賢者が語る知恵とは、後世の愚者とそれを忌避し抗う事を望んだ歴史を学ぶ者達が自虐するための道具に過ぎない。
それを糧に今を糾さんと行使しようと努力する者達へ届く事は決してありはしない。
なぜなら、経験なしに積み重ねられた知識は希薄でその心に届かない。 届きはしない。
その知識と記録は、映像と音声と文字で積み重ねようと、本能に辿り着かない。 刻み込まれない。 必ず疑いが残る。
疑いが残らないと強弁するならば、それは自身を洗脳し、不明な余地を思考停止して切り捨てているだけ。
歴史を学び、その種子を抱いた者達が状況に要請されて発芽させるに過ぎない。
種子は多く蒔かれるが、それが発芽し熟し、開花するのは時代が必要としたときであり、 自己の努力と研鑽で種子を芽生えさせることが出来ようと、それを必要とする状況が訪れないならば、ただ腐り、朽ち果て、藻屑となって消える。
多くの者は、ただ発芽することもなく、開花することもなく、それに気付くこともなく、ただ認識しないだけ。
これは、何においても同じ事で、状況・時勢を理解しない無能が引き起こす事態に過ぎない。
その資質、能力、努力が適切な方向へ向かう事が出来たなら。 状況がそれを望む契機に行使できたなら、その人生は幸福になるのであろうか?
恐らくは、そうならないであろう。 満足して死にゆき、後悔せず、幸福な最期を遂げた生命など、この世の歴史にありはしない。
それは自己欺瞞と自己暗示と諦観で納得させただけに過ぎないから。
つまり、諦めただけ。
死の瞬間まで足掻き続けろカス。