「祖父・父ともに海軍兵学校」
不撓不屈の精神で飛行船復活を

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株式会社 日本飛行船 (NAC)
代表取締役社長 渡邊 裕之さんより(2003.5.30)
hiroyuki_watanabe@nac-airship.com
http://www.nac-airship.com/

はじめてお便り申し上げます。
 
実は、祖父が兵学校49期、父が兵学校77期(岩国)であったご縁があり、本日貴ホームページを発見して祖父の名前を見つけ嬉しくなってお便り致しました。今週は実はもうひとつ古本で昭和19年刊行の和田秀穂中将著「海軍航空史話」という本を入手し、そこにも祖父のことが出ておりましたので感新たにしたばかりでございました。
 
わたくしは、渡邊裕之と申します。昭和32年生まれですので、完全な戦後世代ですが、祖父 渡邊正弘は明治33年生まれで、大阪北野中学から兵学校に入校、昭和4年4月赤城の母艦搭乗員として済州島沖で演習中、天候悪化により編隊ごと母艦に帰り着けずに不時着水し、ほとんどの方は駆逐艦や漁船に救助されましたが、祖父の機と同行機の2機計4名が殉職致しました。時の赤城艦長が山本五十六大佐であられたので、伊勢市にある祖父の墓石は表は加藤寛治大将、裏面に山本五十六艦長の筆で書いて戴いております。山本さんは当時赤城艦内で立派な海軍葬をしてくださり、後に聯合艦隊長官となられてから伊勢市の遺族一家を訪ねてくださったとのことで、父は長門の文鎮を、叔母は市松人形をお土産に戴いたそうです。2年前の5月23日にその父も癌で永眠し、祖母も叔母もすでになく、伊勢の実家は空襲で焼け、残るは墓石のみとなりました。
 
父 渡邊穹(みそら)は、三重県津中学から兵学校に入校、半年で終戦を迎え、後に医師になりました。外務省の医務官を勤めたあと、最後に念願の船乗りとして商船三井客船の新さくら丸・ふじ丸・にっぽん丸の船医を務めました。70歳を迎えて引退したらすぐに病気となり、21世紀を少しだけ見て逝ってしまいました。本人は巡洋艦の艦長になるのが夢だったらしく、人生の最後に世界一周も含め海上勤務ができたので、とても喜んでおりました。
 
先の大戦では多くの方々が亡くなられ、祖父はまだまだ平和な時代に公務死した関係で盛大な葬儀を海軍にして戴いたものと、申し訳なくもありがたく思っております。
 
山本五十六さんの伝記(反町栄一著)にも一部紹介されている三和義男少将が遺された手記から、あるエピソードがあります。大正13年末に霞ヶ浦航空隊副長に山本五十六大佐が着任されてしばらくした頃、聯合艦隊司令長官が霞ヶ浦を視察された際、夜「霞月楼」で県の高官と参謀を交えて一献傾けておられたところ、たまたま襖一枚隔てて隣で航空隊の若い猛者連数名が飲んでおり、酒もまわったところでだんだんと盛り上がり、酒席に階級の上下はないなどと隣になだれこんで、長官もこれを許され一緒に飲み始めたそうです。そのうちにある若い海軍中尉と参謀が相撲をとりはじめ、勢い余って参謀を組み敷いたところ、なんと参謀の肋骨が折れてしまい、その席が滅茶苦茶になってしまったそうです。不運であったのは部内のみならず県の高官もおられたために、ただではすまず、翌日酒も醒めた若い連中はさすがに神妙となり、処分も免れない情勢となったとき、山本副長が本人達には厳しく叱正した上で、海軍航空隊の将来を担う青年将校の未来を奪うべきでないと関係各所を回って頭を下げてくださり、ついにお咎めなしに落着したそうです。
 
じつは亡くなった祖母が祖父の死後同期生の方から伺った話として、その参謀を組み敷いた当の本人が祖父であったそうです。私も父もそうですが、祖父も髭が濃く、生意気に少尉の頃から髭をたくわえていた関係で渾名が「ヒゲナベ」であったそうで、この件でなおさら有名になってしまい、長官からも「オウ、ヒゲナベは元気にしとるか」と覚えられ同期生にうらやましがられたとか。一方でおそらく祖父はこの時の山本副長の温情は決して忘れなかったに相違ありません。
 
時は巡り、駐米武官と五十鈴艦長を経て赤城に着任された山本艦長のもと、儀装委員から初代の母艦搭乗員となった「ヒゲナベ」大尉は一三式艦攻に乗り、史上初めて空母から編隊による敵艦隊攻撃演習に向かったわけです。そして昭和4年4月20日前述の事件に遭遇、この時の編隊長は菊地朝三大尉で、祖父は第二小隊長、同行機は第一小隊二番機の小島由成中尉機であったそうですが、残念ながら各々同乗の偵察員花井兵曹長、小川兵曹とともに2機4名の搭乗員が殉職したわけです。当時は指揮官機にのみトンツーの電信機が装備されているのみで、この事件が引き金となって後に無線方向探知器などの電波兵器の開発が促進されたと祖母が後に同期生の方から伺ったそうです。
 
遭難後1ヶ月以上たってから今の韓国沿岸に祖父と小島中尉の遺体が漂着し漁船に回収されました。飛行服から出た祖父の手帳には20日の欄に「午后6時着水 天皇陛下万歳 飛行機ニテ死ス 本望ナリ 」としるされ、翌日のページに祖母に対する言葉が短く「美しく清く過ごしてくれ いろいろありがとう」と綴られていました。遺骨を受け取りに赤城から当時の朝鮮に行ってくださったのは、後の厚木航空隊司令、当時の小園安名中尉でした。もう一機の小島中尉は水泳の達人で、荒天の海上で短い時間で水没したであろう母艦機の機上で祖父が手帳をしたためている間に、泳ぎ着き機の信号灯の電線で祖父の身体と連結し、なんとか泳ぎきって助けようとして下さったのですがついに力尽きた模様でした。その時の祖父の飛行服や手帳は兵学校の教育参考館に納められ、後に入校した父も見たと言っていました。終戦時にこれらは他の資料とともに処分されたと聞いております。父は祖父が殉職してから半年後の昭和4年10月に出生したので、生まれながらにして父なし子でした。
 
海軍は軍隊である以上非情な闘いの組織であり、特に先の太平洋戦争では玉砕や特攻という人道の限度を越えた悲劇が起こりました。また戦後のあまりにも歴史を教えない歴史教育のなか、こうした平和な時代の海軍の話はますます風化してもしかたがないのかもしれません。それに大戦中に大変なご苦労と功績を挙げて戦死された多くの方々と比べれば、身内の演習中の殉職などは語るべきではないかも知れません。しかし亡くなった祖母は24歳で未亡人となり、空襲で家を失い、僅かな蓄えや遺族年金も預金封鎖やインフレでほとんどなくなり、戦後は多くの海軍の遺族の皆様同様赤貧の生活を過ごしました。そういう経験をした祖母が孫の私に祖父や海軍士官の世界を語るときは、いつも平家物語などの軍記ものの世界のような、すがすがしい美しい海軍の雰囲気のことを話してくれたのです。むつかしいことはわかりませんが、少なくとも我が家にとって山本五十六元帥や祖父の上司・先輩・同僚・後輩の方々がしてくださった数々の温情あふるるお心遣いは、永遠に忘れられない海軍の美しさであると思っております。当時の情勢を考えず現在の目で安易に山本長官や当時の海軍の批判をする書に出会うたび、心から悲しみとくやしさを感じます。
 
伊勢市にある海軍が建ててくれた立派な祖父の墓を、癌になった父の命を受け、まるで軍艦のデッキのように手直ししました。父は亡くなる直前にその墓を自分の目で見ることができ、自分が思い描いた通りの出来だと誉めてくれました。そして2年前その軍艦に永遠に乗艦したのです。墓地の管理人さんの庭には、戦前山本長官が祖父の墓にお参りをして下さった時に持ってこられた無花果の木が今も新緑の葉を見せています。
 
私は海軍兵学校で教育を受けた者の子孫として、伝えられた海軍の歴史や精神を自分なりに魂に刻み込み、これからも一人の日本人として頑張って生きてゆこうと思っています。それが祖父や父から受け継いだ最も価値のあるもののように思います。最後になりましたが私は今日本に飛行船を復活させようとして、日夜懸命に努力を重ねています。ぜひ一度ホームページをご覧になってください。http://www.nac-airship.com/ 決して金儲けのためではなくこれからの日本のために必要な事業であると信じ、困難を背負いつつ伝統の不撓不屈の海軍魂で頑張っております。
 
長いメイルとなりましたが、失礼を省みず少しでも海軍兵学校で育まれた大先輩の皆様やそのご家族にお話をしたくて書きました。どうかお赦しください。
 
それでは皆様ごきげんよう!

株式会社 日本飛行船 (NAC)
代表取締役社長 渡邊 裕之さんより(2003.6.2)
hiroyuki_watanabe@nac-airship.com
http://www.nac-airship.com/ 

早速ご丁重なお返事を賜り真にありがとうございます。
 
サイトへの掲載は大変名誉なことと存じますが、数々の戦記などから拝見するに大変なご苦労をされた方々が大勢いらっしゃるなか、平時の殉職をした祖父の話をご披露することなど申しわけないのではとも思い悩みました。しかし一方で戦争の悲惨さのみが取り上げられるのではなく、海軍の良き伝統や美しい精神を当時の海軍軍人は持っておられたということに、一遺族としてあらためて感謝申し上げることにも意義があると考え、お願いすることと致しました。
 
なお、氏名も含めそのままの姿で掲載して戴いて結構でございます。むしろ私同様、祖父の同期の方のお孫さんとか、父の同期の方のご子息とも交流ができたらと思います。兵学校はなくなってしまっても、その子孫として何かを受け継いでゆきたいと考えております。ただひと言お断りしなければいけないのは、亡くなった祖母からの伝聞など今となっては確かめられないこともあり、用語上のことも含め記述に不正確な内容があるのではという懸念がございますので、この点は何卒ご容赦戴き、また直すべき点をご教示賜れば有難く存じます。
 
飛行船のこともリンクして戴ければ誠に嬉しく存じます。軍縮のあおりで昭和8年に解散してしまった海軍飛行船隊の歴史や、1962年まで存続していた米海軍飛行船隊の話など、こちらはこちらでいろいろエピソードがありますので、ご興味があればまたお伝えしたいと存じます。こうしたことにも若干触れておりますので、ワード文書で某誌原稿用に最近取り纏めた飛行船に関する文章をご参考までに添付させて戴きます。
 
それではよろしくお願い申し上げます。