「海軍時代の思い出」を読んで

西野好海 2007年8月5日

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【プロローグ】

    「旅に出たい、全てを捨て、旅に出て路傍の石仏に弔いたい
     冷たい夜になると胸が締め付けられる 戦いの記憶が蘇る
     10年過ぎたのに まだ、西行法師のように自分はなれない」
        
 平成18年11月30日に父が帰真して49日が過ぎた頃に、母から一冊のノートを渡された。父が挨拶や弔辞などの原稿を書いていたノートらしい。その中に海軍時代10年間を回顧した「海軍時代の思い出」があった。生前にこれを見ていれば、父に海軍兵学校のホームページを見せて、名前などもより正確なものにしてあげられたのにと残念に思った。戦争についての生々しい体験談を読み、いくつかのキーワードをインターネットで検索するとたくさんの情報が手に入った。父の文章を補足し、遠い昔に聞いた「旅に出たい」と言う、不思議な父のうめき声を考察してみようと、先の太平洋戦争自体を”今は亡き父”と見直してみることにした。

 父が海兵を志願したのは経済的な理由が一番大きかった。兄の篤行が慈恵医大に進学し、農家の婿で、教員であった祖父の勇三が学費の工面に苦労している姿を見て、海兵・陸士を志望したそうである。兄の篤行は弟が軍人になることに反対していたと言う。大正デモクラシー期に青年期を迎えていた12歳上の兄にとって軍国主義の風潮を好ましく思わなかったのかもしれない。小学校の校長を歴任していた祖父は、写真を見ると顔つきは父と似ているが、話によると父の激しい性格は母親譲りらしく物静かな人だったようである。そんな祖父には立場上からも息子の海兵進学に反対は出来なかっただろう。父は祖父について「何時もきちんと正座していた。家で寝転んでいる姿は見たことがない」と話していた。また、平成17年6月の父の日に米寿と叙勲の祝の席を催した折、孫達に、「昭和15年のシンモ湾封鎖作戦で敵の奇襲攻撃に遭い全滅するかと思った時、突然、前年に死んだ親父があらわれて逃げ道を教えてくれたので助かった」と話している。これは、父親がいつも戦場の息子のことを心配していた、親父には心配を掛けたと言う話でもある。

 父にとって本当に海軍兵学校が「聖天地における自己陶冶の場であった」は疑問がある。一つは、父が「成績優秀者が受ける恩賜の短剣を思想面に赤紙が貼られていたからもらえなかった」と言っていた。母の話でも、海兵の同窓会ではいつも「西野は優秀だったが、あれがなければ」と言われていたと言う。あれとは「何故、陛下に忠節をつくさなければならないのか」と言ったことである。終戦近くになって、浜名海兵団の主任教官になった父が大講堂で生徒からの質問に「この戦争は負ける、敵に遭ったら逃げて帰れ」と2000人の生徒に話したそうであるが、海兵時代から無謀な戦争に突入しようとする日本の軍隊にたいする訳の分からない不信感が生じていたのかも知れない。

 2つ目の理由は、父がその問題に悩み始めたとされる昭和11年の春に2.26事件が発生している。このテロ事件は、昭和7年に起きた大洗町の僧侶井上日召を首謀者とする血盟団事件や水戸の思想家・橘孝三郎が首謀者となる5.15事件と同じ性質の事件である。当時の父がこれらの情報に無頓着であったはずはなく、むしろ、疲弊する農村に育った父は実行犯の青年に同情をよせていたと思うのである。一人一殺を掲げた血盟団の実行犯で三井財閥の団琢磨を暗殺して無期懲役となった青年・菱沼五郎は、戦後出所して大洗町の小幡家の婿となり後に県会議員・小幡五郎となるが、父とは自民党茨城県連の役員として長年にわたり行動を共にし実懇にしていた。後に舅となる水戸の絹糸貿易商の藤井幸造は愛郷塾橘孝三郎の支援者であったが、そのことを「商人であっても水戸の親父は偉い」と評価していたことなどからも十分に同情していたことが想像出来るのである。

 この頃の父の心情を知る事の出来る文章があった。
勝田青年会議所の10周年記念事業として作成した郷土史のスライド映画
「海と神々と太陽の大地」の記念誌に父が次のようなメッセージを贈っている。

 「貧しいけれど静かでのどかな故郷の古老から、南海封鎖作戦に従軍中の私の元に1通の便りが届いたのは昭和15年の夏の頃だったろうか。勝田に工場が来る事になるというニュースである。私は2千里はなれた南海のはてから故郷に思いをはせて、次ぎの様に返書を送ったことを憶えている。
故郷が発展することはうれしいが、美しい自然と人情とが工場のばい煙でよごれ果ててしまわなければよいがと…
 昭和20年冬、終戦と共に復員帰郷した私のまえにあった「ふるさと」は、ばい煙によごれ果てたものではなくて、戦禍に打ちひしがれて瓦礫と化した工場群を持つむごたらしい姿であった。ただ、それにも拘らず、農村部の人達は昔とかわらぬ姿で暖かく迎えてくれたし、工場の社宅に人達も未知の人々ではあったが付き合ってみると皆いい人達であって、その意味で安堵もし、同時に人々が集積すれば人情が軽薄になるという漠然とした私の心配が全くの杞憂であった事を知らされたのである。
 困ぱいから立ち上がった当時、勝田の誰もの願いは貧苦からの開放であり文化への憧憬であった様に思われる。ふるさとづくりの追求する価値は、時代によって変わるかも知れないが、その成果があがるかどうかはその地区に住む人の誰もがその事に関心を持つかどうかに依ることは間違いない事実であろう。世界に啓がれる輝かしい未来を持つ私共の郷土をより良くする為に住民参加の意識がこの青年会議所の企画により一層高揚されることを期待するものである。」
 
 父はいつも紋切り型のあいさつをしなかった、それが政治家としての人気の秘密でもあった。祖父の勇三がよく声をだしてあいさつの練習をしていたそうだが、父もそれを受け継いで声を出してよく演説の準備をしていたのを思い出す。
昔の選挙は学校の体育館などで立会演説会があり、父は劣勢の選挙戦を演説会で逆転させたことが何度もあった。この祝辞にも、父のそんな真骨頂を見る思いがする。そして、私は軍需工場進出のニュースに反応した父の言葉に戦争に対する醒めた気持ちがあることを奇異に感じていた。その答えがここに隠されていたのである。

 この昭和15年頃は「幾度か死地に入ったことがある」と言っているように中国沿岸部で激しい戦闘を経験している最中であった。掃討作戦で地区を制圧すると村長ら村の幹部を集めて懇親会を開催していたらしい。たぶん、現地人が日本軍幹部を招待する形で宴会が開かれるのであろう。心からの歓迎会であるはずがない。そんなおり、25歳の父は一人の中国人から「日本の青年はあまりにも世界を知らない」と言われて愕然としたと話したことがある。無謀な戦争に突入してしまった日本、天皇を中心に一致団結しなければならない社会情勢等、手に負えない問題を抱え込みながら、日夜、目前の敵と対峙していなければならない青年将校の苦悩の深さを垣間見るのである。

日本海軍の歴史は80年、その40年目の1905年に日本海海戦でバルチック艦隊を撃破して大勝利した。その様子を従軍していた、後に勝田町町長となる若き日の打越信太郎は「山の如き?艟もくずとなりて、海水ために赤く、しかしてなんの益かあらん」と書いている。まさか、日本海海戦の勝利が、日本をしてアメリカの仮想敵国にしてしまうとは誰もが想像だにしなかったことであろう。しかし、現実に仮想敵国となった日本はアメリカに悲壮な覚悟で宣戦布告し、1945年には打越信太郎が見たように、今度は日本の連合艦隊が太平洋の藻屑となり日本海軍は消え去った。
その原因は数え切れないものがあろうが、大正10年からはじまる海軍軍縮のワシントン条約やロンドン軍縮条約に対する国内の条約派と艦隊派の派閥抗争であり、陸軍と海軍の「日独伊三国協定」をめぐる戦略不一致に要因があったことはまぎれもない。

父が海軍兵学校に入学した昭和10年当時は海軍内部の条約派は更迭され、「訓練に制限はつけられない」といった精神主義の流れが加速しだした時期だった。父がつれていかれた「憂国同士会」は条約派の軍人の会合と思われる。英国海軍を手本に作られ優等生と言われた日本海軍が「あまりにも世界を知らない」と言われる程に独自の精神主義の世界に陥ってしまった。その危険性が、憂国同士会の面々には見えていたのかも知れない。それにもかかわらず、艦隊内では有事に備え、戦闘中を想定して立ったままで5分間睡眠を行うなどの猛訓練が行われていた。

平成19年6月23日、私は広島県三原の広島空港近くにある佛通寺を訪ねた。父の想い出を読んで、父の一生もまた「仏の十全に導かれられていた」と強く感じたからで、佛通寺での体験がその縁になったと思ったからである。父も引退後に同じような気持ちで訪ねたのだろう。本堂に入る小さな木橋の手前に幹周り5m近くあるイヌマキの古木があり、古い禅寺の歴史を物語っていた。70年前、二十歳の青年達もこのイヌマキの年輪に圧倒されたのだろうと思いながら苔むした庭石と樹木、古い建物が調和した禅の世界を現している境内に入った。

 佛通寺を尋ねるに当たり、インターネットで山崎益州や藤井虎山を検索すると「戦闘機 臨済号 献納への道」と言う本があったので取り寄せた。その中に「禅学研究」という戦時体制下の禅のバイブルと言われた当時の老師たちが書いた本の内容が記述されていた。それらを引用して、あの場面を補足的に再現して見た。
30人の生徒達が剣道の稽古着姿で禅寺の講堂に正座している。その前に立って、臨済宗佛通寺派の山崎益州老師は尊王と禅について「本来無一物、無所得,只管に天皇に帰一し、帰命すること。これ国民大悟の境涯なり」と語る、また「大死一番自己を空しゅうして、無我の境地に立って勇猛努力することが法身佛を体得する事」だと言う。それは毎年200人からの海軍兵学校の生徒達に言い続けてきた「国体の精華」、今日のイスラム原理主義者が「ジ・ハード・聖戦」を叫ぶ情景と同じであったろう。訳の分からない感情の昂ぶり、本来、いのちの尊厳を守るはずの宗教が全く逆のことを教義としてしまう不条理が行われてしまう。それでも仏は慈悲の光を投げかけてくれていたと父は知り訪ねたのだろう。

 私は門前の茶店で藤井虎山老師の13回忌の法要が去年あったこと、海兵出身者がたまに老師を訪ねて来ていた事を聞いた。そして、藤井虎山老師が著わした「いのちをみつめて」と言う本を購入して読んでみたが、海軍兵学校の生徒達の話は一行もなかった。

 昭和60年10月に父が茨城県遺族連合会の主催したニューギニア戦跡慰霊巡拝団の顧問として参加した時の記録が小冊子となって残っていた。この旅が「海軍の想い出」を書くきっかけになったのかもしれない。

 南方戦線戦跡を旅した父には、ニューギニァ東方のガダルカナルで戦死した豪傑・佐藤康夫指令(44期・静岡)の最後が思い出されていたに相違ない。たぶん、清水の次郎長のような佐藤親分はかっての上司である五藤存知司令官(38期・水戸)の後輩である父に眼をかけてくれたのかもしれない。父はよく人物を刃物にたとえ、カミソリ、日本刀、ナタと分類した。そして、お前はナタになれと言っていた。ナタに例えた時、父には佐藤指令官がイメージされていたのではないかと思った。
文芸春秋の8月号に、日本海軍が特集されていたが、その中に「艦長は艦と共にせよ」と言う命令がどのような経緯で出され、そのことが戦局にどのような影響を与えていたかが述べられていた。それはポジティブなものではなくむしろ血迷った命令であったろう。
それにもかかわらず、おおくの艦長は艦と共に沈んでいったと言う。そして、人材不足に悩みだした司令部は一転「助かる場合は脱出せよ」と命令が変更されたと言う。そんな司令部の不統一をよそに現場では必死になって血みどろの戦いをしていたのである。
「武人としての美学を貫き通した日本人がいたことを、そして今尚、紺碧の海に沈んでいることを忘れてはならない」と呼びかけている。

 子供の頃、「会ったことのある偉い人の話をして」と頼んだとき、父は山本五十六元帥の話をしてくれた。「連合艦隊指令長官の山本元帥が飲み物を飲んだ時、蝿の死骸が入っていた。元帥は「ウ」といったが、騒がず、口の中に指をいれて蝿の死骸をつまんでテーブルに黙って置いた」と言った。ここにもナタのような男がいたのである。山本五十六は在米勤務の経験があり、アメリカの戦闘力を十分に知っていたし、戦艦をぶち壊して飛行機をつくり海軍を空軍にすべきだと主張したほど先が見える元帥であった。無論、アメリカとの開戦に反対した条約派の頭目であり、三国同盟にも強く反対していた。
 その山本五十六を検索すると、凡庸指令長官山本五十六など神格化されたものをぶち壊すような記事が多い。ミッドウェー作戦の失敗や真珠湾攻撃での不徹底が批判されている。

 太平洋戦争は神格化された東郷元帥が現役でいたことにより艦隊派を生み、日本海海戦の成功体験にとらわれた勢力を作り出してしまい、条約派の更迭という最悪の選択をしてしまった。歴史は繰り返すと言うが、企業経営に於いても同じような事は言えるのである。

海軍時代の父は幸いにも、山本長官をはじめとする大局を見られる上司に恵まれていた。人の感情は瞬間的に大きなエネルギーを生み出し、時として理性を打ち負かすことがある。今、振り返って先の太平洋戦争を見てみると、大局を見る理性が、恨みや・蔑み・驕りといった感情に負けてしまって起きた戦争だったのではないだろうかと思う。
戦争を知らない時代に生きている者が戦争を云々することは僭越であり、また今は、父の代弁のつもりが、およそかけはなれた女々しいものになってしまったと後悔している。

【エピローグ】

 62年目の終戦の日を間もなくむかえようとして、今日、父の新盆のかざりをした。
 父の「海軍時代の想い出」を補足しょうと書き始めたが、父の心情とはかけはなれたものになってしまった。センチメンタルな息子だなと笑っているかも知れない。
私が生まれた昭和二十二年頃、父は帰郷し、白砂青松の村松海岸で塩焚きをしていた。海の水を汲んで釜で煮て塩を作る。原始的な単純労働の職業をどうして始めたのか。潮気が抜けることが不安だったのかもしれない。
 
 いま、その海岸は核燃料サイクル機構と常陸那珂港に挟まれている。
 
 いずれも、父がその実現に尽力した施設である。私は「仏の十全」を思うのである。
この港を使って、資源や製品が世界を行き交う平和な世界を築くことが、英霊に応える使命だったと言うのであろうか。
                   
(原文ママ)