団とぶつかった訳です。バンテン湾内にところ狭しとならんだ、上陸用舟艇を降下
中の輸送船はターキーシュートで8隻だったか10隻だったかのの上陸側輸送船が撃沈
されています。
 さて、帝国海軍側の護衛艦隊はどこにいたのかといいますと、スンダ海峡の南から連合
軍部隊が来ることを想定して、ちょうど半島を挟んで反対側の現在のメラク沖周辺に展
開していたのです。
 当然、この護衛艦隊は遅れ馳せながら救援に駆けつけた訳で、其の数は戦艦、巡洋艦、
駆逐艦をあわせて10数隻。 連合軍側は先の2隻ですから、勝敗は歴然でヒューストン
号もパース号もバンテン湾に撃沈されたのでありました。
 ということで、バンテン湾には合計10隻程度の大戦中の沈船があり、ダイバーにとって
は幸運なことに上陸作戦時の戦闘であった為、通常潜降の可能な深度にその大半があ
る訳です。

管理人からの返信
 当サイトを、遠くジャカルタの地でご覧いただき、ありがとうございます。
 
ご照会の件、下記の通りです。
 
1,バタビア沖海戦(スンダ海峡海戦・・・連合国側呼称)
 前日の「スラバヤ沖海戦」に敗れた連合軍の巡洋艦の内、九死に一生を得た「ヒュー
ストン」(米・重巡)と「パース」(豪・軽巡)は、ジャワ南岸のチラチャップに向かうべく、バ
タビア湾のタンジュンプリオーク港を出航した途中、パンタム湾沖バビ島で日本海軍の船
影を発見した。
この動きはすでに日本海軍にキャッチされており、昭和17年3月1日午前零時29分「パ
ース」の日本海軍船団への砲撃により戦闘が開始された。
日本海軍の攻撃の結果、「ヒューストン」「パース」は轟沈する。
 
2,連合軍の2艦を沈めた日本海軍の艦船が何であったかは、見解が別れると思います。
連合軍側2隻の巡洋艦に対し、日本海軍は下記(【日本海軍の編成表】略)のような大部
隊による攻撃であったため判然としないところもある。
戦史では、「ヒューストン」への日本側の攻撃は「吹雪」の魚雷と砲撃により開始され(命
中弾なし)、「敷波」の魚雷により沈没、その間、各艦よりの攻撃があった。
「パース」は「旗風」の照射攻撃を最初に受け、第7戦第2小隊に止めの砲撃を受ける。
この戦闘で、中心的働きをしたのが「最上」「三隅」の重巡であった。
  しかし、「最上」の放った魚雷により、パンジャン島南方で軍司令官今村均陸軍中将率
いる「第2号掃海艇」が転覆、輸送船「佐倉丸」が沈没、「竜城丸」「蓬莱丸」「竜野丸」の
3隻が大破転覆する思わぬハプニングが起きた。
「竜城丸」から海に投げ出された今村中将は、3時間後に救出されるが、大正天皇から
賜った軍刀を海中に没してしまった。この事実は長い間秘密にされたが、戦後明らかに
された。
以上、よろしくお願いいたします。

2003.7.31 O.K.さん(ジャカルタ在住・男性)
 貴メール有難うございました。
大変、参考になりました。
 パース号、ヒューストン号の退役軍人会のサイトも見つけました。敵方には敵方の言い
分があるようです。
 ヒューストン号の生存者は戦争捕虜となり、ビルマタイへ送られて鉄道工事に使役さ
れたようです、映画で有名なクワイ河の橋を架けたのはこの人たちでしょうか? その
中で100名近い捕虜が命を落としたそうです。今、この退役軍人会は当時鉄道工事を
請け負った三菱、三井、八幡製鉄(現新日鉄)、石原産業を相手に損害賠償訴訟を準
備しています。

http://www.spruso.com/1houston.htm
 
 F様が従軍なさった方かどうか存じませんが、海底に眠るヒューストン号を見て、日米
を問わず、先達の多大なる犠牲の上に今の平和な日本が築かれていると思い、平和の
有難さを再度実感致しました。もうすぐ終戦記念日です。

お便り有難うございました。
                                                   草々

2003.7.30 M.O.さん(男性)
 前略
時折、貴HP【海軍兵学校】を拝見しております。

 私は勝山淳海軍少佐(兵73期)の甥にあたるものです。3年前の平成12年8月、
偶然にも伯父の操縦した人間魚雷「回天」が沈めた米海軍護衛駆逐艦アンダーヒル号
に関する米HP【日本海軍】の回天の記事を発見し、その管理者ジョナサン・パーシャ
ル氏からアンダーヒルの生存者ロジャー・クラム氏の制作したHPとクラム氏を紹介
して頂きました。同年9月24日にアンダーヒルで戦死した彼の友人の子息が勝山の
生家を訪ねて来ました。その後のやりとりは下記のHPをご覧下さい。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kai-katuyama.htm

 今回添付した写真は、勝山の生家に保管されていた第六艦隊司令長官だった醍醐忠重
中将の弔辞文と先のクラム氏より頂いた1991年7月24日にアナポリス海軍士官
学校教会で行われたアンダーヒル慰霊祭の時の集合写真、お世話になったクラム氏の
1944年当時の写真です。
 3年前までは故人が「回天」で戦死した事以外は全く知りませんでしたが、その後の
様々な出来事や故人を知る関係者との出会いにより新たな事柄を知ることになりまし
た。過日、故人の弟(伯父)は水交会の機関誌に故人の思い出や最近の出来事を寄稿
した旨の連絡と掲載された機関誌「水交」を送ってきました。今年の10月末〜11
月には高文研と言う出版社より伯父勝山淳の本が出版される事となり、私も拙文なが
ら寄稿させて頂きました。
 お送りした画像の一つ、アンダーヒル慰霊祭の集合写真については関係するHPの管
理者には掲載依頼をしたものの、その後に第三者の事柄でその管理者とはやや関係が
ぎくしゃくしている状況のため掲載には至っておりません。米国の海軍士官学校に関
する一つの資料として貴HPに掲載頂ければ昨年7月末に亡くなったクラム氏も喜ぶ
ことと思います。

誠に勝手ながら、善処頂ければ幸いです。

草々

追伸
アナポリス海軍士官学校の博物館にあるアンダーヒルのコーナーにはアンダーヒルを
沈めた回天の破片と思しき金属片が保管展示されているとのことを亡くなったクラム
氏より2年前にその時の状況とともに伺っております。

2003.8.3 M.O.さん(男性)

メールならびにHPへの写真掲載、誠にありがとうございます。
 すでに終戦から58年目の夏を迎えましたが、あの時の出来事は忘却の彼方へと足早
に過ぎていく昨今、だんだんと過去の事柄を正しく把握することが困難になっていく
ような気がしてなりません。
 貴HP「海軍兵学校」が若い世代への一つの指標として役立つことを祈念しておりま
す。
 この度は誠にありがとうございました。
                                                  

2003.8.2 S.さん(男性)
拝啓
 昨日、かねてより念願だった、江田島の海軍兵学校を訪問しました。
想像以上に素晴らしい体験でした。
父上、母上へと題した達筆な手紙に感銘を受け涙しました。
 日本にはまだまだ素晴らしい教育システムが生きているのだと思い嬉しくなりました。

 2003.8.11 J.さん(ジャカルタ在住・男性)
 このHP は実は以前から知っていたのですが、ある人から聞いて 改めて覗き
に来ました。

 私の親父は海軍兵学校の出身であるらしい、と子供の頃から知ってはいました
が、本人が何も語らないのとお袋もあんまりあの当時のことは話したくないらしいか
ら 聞かないように と言われていたこともあり 中学生の頃に家の納戸にあった
親父の古いアルバムの中に兵学校の制服姿の写真を見つけたのとお袋から多少
なりとも聞いた卒業前に終戦となったらしい事、有名な江田島ではなく 舞鶴にいた
らしい事 以外は全く知りませんでした。

 年老いた頑固親父への一種の郷愁からHP上の卒業者名簿で名前を探してみまし
た。 何しろ年度も判らないので卒業前に終戦の一言を頼りに75期生から探し出し、
76期生 マ46分隊 のところで やっと 親父の名前を発見した頃には なぜか 今
まで距離のあった親父が近くに感じてしましました。 沿革史によると 76期の舞鶴分
隊は機関専攻だったようで、確か親父は工業学校出身だったはずなのと その後
旧制高校から大学工学部へ進んでいることなどを考えると やっと 親父の青春の一
部をかいま見たような気がしました。(旧制高校から先のことは 親父の口から直接聞
いたことがあるのです) わずか 1年少しの在校期間ですから話すような事はあまり
なかったのかも知れませんが…

 それにしても 最後のほうの生徒数の多さにはいささか 驚かされました。 このよう
な多くの生徒をもれなく処理されている このHPの管理者の方に頭の下がる思いです。

ちなみに、私の中学時代の制服が 旧海軍の冬服と同型(いまでは学習院型制服
というらしいですが)で、この上着を寸詰すると兵学校の制服になりますね。 
道理で中学卒業のときの親父が私の制服姿を見る目がちょっと異質であった理由
がわかるような気がしてきました。

 りっぱなHPの作成ご苦労様です。 これからも がんばってください。 一言お礼が
言いたくてメイルしました。

2003.8.11 J.さん(ジャカルタ在住・男性)
 このHPを改めて見るきっかけとなったある人とは フォーラムにでてくる O.K.
氏です。
 O.K.氏をヒューストン号に連れていったのも、彼の言う参考文献を書いたの
も私なのです。 

 数年前にあちらこちらの資料を探し、ヒューストン号とパース号を海底から探し
出しました。 1960年代にバース号はオーストラリアの元空軍パイロットに
よって発見されていたのですが、彼の著作には正確な位置が示されていないこと
また 当時の海戦図の8割は間違っており あまり当てにできなかったことなど
もあり、現地の村の長老や古い漁師さん達の話を参考に 文献記録から 当時の
航路を想定して 推定海域を探したわけです。

 当時の海戦図は 米国、オーストラリア側の生存者がみな終戦まで捕虜になって
いたこともあり 戦後 日本側の記録をもとに作成されたと思えるものが多いの
ですが、その日本側記録で バビ島 と 現在のパンジャン島を誤って図面に記
載しているものが多いのです。 そうした海戦図によると わずか水深5〜10mの
バンテン湾で海戦が行われたことになり非現実的になってしまいます。

 この海戦で誤射により沈んだ輸送船のうち 数隻は戦後サルベージされてくず鉄
処理されたそうですが、まだ1隻は沈んでいるようです。 どうも水深15mくらいの
浅瀬のようで 過去に潜ったダイバーの話はあるのですが、現在は位置不明(推定
位置はあるのですが)となっており 近いうちに見つけたいと思っています。

 これら輸送船は転覆したのでなく、座沈というのか 水深が浅いため 船体の一
部が水面に出ていたそうで、地元長老の話もこれを裏付けています。「佐倉丸」
「竜城丸」「蓬莱丸」「竜野丸」のうち どの船が引き上げられ どの船がまだ
海底に鎮座しているのかもしわかりましたらご教示お願いしたいのですが。 
「蓬莱丸」はどうも 引き上げられたようです。 私自身は「佐倉丸」が残って
いるのではと推定しています。

 「第2号掃海艇」は本来の掃海艇としての機能ではなく、別の用途でこの作戦に
従事したようですね。 先のオーストラリアのダイバーがパース号を探している
ときに 発見した沈船がこの「第2号掃海艇」ではないかと おもわれるのです
が、(彼の著書では パース号にしては小さい、水深40m付近で 推定パース
号位置よりかなり西側…とあります) こちらは 船体がまあ言えば付属艦艇な
ので 記録がほとんどありません。 なにか 参考になるような記録は残ってい
ないでしょうか?

 この海域は 旧日本軍が上陸地に選んだように 海岸線に湿地地帯がなく 比較
的陸に近いところまで水深30mあり 現在 大規模な産業用港を建設すること
が計画されており、 日本の調査会社により 基礎計画が作成され始めていま
す。 実際に工事が始まるのは10年も20年もあとのことかも知れませんが、
少なくとも次の世代のダイバー達は潜ることのできない環境になっているでしょ
う。 それまでに なんとか 全容を記録に残しておきたいと思っている次第です。

管理人からの返信
2回にわたり、貴重なメールありがとうございます。
大変興味深く拝見させていただきました。
 
ご照会の件、小生門外漢のため、残念ながら知識を持ち合わせておりません。
但し、貴重な内容ですので、「NAVAL FORUM」に掲載させていただきました。
差し障りがあれば、ご連絡下さい。
 
今後とも、よろしくお願い申し上げます。