[ 意義なんてない日記 ] |
木曜
親の買い物などにつきあっていました。今年最後の通販もちゃんと届いて安心しました。
ムックの不満かいてて思いましたが、ムックってそういやあんなもんでしたよね。 やってて攻略のために読むのではなくて、始めるために読むと思ったらいいのかもしれません。 僕はフレーム表だけスキャンして適当なとこに放置してます。印刷までする時は来るのやら。
今年は個人的には色々と変化が多くあった気がします。ズルズルと続けていた 一つの格闘ゲームから自らの意思できっちりと足を洗ったのは特に大きな変化でした。 とはいえ、GGXXに手を出し始めるなど、結局ゲーム自体はそこそこやっています。
しかし、これまでと比べると明らかにゲームに費やす時間は減りました。 新たな趣味が増えたことや、自分の専門分野が決まったことなどが大きな要因です。 大学にわざわざ通っていて、サークル等の交友関係の一つもないどころか 何の学問分野にも興味が持てずに終わってしまったら、それこそ悲しいですから 就職活動をしなかったとしても、とりあえず有益な期間だったと納得しています。
大学ついでに少し。ある学問分野に興味を持って研究するといえば立派そうに感じるものですが それが、どれほど社会に貢献できるかという観点から冷静に考えれば、何か一つのゲームを やり込むのと何の差も無い場合がほとんどです。医学やら、法律運用ともなれば まさに、その先それによって大きな貢献が出来るに違いありませんが、では例えば 「助詞“は”の機能」(やってる人多し)とかを研究して、その全容が詳らかになったところで 特に何の役にも立たないことは明白なわけです。僕の研究分野も似たようなもので 意義は?と尋ねられても、「その研究を自分が納得行く形でまとめて、その上で 社会の判断を待つより他はなく、意義など最初から考えていない」などと 答えるしかないようなものです(事実このように面接で答えました)。
僕の手元にある澁澤龍彦の本からちょこっと引用します。 「ニュートンは、林檎の落下そのものに興味を抱いたのではなく、その落下の非論理性を 論理的に構築し直す方法に興味を抱いたのである。」(『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫) 僕はこの一節を読んで感銘を受けたのですが、学問研究は、何か不思議に思える現象に対して 自分なりに論理的に説明を与えることが楽しいんだろうなと思っています。 このあたり、ゲームでの喩えが上手く思いつきませんが、僕なんかの対戦観は こういう姿勢であり続けたわけで、これこれを研究すると言ってみたところで 根本のところはゲームと大差ないのです(つまり、役に立つ云々はどうでもよい)。
こんな具合で、今後も生きていくのだと思います。
今年は以上でした。良いお年を。
10/41/23(Fri)
|
|