「特別休暇」

第77期中川礼二

ご子息中川穣二氏手紙全文

前略。
第77期マ45(484)分隊
「中川礼二(函館市立中)」の息子の中川穣二と申します。
偶然にも海軍兵学校のホームページを見つけてメールいたしました。
父は昭和六十年四月六日(享年五十八歳)で亡くなりましたが、
その、死ぬ間際に書いた海軍兵学校時代の思い出の作文がございます。
機関誌江田島に起稿したものですが出来ましたら、
ホームページに掲載していただければ父も喜ぶと思いメールしました。
父は当初、海軍兵学校七十六期生として入校しましたが、
破傷風で入院したために七十七期に移りました。
以来、途中で倒れた屈辱に四十年間さいなまれ続けていたと、
父は死ぬ間際に語ってくれました。
では、よろしくお願い申し上げます。
敬具。中川穣二



昭和六十年四月六日死去(享年五十八歳)。
九ヶ月にも及ぶガンとの壮絶な闘いの後であった。
自らの生命の残光を予測したが故に、言い遺さずにはおれなかったのだろう。
生死のはざまで書かれた一篇は夫々に人への感謝の心に尽きており、個人が典型的なサイレント・ネイビィであっただけに、その憶いが激しく胸を打つ。
「特別休暇」は、故人が海軍兵学校在籍中の鮮烈な思い出を吐露せずにおれなくなったのであろう。
編集部に届いたのは三月も末で、まさに故人の絶筆となった。
ここに、故人の人柄を偲び、ご冥福をお祈りする次第である。合掌。
(江田島 編集部)


「特別休暇」


 七十七期の入校教育期間も終ろうとしている四月末、私は舞鶴の病棟のベットの上で悶々としていた。五月になったら分隊に戻らねばならないのだが、三号(破傷風)を二度やるなんて、全くついてない話である。

 そんな或る日、杉町分隊監事から呼び出しを受けた。どうせしっかりやるようにとの話しだろう位に思って出かけたが、分隊監事の口から出たのは、全く思いがけない言葉だった。病気の母の見舞いに一週間の休暇を与えるというのだ。当時私の母は確かに病で床に臥していたが、明日をもしれぬ重体というほどのものではなかった。突然の話にとまどった私は、こんな時期に私一人が母の見舞のために帰る訳にはいきませんといったが、分隊監事は「そう堅く考えるな。気軽に帰って来い。」といわれて、言葉を切ってしまわれた。

 翌朝早く烹炊場へ行って、弁当と分隊監事心尽しの酒保を受けとり、起床ラッパの鳴る前に喜び勇んで校門を出た。服装は第一種軍服。腰に短剣、左手にトランクといういでたちで、意気揚々西舞鶴駅に向った。舞鶴でも兵学校生徒は注目の的である。その後の旅定中においては、人々の視線の集中をいやでも意識せざるをえなかった。

 西舞鶴から敦賀行きに乗り、青森行きに乗り換えた。青森に着いたが駅も桟橋も乗客でいっぱいで、いつ乗船できるかわからないという。連日の空襲で連絡船の大半が沈められたためである。困り果ててまわりを見廻すと水兵の一団がいることに気がついた。何とかならないかと近づくと、むこうから指揮官の上等兵曹が「生徒さん、一緒に乗りましょう。」と声をかけてくれた。おかげで無事翌朝函館に着いた。

 半年振りに帰った函館は、十月出発の頃にはまだわずかに残っていた色彩も全く消えて、寒々とくすんだ街に変わっていた。人々のまなざしもトゲトゲしく、男はヨレヨレの国民服にゲートル、女性は防空頭巾にモンペ姿。その中でモンキージャケットは場違いな感じがし、せめてゲートルを持ってくるのだったと後悔した。家の前に立って初めてホッとした。六ヶ月前と少しも変わらぬ静かな佇まい。この奥には私の家族六名がいるのだ。しばらく玄関の前にたたずんだ後、格子戸に手をかけた。

 函館における五日間は母校を訪ね、友人と会い、またたく間であったが有意義に過ごすことができた。

 一番心がはずんだのは女学校を訪ねたことである。当時私の姉が函館連隊区司令部に勤めており、上司より司令部に遊びにくるように誘いを受けてきた。司令部が女学校の一部を接収していたため、司令部即女学校訪問となった訳である。当日は嬉々として出かけたが記憶に残っているのは、校庭一っぱいに爛漫と咲き誇った桜の花だけで、女学生がどうだったかは残念なことに全く憶えていない。多分、自意識過剰でコチコチになっていたのだろう。

 一番残念だったのは親友の死を看とれなかったことだ。佐藤誠君。彼も熱心な海軍志願者であったが、持病の腎臓病のため断念せざるを得なかった。私が兵学校に入校後病状が悪化、入院生活を送っていた。突然の訪問に彼は涙を流して喜んでくれた。私の軍帽を被り、ジャケットを着てはしゃいでいたが、函館を発った日の夜、病状が急変して亡くなったと後に知らされた。

 うれしかったのは病気の母が、二度と会えないと思っていた息子に会えたことで、目立って快方に向かっていると、帰校してから手紙をもらったことだった。

 帰りは父親が連絡船の船長をしている友人のはからいで、首尾よく船にもぐりこみ、空襲も受けず無事青森着。列車に乗り換え一息ついて気がつくと、近くの水兵の後ろ姿が見えた。六尺近い大男の一等水兵である。昼時になってまわりの人々が弁当を開き始めたのに、その水兵は何も食べようとしない。弁当を持っていないのだ。私はたっぷり弁当を持っていたので声をかけ、一食分を分けて差し出した。夕食も同じように分けあって食べた。

 敦賀で降りるといっていたその水兵が、敦賀に着いて小浜線に乗り換える時も、私のトランクを持って離そうとしない。舞鶴まで送るのだという。散々断ったが効き目がなく気のすむようさせることにした。

 久しぶりの小浜線は落ちついてのどかだった。今までのトゲトゲしい世界とはうって変わって、穏やかで心暖まる風景が見られた。水兵はとうとう私のトランクをさげて、舞鶴の校門までついてきてしまった。別れの時、敬礼した手をなかなかおろさず、上からジッと私の目を見つめる目には、涙がうるんでいた。その涙の意味を、まだ十七歳の私には理解できなかった。

 戦時色濃い、昭和二十年五月であった。

(第77期中川礼二)