『海軍時代の思い出』

海軍兵学校66期生 西野恒郎

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 私が海軍に在籍したのは昭和10年4月から20年12月までの10年8ケ月で、19歳から28歳までの正に青年期の事であった。長い今日までの人生の内で最も想い出の多い期間でもある。
 
 昭和7年に日支事変が起り、日本は急速に世界の孤児への道をたどり始めた。当時の日本は慢性的な不況に悩され、その原因が、ブロック経済政策などにより我が国が不当な締め出しを受け、公平に分配されるべき天与の資源が一部の勝戦国に依って独占されていると誰もが思っていたからである。このような既成の世界秩序を打破して、各民族が共存共栄できる新しい秩序を創るためには戦争も辞さないと言う風潮が日本を支配し、日本は不幸な戦いへ歩みをはじめたのであった。当時、ヨーロッパに於いてもドイツやイタリアで同じような思潮が興り、第二次世界大戦という不幸な時代に突入し様としていた。今にして思えば、貿易や資源の配分に関する国際社会の仕組みの未熟さや不完全さのなせる業であったと考えられる。そうした社会情勢の中で19歳の私は江田島に渡ったのであった。

 海軍70年の栄光に輝く歴史を継承し、祖国の為に戦う中心的役割を担う海軍士官を養成する海軍兵学校の教育は厳格にして充実したものであった。そして。教えるものもこれを承る者も高い誇りを持っていた。

 至誠にもどるなかりしか    言行に恥ずるなかりしか
 気力に缺くるなかりしか    努力にうらみなかりしか
 無精に亘るなかりしか        

 毎日 五省を唱えて内省しながら学業に訓練に精進した3年6ケ月の歳月は正に聖天地における自己陶冶の日々であった。

 岡山県三原の佛通寺という禅寺に、指導教官の松本中佐に引率されて、クラスメートと共に参禅したのは2号生徒の春休みのことだった。当時、関西随一の高徳と言われた管長の山崎益州襌師の死生観という講話を聴くためであった。一朝事ある時は一命を祖国に捧げる軍人として、死の恐怖を超越できる修業が必要と思っていたからである。

 春まだ早い山寺の底冷えする朝、がらんとして広い畳敷きの講堂に、30人が剣道の稽古着姿で正座し講師の入場を待った。先ず、元広島文理大学哲学科の教授が仏門に入り雲水となった藤井虎山という人が1時間半ほど講義をした。死について哲学的な角度から考証した話は実に面白かった。次が益州禅師の講話である。藤井虎山級の雲水でさえ私どもの心を打つ話をしてくれたのだから、禅師は一朝にして死の恐怖から我々を解脱させてくれるであろうと期待して入場を待った。

 しばらくして、立派な衣で正装した禅師が温顔にこやかに入場して来た。その温顔に打たれてしばし寒さを忘れたのであろうか、部屋が急に暖かくなった思いがした。そして、私共の前に端座した禅師は静かに口を開いた。「昨夜は3里の山道を登って当山を訪ねてくれて御苦労さんでした。拙僧は皆が来ると言うので、雨の降りしきる夜空を眺めながら、もっと降ればいい、もっと降ればいいと思っていた。若い頃の苦しみは買っても苦しめというが金を出さずに苦しむことが出来る事ほど有難いことはないから」と言った調子で始められた。それから禅師の若い時代の難行苦行の話が延々と続いた。やぶの中で裸のまま座り蚊にさされてかゆい処をじっと我慢し通した話や、極度の暑さ寒さに堪え抜く荒行を通して不動の平常心を養う行の話しなどであった。正直なところ坊さんの説教としては並みの中ぐらいとしか感じなかった。
 
 そして、最後に死生観の話に入った。禅師は言った。「死とは息の止まることである。これは何人も疑う余地のない事である。人は息を吸いそして吐き出す瞬間には息が止まっている。これも疑うことが出来ない。人は誰でも1分間に17回乃至18回死んだり生きたりしている。」これも禅師の論法から言えは正にその通りである。そして、禅師は次に驚くべきことを言った。「それが何かの間違いで息が長く止まると死んだと言って、にわかに
驚き、悲しむ。私にはその気持ちがわからない。死とは息が止まることである。そして、又生き返る。」そう結んで禅師は立ち上がり席を去った。ものの3分とかからぬ時間の出来事であった。
 
 私共は唖然とした。そして、次の事に気がついたのである。死とは息の止まることで毎日くり返され、生き返っている。仏教の輪廻説であろうか、禅師は知識として知っているのではなく信仰として信じきっているのである。だから死について他に話がないのである。
ただ知識だけを追う世界にいる者には藤井虎山の様に1時間半に及んでも尚語りきれない話がある。而も死を知らないのである。禅師がそうした信仰に到達したのは、死を恐れおののきつつ、難行苦行を重ねて、はじめて到達し得た境地なのであると言うことだった。我々は信仰の力の強さに感動し、立ち去る禅師の後姿を拝む思いがしたのであった。

 数年前50年振りで佛通寺を訪ねたが山崎禅師は無論なく藤井虎山当時雲水が管長として居られたがあいにく御不在だったので逢うこと事が出来なかった。伽藍改築の瓦代を納めて去った。

 強弱の差こそあれ誰でも経験する青年心理後期症状は私の場合2号生徒の時に到来した。
過去に教えられた一切の価値に対して深い強烈な懐疑が生じ自分を苦しめた。「一・軍人は忠節を盡すを本分とすべし」と朝な夕な唱える軍人勅論が先ず分からなくった。苦しさのあまりある日、分隊監事の島田少佐に「教官、私共は何故陛下に忠節を盡さねばならないのですか」と尋ねると、あっ気にとられた様な顔をしてまじまじと私の顔を覗き込み語ろうとしない。答えられない教官を見て頼るに足らずとして、その答えを得る為に自習時間は図書館に通い、倫理書・哲学書・佛書等を手当りしだいに耽読した。大内晴覧の佛書や東洋のカントと言われた西信一郎博士の努力の哲学を読んでいるときは心が静まるのを覚えた。図書館ではよく近くの席で、後に海軍大臣となる、校長の及川古志郎中将が大蔵経の大巻を刻銘に読破していた。人生の目的とは、自分とは…分からぬことばかりが自らに迫ってきた。所詮容易に解け難い疑問に苦しみ、ついに、校長に苦境を打ち明けると「そうした苦しみは決して妥協してはいけない考え抜きなさい」と言ってくれた。好きな剣道のほかは訓練にも身が入らない日々が続き、上級生からは白眼視されるようになっていた。そうした私を、後にシドニー湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込み10軍神の一人となった親友の中島兼四君がいつも傍にいて「貴様どうしたんだ」と心配してくれたが私の苦しみは収まらなかった。 
 
 読書にふけった歳月が確かに自分の思考力を深め、知らなかった世界は拡大されていった。しかし、病的な懐疑の答えは容易には得られない。「知識には自から限界がある。体験を通して別な角度から物の価値を見てみよう」と考え直すようになってようやく心のやすらぎを覚えるようになるのである。わずか数ヶ月の苦悩の月日だったがその間、励まし、或いは教示してくれた先輩や知友のおかげで物を見る力が画期的に広がったことは有難いことであった。そして、海軍兵学校が硬直した軍国思想一辺倒の世界でもなかったことを、誇るべき教育機関であったことを伝えておきたい。

 卒業と同時に海軍機関学校・海軍経理学校のコレスポンドと共に出雲の練習船隊に乗り込み、宮中に参内して天皇陛下の拝謁を賜り、満州・台湾の内地航海を終え、南方方面の遠洋航海にのぼり、昭和14年少尉に任官して第二艦隊七戦隊の最新鋭巡洋艦利根に配属となり艦隊勤務に従事した。

 少尉として艦隊に配属になった頃、中国では満州中支に樹立された親日政権と米英の推す蒋介石政権、及びソ連が後ろ盾の中国共産党政権の間で内戦が続き、支那事変は混沌としていた。海軍の主力連合艦隊は内地にあって、月月火水木金金の猛訓練に従事し、満を持して有事に備えていた。この頃の海軍軍人の間では海上勤務を誇りとし、陸上勤務は潮気が抜けるとして嫌われていた。軍事訓練の間には国策に対する論議もはげしく取り交わされていた。国際情勢が緊迫していた中で、航海長小沢少佐は、私にこう話してくれた。
「日支事変は陸軍主導で実施されている。海軍は陸軍の大陸政策には必ずしも賛成ではなく、そんな戦費があるのなら蘭領印度支那を買収すべきだという考えが強くあるこれが海軍の南進論だ」と語った。2分隊長の小西大尉は「陸軍はドイツ・イタリアとの三国同盟の締結に熱心だが山本五十六指令長官はじめ海軍はこれに反対である」と話してくれた。
 
 休養地に入港すると小西隊長はしばしば私を連れて「憂国同志会」という会合に参加した。
大佐・中佐・少佐・大尉と階級は色々だが15名前後の将校が料亭に集まり国家を論じて丁々発止の議論に夜を明かすのである。私は酒を酌み交わしながら語り合う真剣な先輩士官達の外交・経済政策の論議に耳を傾けながらまんじりともせず夜を明かしたことが幾度もあったことを思い出す。
 
 14年暮れ近く、連合艦隊は後期の訓練を終え別府に入港した。海軍人事が行われる時期で連合艦隊長官山本五十六大将は司令部総長に転出し、豊田副武中将が昇進して連合艦隊長官になるというのが専らのうわさだった。しかし、山本指令長官は連合艦隊に留まった。
三国同盟に反対する山本長官を陸軍の少壮将校がねらうので最も安全な海上に留まらせたといううわさが艦隊内に流れたのもその頃だった。
 
 その暮れが押し迫った頃、私は南遣艦隊に転出を命ぜられ駆逐艦春風に乗り組み海南島に向かった。冬の台湾海峡は波が高く難航海であったと記憶している。英米の蒋介石政権に対する海上よりの武器援助が増大され日支事変が硬直状態となり、南海封鎖の強化の必要に迫られていたからである。私共の第五区艦隊の守備範囲は上海より痍東までの長い区間だった。夜陰に乗じ、或いはジャンクを利用し隠密裏に援助物資を陸揚げする英米の行動を阻止、敵性ジャンクの掃討、親日地区への蒋介石軍の攻撃阻止作戦など任務は重かった。泉州湾作戦・タックツ島掃討作戦・シンモ湾封鎖強化作戦・南オウ島作戦などある時は陸戦隊中隊長として、ある時は徴庸船天山丸の指揮官として戦闘に参加した。幾度か死地に入ったこともあるが、戦場心理に突入した時の戦場での指揮官の責任の重大さ、そして、部下を統率することの難しさなどを直接体験することが出来た。

 この時期、私が仕えた指令は、後にガタルカナル進攻作戦で2階級特進し中将になられた佐藤康夫指令であった。「俺は若い頃、司令官の五藤存知大佐から頭脳雑駁にして勇敢なりと考課表に書かれた」と大笑する豪傑だった。清水湊生まれの佐藤指令は時折行われる佐官の宴会で必ず「仁義すごろく丁半賭けて 」と調子外れに歌いだす。いたずらざかりの少尉の私が「今日は私が歌います」と言って先に歌いだすと満足そうに聞いていた。「航海士 君は俺が何故この歌を歌うか知っているか」と突然聞いてきた。知りませんと答えると「何時か米国と戦争が始まる。今度の戦争は無傷ではすまない。戦争がはじまったら俺は駆逐艦を率いて、やるかやられるか敵艦に向かって突っ込み魚雷を打ち込む、博徒が丁半かけるように」と決意に満ちた表情で言った。先輩佐藤指令は酒席の間にも戦いへの準備をしていたのである。後に聞いた話によるとスラバヤ沖の海戦で佐藤指令は言っていたように、敵の旗艦マーブルヘッドに突入し魚雷を打込で、わずか7分で轟沈させたと言う。

 そして、指令は陸軍のガダルカナル島撤収作戦という敵の制空権下で最も危険な作戦に
自ら名乗り出て参戦し、陸兵を概ね収容し帰途についたのであるが「見張り役がまだ残っています」との報告で引き返し、敵戦闘機に捕捉され爆撃を受けた。佐藤指令は傾きかけた艦の上から全員退艇の号令をかけ、自らの身体をロープで縛りつけチェリー(たばこ)に火をつけ、中天の月を望みながら艦と共に波間に沈んで行ったという。

 昭和16年9月、連合艦隊に転出になった私を南遣艦隊に残った佐藤指令はいかにもうらやましそうに「俺もあとからいくからな」と大きく手を振りながら送ってくれた南支那海の朝の光が強烈に今も私の目に残っているのである。

 再び連合艦隊に戻った私は、第二艦隊第二戦隊4旗艇に乗り込み戦雲急を告げる内で日夜猛訓練に従事した。12月8日開戦となるや南方戦線に進出したが、病を得て病院船朝日丸にて内地帰還した。呉海軍病院に入院、失意に沈んだ病名は胸まく炎だった。退院・転地療養の後、再び軍隊に戻ると戦線は拡大し、後続部隊の教育が重要になっていた。第一線には加わることが出来ず、霞ヶ浦・武山にて予備学生の教官、浜名にて海軍技術見習士官の教官、最後に防府の予科兵学校教官として勤務中に終戦を迎えた。

 わずか10年の海軍生活だったが、幾多の先輩や同志にめぐまれ、苦しみながらも非常時に生きたこの期間はある意味で最も充実した時期であったように思う。海軍とは私にとって何だったのかと訊ねられたなら「どんなに苦しい場面でも、さしせまった場面でも物事の真の価値とは何であるかを、一歩しりぞいて考える習慣をつけさせてくれた社会だったと思う」と言う。


             西野 恒郎  大正6年3月1日生まれ
                    茨城県出身  海兵66期
                    平成18年11月30日没 89歳
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    本稿は遺品のノートに茨城海軍三校会の機関誌掲載のための原稿下書き
    らしきものがあり、それを遺族の西野好海が整理したものである。
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以上,海軍兵学校を考える会のホームページに投稿し2007年4月1日からUPした。

            旅笠道中        歌 東海林太郎

         夜が冷たい 心が寒い
         渡り鳥だよ 俺等の旅は
         風のまにまに 吹きさらし

         風が変われば 俺等も変わる
         仁義双六丁半かけて
         渡るやくざのたよりなさ

         亭主もつなら 堅気をおもち
         とかくやくざは 苦労の種よ
         恋も人情も旅の空

  昔、父が歌っていたのを聞いたことがあるような気がする。何故か節を知っている。



山崎益州  明治15年京都生まれ  戦闘機臨済号献納で老師たちはなにを語ったか
藤井虎山  明治34年東京生まれ  平成5年没 
及川古志郎 (31期・岩手) 開戦前の海軍大臣 漢学の大家 金田一京介と盛岡中で同級
山本五十六 (32期・長岡) 連合艦隊司令長官  父が身近に仕えた司令官
豊田副武  (33期・大分)
五藤存知  (38期・水戸) 水戸中学卒
佐藤康夫  (44期・静岡) 第八駆逐隊指令 ニューギニア東方にて
小西昌良  (59期・鹿児島) 
小沢信彦  (62期・東京) 戦艦大和機関長
海南島   中国のハワイと呼ばれるリゾート地 トンキン湾をはさんでベトナム
                                                              (原文ママ)