潮風のメロディ Copyright 松任谷武志

kindle版(縦書き)
潮風のメロディ -オホーツクの海- 松任谷武志(著)
 沖縄が本土に返還され南の海には平和が蘇ったが、北のソ連と国境を接するオホーツク海は雪解けには遠い冷戦状態が続いていた1970年代。
 日露戦争の時代に戦災を逃れて日本に入国した家族と、地元の大学生のおりなす1970年代を舞台にした冒険小説。
 親子三代に渡るソ連からの逃亡とその終焉。オホーツク海と北方領土を背景に北の海に展開する人間模様。

はじめに
第1章1973年夏
第2章知床でキャンプ
第3章一人知床をあとに
第4章不思議な運命の糸
第5章不思議の国のシンシア
第6章旅立ち
第7章オホーツクの海へ
第8章昨日の街角
第9章その夜
第10章豹変
第11章島へ
第12章シンシアの家族
第13章軍用モーゼル カスタム
第14章試練
第15章銃声
第16章バラの翳り
第17章傷つく世代
第18章新展開
第19章海を越えて
第20章旅立ちの詩
追記 潮風のメロディによせて
 
はじめに
 日本は狭い、世界は狭いとよく言われるが言っている本人がその「広い」、「狭い」の区別が付いているのだろうか。
自分の住んでいる街、そんな小さな範囲でも自分の知らない所が沢山有る。東京にしてもビルと高速道路とコンクリートとアスファルトだけの都市と思われているが、副都心の新宿から西には野原が広がり虫が鳴きとても同じ東京の一部と思えない場所もある。もっとも、その野原から一歩離れた新宿駅の地下には複雑な迷路のような地下街が掘られているのだが。このことを、野原で鳴く虫達は知らない。
 小さい日本の中でも、まだ未知の夢を残しているのが北海道だ。有史以来まだ人間が足を踏み入れた事の無い原生林が残っている。特に道東の阿寒・摩周近辺は観光道路から一歩離れると、まだまだ人間を受け入れない。
 この道東の大いなる自然と青く広がる空、そして冷たく大きなオホーツクの海を背景にこの物語が始まる。

 
第1章 1973年夏
 1973年7月。北海道は例年にない暑い日が続いていた。
雨も降らず土はカラカラに乾いていた。松任谷武志は愛用のライフルを片手に山の中に自分が作った射撃場に居た。ここは道東網走から50km程山の中に入った所だ。
正式に北海道で狩猟が解禁になるのは10月からだ、それより前では山の中で銃声を立てれば警官が飛んでくる。しかも武志の免許はエアーライフルのもので、実弾を撃つことは出来ない。しかし、武志が居る所は近くの農家まで10kmはある。しかもゲートが下りた林道からさらに獣路を進まないとならない。まず、人が来るとは思われない。
1ラウンドが終わって標的紙を取り替えに行く。20発中15発までは9点中だが1発6点圏内のものがある。軽く舌打ちしてそれを破り捨て、新しい標的紙をピンで留める。
2ラウンド撃ち終わると緊張感と暑さのためにふき出した汗が目に入って来る。身体も汗だらけだ。射撃用のチョッキと手袋を脱ぎ捨てて木陰に入って休む。煙草を引き出して火をつける。
松任谷 武志 23歳、その顔には多分に幼さが残っている。まだ学生だ。高校時代から夏は海、冬はスキーと遊び回っていたから大した大学には入れなかったが、いまの道東の大学に入ったおかげで酒や女を追い回して夜のネオンの下を歩き回るような堕落した学生生活ではなく、自然の中で自分を相手に走り回る事ができた。
武志には両親が居ない。武志が生まれた時に母が死に、父親一人の手で育てられた。しかしその父も武志が高校一年の時に車の事故で死んだ。
幸いにも父は武志が生活に困らない程の遺産を残してくれたし、父の妹夫婦が親代わりに面倒を見てくれたから高校時代は大して苦しくはなかった。
大学に入ってからは、その父の妹夫婦の家を出て、一人でアパートを借り生活している。
 煙草を捨てて武志は帰ることにした。標的紙も空薬夾も土に埋める。
ライフルは分解して乗ってきたオートバイのシートの下に毛布で包んで縛り付ける。オートバイはヤマハの4、5年前のツイン90だ。学生の身分だからあまり派手な物は持てない。しかし武志は2万円で先輩から譲り受けたこのバイクを自分でチューンナップして山道を走り易いようにしてある。
林道に出るためにエンジンブレーキのききの悪い2サイクルのバイクを駆って沢を下る。武志が何回か走ったために獣路のようになった場所をゆっくり下りていく。下の小川に出ると、その小川に添って山を下る。途中一箇所だけバイクを降りてバイクと一緒に走らなければならない急な坂があるが、あとは楽に林道まで出ることができた。
林道からは思い切り飛ばす。高速道路と違い石ころだらけの道だから40km/hそこそこしか出せないが、しかし高度のテクニックが必要だ。小さな小石に乗り上げれば、直ぐにカーブの外側に持っていかれる。後輪の横滑りはスピードとカーブの角度から予想できるが、前輪の横滑りは、その時、その時瞬間に対処しなくてはならない。
10km程でアスファルト舗装の国道に出る。武志の口の中はカラカラに乾いていた。時計を見ると林道を平均50km/hで程で走った事になる。途中で対向車に一度も出会わなかったからかもしれないが、普段よりタイムが良い。
国道わきの店で冷たいコーラを飲んでから、今度は国道を制限速度の1割り増し程度の速度でゆっくりと自分のアパートに向かう。
 アパートの裏の空き地のちょうど自分の部屋の窓の下にバイクを停め表に回って自分の部屋にはいる。冷蔵庫からトマトジュースを出してコップに空けたっぷり塩をかけそれを片手にソファーに横になる。今日の新聞を読み直しながらジュースを飲む。目が疲れているせいか眠くなってそのまま眠ってしまった。
 午後8時過ぎに目がさめた武志はまずバイクのシートの下からライフルを取りだしてくる。このアパートで武志は出来るだけ目立たないようにしている。社会は出る釘を嫌う。また出る釘は目立つ。学生である武志が金にあかせて車を買ったり射撃をしたり昼まで寝ていて夜は遅く帰ってきたりではこころよく思われるはずが無い。武志は普段は出来るだけ静かに、気弱そうにふるまう事にしている。目立たないということは何にも優る変装だと思っていた。
ライフルも人目に付かないようにして部屋に持って来る。包んでいた毛布を広げその上で銃口を掃除した。購入してから4、5回しか使ってないし、いつも十分に手入れしているから新品そのものだ。全体に防錆液をスプレーしてから部品のままでロッカーにしまった。こうしておけば盗まれることが少しでも減ると思ってだ。ロッカーの鍵はベッドの足を持ち上げてその下に隠す。
 
第2章 知床でキャンプ
 油で汚れた手を洗ってから食事の用意をしていると学友の吉田が訪ねてきた。片手に安物のウイスキーを抱えている。今は夏休み期間でほとんどの学友は故郷に帰っているはずである。吉田も実家は札幌で夏休みが始まると札幌に帰ったはずだ。
「珍しいな。何か用事があったか?」
武志は手を休めずに聞いた。
「飯の支度か?少し遅いけど。ちょっと飲もうと思って」
吉田は勝手に上がってきて、机の上に肴と酒を広げる。武志は自分の部屋に他人を入れるのは好きではないが、学友の間では半分社会人のような武志のアパートの部屋は結構同級生の集会場所として便利なので集まってくる。別にそれを武志は拒んだりはしていない。。吉田も何回かここに来たが手土産を持って来る気の使い方が解っているようで、そのまま勝手にさせておく。
「チョット待ってくれるか。今、肉を焼いているから」
武志は答えた。
吉田は冷蔵庫から氷を引き出し、一人でロックを作って飲み初めていた。
焼いた肉を皿に盛って武志も付き合って飲む。二杯ほど飲んでいると急に食欲が増してきた。肉に塩コショウを振って食べ始める。
「何か頼みごとがあったんだろう。お土産持参ってことは」
武志は手を休めずに聞いた。
「実は、夏休みの間、皆で集まって知床でキャンプする事になっていたの、知っているだろう」
「知らなかったな。もっとも俺は6月頃からあまり大学に行ってないから」
武志は今乗っているバイクのチューンアップのために自動車の修理工場で半月ほど働いていた。それが6月頃だ。昼間は修理を手伝い夜はその工場の機械を使ってバイクを改造した。もちろんバイト料よりもそこの機械を使うのが目的だった。その間は大学にも行っていない。
「それでさ、おまえもキャンプに参加するだろう」
吉田が決めたように話した。
「してもいいよ。金はいくらかかるんだ」
武志は夏休み中の計画は特に無いので気軽に受けた。
「川上の親父さんが斜里でユースホステルをやっているんだ。そこで食事抜きなら只で泊めてくれるから、会費1万円で1週間、そんな計画なんだ。教授も2、3人来るらしい。釣りをして楽しもうと品田や伊藤が」
「それだけの為にウイスキー持参と言うのは解らないな。。他に何か参加条件があるんだろう?」
「実は、ユース利用だけじゃなくって、知床の先までいってキャンプしようと思っている。そこでテントやその他の物を運ぶのに車が必要なんだけど、知床5湖から先は車は無理でバイクならどうにかなるかもしれない。だから、おまえに頼みにきたって訳だ。頼むよ」
武志は直ぐに承知した。暑い北見でくすぶっているより知床で遊ぶ方がいいと思った。それから1時間ほど吉田は世間話をして帰っていった。武志は昼間の疲れとウイスキーの酔いでベットに入ると直ぐに眠ってしまった。
 次の日、朝8時前に吉田は5、6人の学友と一緒にやってきた。皆遠足に行く小学生のようにニコニコしている。武志はリックに着替えと釣り道具、釣り竿を詰めてバイクに乗った。ゴーグルは邪魔になるので持ってこない。学友の運転するライトバンの後ろから付いて行く。今日も雲一つ無い快晴だ、また暑くなるのだろう。
大学へ登る坂の下を通って誰もが見慣れた畑の風景の中を北見から女満別へ向かう。年に1回は大学のオリエンテーションの研修所へ行くためにここを通る。もう3回もここを通ったことになる。やがて車は網走湖を左に見ながら走る。ここから大曲を右に曲がり今度はオホーツク海を左に見ながら斜里へ向かう。さすが海岸線に出ると気温が下がって来る。と言ってもここらでは珍しく25度以上ありそうだ。
 真っすぐな道が続く退屈な道路で車の数も減りライトバンは武志を振りきるようにスピードを上げる。120km/hを越えるとさすがに付いていけない。しかもゴーグル無しでは前が良く見えない。それでもライトバンの後ろのスリップストリームに入るようにしてついて行く。タコメーターはレッドゾーンに入っている。そのままのスピードで斜里まで30分程走る。武志は自分のチューンアップの腕がまんざらでも無いと感じた。馬力を出すだけでなく、耐久性も出す。実はチューンアップの妥協点をどこに見いだすかによってその作業は違う。武志は大学への通学にも使えて、しかも林道でハイスピードなコーナリングを楽しめるように僅か90ccしか無いこのバイクを改造した。それが、120km/hで走っているのだから。斜里の街が近づくとライトバンも速度を落とす。このころになってエンジンの馬力が急激に落ちた。速度を出している時は風で冷やされたエンジンが速度を落としたのでオーバーヒートしてしまったのだ。それから2、3kmをエンジンをいたわりながら進み、川上の実家の経営するユースホステルに着いた。
ここで教授の伊藤や品田と合流して知床に向かう。
知床5湖からは車を停めて全員歩きだ。武志と吉田がバイクにテント等を縛り付けて先へ進む。吉田は荷物担ぎがそのまま後部シートに乗っている感じになっている。ウインカーも格好の荷物釣りなので、そこにも各自のリュックを下げて、バイクは荷物の塊のようになっている。しかも、侵入禁止の林道は雨にえぐられた溝があったり、木が倒れていたりで、なかなかスピードを出せない。
想定してたキャンプ地に着いたのは昼を少し回った頃だ。荷物を降ろすと二人とも知床の海で泳ぐ。夏とは言っても知床の海の温度は20度を越えない。子どもの頃から泳ぎに自信のある武志だが水の冷たさはどうしようもない。10分もしないうちに唇が青くなってくる。水中メガネとシュノーケル、フリッパーを付けて素潜りでウニやアワビを捕る。監視人は居ないようで捕り放題だ。黒い岩や揺れる海藻の中で、自分の手足だけがあまりにも白く異様な感じがする。
寒さと疲れで毛布にくるまって横になっていると歩いて向かってきた者達が到着した。その夜は武志や吉田の捕ったウニやアワビを加えてファイヤストームを囲んで皆で騒いだ。整地されたキャンプ場では無いが、知っている者は多いらしく東京や関西から来た北海道旅行者、いわゆるカニ族や地元の高校生のグループもここに集まっていた。
隣のテントの女の子達とギターを弾いて歌ったり、声高に話したりして皆が楽しんでいる中で武志は孤独だった。何人かの女の子が声を掛けて来るが何と無く気乗りがしない。吉田は
「夏は若者のためにある」
などと話しかけて来る。
「おまえも楽しめよ。一人離れていられると気になって」
と吉田に誘われるままにグループに加わるのだが何と無くこの場が楽しいとは感じない。
 武志の楽しいと感じる事は軽い笑いの中に有るのでは無く、目的を追って汗や涙を流している時に得られるものだった。しかし、皆との間にギャップを作らないためにも、つとめて明るくふるまった。
 
第3章 一人知床をあとに
 2、3日はそれでごまかせても、そのうち武志自身が自分に我慢ができなくなってきた。4日目の朝、武志は北見市に残してきた用事があるからと言って一人バイクでキャンプ場を後にした。何と無く気分が晴れないので思い切ってバイクを飛ばす。来る途中でかなり酷使したエンジンはいつもより馬力が無い。何度が砂利にタイヤを取られながら何とか斜里に数キロの所まで走ってきた。しかし、ここでピストンが焼き付いてしまった。エンジンの圧縮比を高め、オーバーヒートしやすくなるのを濃い混合気を送って防いでいたのだが、この暑さと強引な運転に完全に焼き付いてしまった。
ギアを抜いて近くの自転車屋を捜して押して歩く。
「こりゃひどい。ピストンを換えて、シリンダーもオーバーホールが必要だ」
店主の評価も武志と同じだった。とにかくここまで押してきて全身汗まみれだ。しかし、気持ちは何か吹き飛んだようにさわやかだった。
「ここでは工場が無いから、網走まで送って交換するから1週間かそれ以上待って貰うことになるけど」
「エンジンが回ればそれでいいんだ。バイクは10日くらいしたら取りに来る。それから、それまで、これも預かってもらうと嬉しいのだけれど」
武志はリュックも一緒に預けた。店主はエンジン交換に等しい修理に武志を上客と思ったのか快く引き受けてくれた。
バイクが無ければ歩くしか方法が無い。汗をかいたことで武志の心のしこりも溶けてしまった。ヒッチハイクで網走に出て、ここで遊んでから帰ろうと思った。
 
第4章 不思議な運命の糸
 2、3年前ある女性歌手が歌うリメイクの「知床旅情」と言う歌が爆発的なヒットとなって夏の北海道観光の一番手に知床があげられるようになった。今は当時ほどでは無いがそれでも全国から知床へ知床へと観光客が訪れてくる。知床だけでなく、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、そしてヤクザ映画で有名になった網走刑務所と観光客は切れることが無い。
本州の観光地では歴史が一つの観光財産だが、歴史の浅い北海道では人間の手による造形ではなく、山や湖の自然が創り出す雄大な広がりが観光資源となる。また、日常体験できないこの大きな自然を目指して、都会から多くの若者が北海道を目指す。
 網走は街自体何も人を引き付けるものは持たないが観光の中継地として観光客は一度はここを通過する。最近は国鉄利用に加えてバスツアーの観光客も増えているので、中継地と言うよりも通過地点になってきている。しかも、若者の国鉄の周遊券を利用した格安旅行では網走は必ず休憩地点になる。そして、若者が集まれば旅の情報交換の場として、ますます若者が集まることになる。
 武志は昼過ぎに魚臭い漁業組合のライトバンに便乗して網走の駅前に着いた。駅前広場では30度近い暑さにまいったのか、噴水の廻りにリュックを枕に昼寝するカニ族が多く見られた。『皆、自然に憧れて都会を逃げてきたんだ』そんな事を武志は感じた。
 駅の改札口の時刻表で北見に戻る列車の時刻を調べるとまだ3時間程待たなければならない。朝から何も食べていないのでかなり腹が減っている。街の中を歩いて何処か適当な所で遅い昼食をとることにする。
しかし、駅前にはデパートやビルが建ち並び、いわゆる食堂のようなものは無い。たまにノレンを目にするのだが、割烹のような感じで足が向かない。知らない食堂で一人で食事をするのがだんだん億劫に感じてきた。入って注文してそれが出されるまでの間がもたない。いわゆる食堂であれば、何週間も前の週刊誌やスポーツ新聞があるので、これを読んで出来上がるのを待つのだけれど、少し高級だと逆にこんなサービスが無いので一人で入るのは気が引ける。
 どっちつかずで街の中を歩いていく。観光地らしくみやげ物の看板が目に付く。一軒のみやげ物屋で武志は足を止めた。その店先には大きな浮き玉が下がっていた。漁師が魚網を沈めるときに浮きとして利用するガラスの玉だ。その店の看板替わりの浮き玉は特別に作ったのか球径は1m近い大きなものだ。この店のみやげ物として大小沢山有るのだろう。武志は荒縄で縛った淡い青色のガラス玉。玉と呼ぶにはイビツで水に浮かべた時上が解るためか片方が重くなっているガラス玉を欲しいと思った。先の知床の海でも人間の生活の跡みたいに海岸にガラスの、それも擦り硝子になった浮き玉の破片が結構目に付いた。知床の記念品にこれを部屋に下げておくのもよいだろう。
 店に入って行くと広い台の上に様々な大きさの浮き玉がころがしていある。野球のボール大のものビーチボール大のもの、縄で縛って釣り下げられるようになっているもの、浮き玉単独のもの、種類も沢山有る。
適当に丸くて適当にいびつで、そして色の綺麗なガラス玉を探した。時間のせいなのか店内には客がはほとんど居ないので手持ち無沙汰の店員が付いて来るので何と無く選ぶのに集中できない。
「あの、この浮き玉ください」
変なアクセントの女性の声がしたので武志は目をあげると、まだ17、8歳の可愛らしい女の子であった。長い髪が印象的だ。
「350円頂きます」
武志の横にいた店員はそちらに歩きながら言った。女の子はサイフを取りだして
「300円しか無いのだけれどそれじゃ駄目ですか?」
と言った。
武志がその手元を見てみると今は珍しくなった100円札が3枚握られていた。
「うちは、値引きしないんです」
店員は冷たく答える。女の子は「そうですかぁ」と言ってとても残念そうに手にしている浮き玉を台に戻した。さっきから武志も不思議に思ったのだけれど、ここの台の上には「浮き玉、大1000円より、中500円より、少300円より」と表示した看板が下がっている。で、少は300円「より」のよりがくせものなのかもしれない。
武志は観光客相手の店ならではのやりかたかなと思った。関西弁で「これ、なんぼや」なんて勢い良く言うと足元を見られて、サイズが少でも500円とか言われるのかもしれない。
残念そうに浮き玉を台に戻す彼女を見ていると怒りすら覚えた。そして同時に『僕が買ってプレゼント、いやいやそれは下心あるように見えるから、自分用とついでに彼女の選んだものを買って、それを300円で彼女に売るってのが良いかな』、どうもこの種の判断では武志の思考は早い。次に展開する事柄を読んで行動に移る。
「これと、その彼女の選んだのと二つください」
一番手元に近い小さな浮き玉をつかんで店員に差し出す。店員は自分が二人のキューピット役にはめられたのを感じたらしく
「一緒に包みますか」
とつっけんどんに言う。武志は気にもせず
「いや、そのままで。いくらですか2つで」
「700円です」。
700円払って女の子と店を出た。
「はい、300円で譲るけど欲しい?」
「え、350円だったのよ」
「いや、僕の選んだのと比べると、僕のは400円の価値がある。だから、こっちは300円」
「プレゼントだよって言わないのが面白いわね。じゃ、300円。私これとっても気に入っていたの」
女の子は笑顔で礼を言ってさっきの100円札3枚を武志に渡した。
「じゃ、ありがとう」
そのまま武志の前を去って行きそうな雰囲気だ。
「え、それだけ!」
「まだなにかあるの? 言ってくれないとわかんないよ」
「じゃぁ、正直に言うけど。少し遅いけど昼を何処かで食べようと歩き回っていたんだ。でも一人じゃ入りづらくて、誰か付き合ってくれないかなと思っているんだ」
「ふーん。私も同じかな。では、助けてもらったお礼に私が助けてあげる」
「それって、どっかで食事しようってこと」
「え!、質問なの?」
女の子は無邪気に笑った。
食事を誘ったのは良いが近くに適当な食事が出来るような店はない。夜の繁華街が近いのか薄汚れた赤チョウチンのような店ばかりで女の子と食事をするにはふさわしくない。かと言ってレストラン等の気の利いた所は近くには無い。せいぜいテパート風な食堂の小旗の立ったお子様ランチが相場だ。
 
第5章 不思議の国のシンシア
 結局、二人は今来た道を戻って駅の食堂に入ることにする。歩きながら女の子に話しかける。
「君は一人で来たの? 名前くらい知らないと不自然だと思うのだけれど。僕は松任谷武志。今大学の3年。旅行の途中と言ったらいいのかな。この隣の北見に住んでいるんだ」
武志は軽く自己紹介した。武志は松任谷の所がチョット気になった。昔からこの名前は立派過ぎて気が引けた。昔、父に話した時、貴族みたいでいいじゃないかと言われたが、やはり気が引ける。
「タケシ? いい名前ね。私はシンシア、皆シンディなんて呼ぶけど、私はシンシアと呼ばれるのが好き」
名字には触れずに、タケシと名前で呼んで来た。
「シンシア? それってニックネームだろう。本名は?」
「本名? フルネームはシンシア・モントフ」
そう言うと彼女は顔を赤らめた。武志は苦笑せざるを得なかった。
「変な名前だなぁ。アメリカ人かロシア人か解らない」
武志は思わず口に出して言ってしまった。
「でも本名ですもの、しかたが無いわ、父はロシア人2世ですもの」
シンシアは不服そうに答えた。
「君はハーフなの?」
「ハーフ? クォータが正しいかも」
「つまり、両親のどちらかが外国人ってこと」
「父は日本人じゃ無いわ。でも外国人でも無い。国籍は日本人」
 武志はそう言われて彼女のいやシンシアの話し方のアクセントが少し違うと感じた。最初は東京弁なのかと思ったが外国人に良くある舌が長いが十分に回らないような話し方だ。日本語では下唇を噛んでの炸裂音や舌を丸めて発音するRの音が無いが、これを日本語に混ぜたような発音なのだ。クセの無い長い髪は日本人のようだが目は黒と言うよりブラウンに近い。
「あまり見つめないで恥ずかしいじゃない」
 そんな話をしながら先程の網走駅前に戻った。駅横の日本食堂に入ると、ここは日本標準、何処の駅の食堂でも同じ雰囲気である。
「あそこに座ろうか」
武志は、奥に行くと窓際の席に座った。シンシアは驚いたように後から付いて来るが席には座らない。
「どうしたの?」
武志は見上げるようにしてシンシアに言った。
「何処に座ったらいいの。向かいの席、それとも横。リードしてくれなきゃ解らないじゃないの」
と少し非難するようにシンシアが応えてきた。『おい、ここは日本だぜ、しかも横に座ってくれなんて言う訳無いだろう』と声には出さないが戸惑いながら向かいの席の椅子を引いて座らせてやる。何と無く照れくさいがこの子には不思議に決まっている。変な子と知り合いになったものだ。
シンシアは席に座るとさきほどの浮き玉を机の上に置いて両手で右に左に転がしている。
ウエイトレスが来て、注文を聞いてもそのまま浮き玉の方を見ている。
「何が食べたい」
武志に聞かれても黙っている。
「君は何を食べたい?」
もう一度聞くと顔を上げてメニューを見ることも無く
「お腹がすいたからハンバーグステーキ、デザートにはバニラアイスクリーム、飲み物はアイス・ミルク」
事も無げに言う。メニューに有るのだろうか。『たしか300円しか持っていないはずなのに、随分食べるんだなぁ』武志は多少驚いた。ウエイトレスには
「同じものを」
と言う。ウエイトレスは
「ツーハンバーグステーキセット、ツーアイスクリーム、ツーアイスミルク」
と声に出して注文を流す。『ここは日本じゃ無いのか!、なんてオーダーの仕方だ』武志は目の前のシンシアとウエイトレスの声を比べて思った。
あいからわずシンシアは浮き玉を転がしている。
「Where do you come from?」
武志は話題が無いので突然英語で聞いた。
「I came from east...」
シンシアは直ぐに答えたが変な顔をして
「何で英語で聞くの?」
と日本語で答えた。
「なんとなく話のキッカケがつかめなくてさ」
武志はこれで話のキッカケが掴めたと思った。いったいシンシアは何処から来たのだろうかと知りたかったが、質問を重ねるのも失礼なので話題をシンシアが転がしている浮き玉に移した。
「僕が小学生の子供の頃に、家の近くにガラスの浮き玉を作っている工場があってね、学校の帰りに良くこの工場に寄って窓からのぞいていたんだ。その工場の横には割れたガラスビンの破片とか板ガラスの破片が山になっていて、工場の人がスコップで炉の中に上から投げ込むんだ。ゴミのようなガラスが炉の中で真っ赤に溶けてアメのようになって流れている。綺麗で純粋な赤で、その溶けたガラスを長いパイプの先に付けて吹きながら回してガラスの風船を作る。やがて赤い色が薄くなって、透明になった頃タイミングを見て上手にパイプから外して溝に落とす。すると溝を転がりながら転がることによって丸さを増してゆっくり青い色になって固まって、このガラス玉が出来るんだ。転がすことにより丸くするなんて工場で初めて解ったんだけどね」
と話す。シンシアは聞いているのかいないのか、あいかわらず浮き玉を右にやったり左にやったりしている。
「聞いてるの? 面白くない?」
武志が話しかけるとやっと顔を上げて、
「面白くないわ、これが捨てられたガラスから出来ているとか、工場の人の息が詰まっているとかそこには物語が無いわ。たとえば、この浮き玉が浮き玉の形になった所から考えられない」
シンシアは武志の発想を非難するように鼻の頭に小皺をよせて答えた。
どうも理工系の癖なのか、物がどのように作られるかってのは興味のある話だと思ったのだが、シンシアには受け入れられないようだ。ガラスの浮き玉はガラスの浮き玉。壊れたらまたガラスに戻るだけ。そんな考えはシンシアには通用しないらしい。
「私が、このガラス玉が工場から出てきてからのお話をしましょうか」
武志はシンシアの考えを知りたくてうなずいた。
「私、前にこれと同じぐらいの大きさの浮き玉を持っていたの。朝、砂浜を散歩していて見付けたの。砂と波に削られてその表面はスリガラスのようになっていたの。不思議だと思わない。海岸って砂浜もあるけど、ほとんど岩でしょう。その岩にぶつかって砕けてしまわないで、浮き玉のまま表面が削られてスリガラスのようになってしまうなんて。そして、長く砂浜に有ったのに誰にも拾われないで私だけが見付けるなんて」
そう言ってシンシアは武志を見ている。次に何と答えるか興味深々と言ったところだ。
「確率的には低いけど、まったく無いとは言えないだろうな」
「確率的? 夢の無い人ね、その浮き玉は他の浮き玉と一緒に漁師の人に買われて、広い海で波に揺られながら網を支えていたの。ところが、ある日、紐から外れて仲間から離れて流れ始めた。そして工場で作られた時に決められた運命に従って私の手元に届いた。その運命がガラスを吹く工場の人も知らないし、使っていた漁師の人も知らないけど、その浮き玉には有ったってこと。
 私は時間があるとその浮き玉を机の上に置いて見ていたの。あなたは何処で作られたの。その海で迷子になったの。あの海岸までどうやって流れてきたのて話しかけながら。
時々指に水を付けて浮き玉の上からなぞってあげるの。スリガラスみたいになっているから乾いていると白っぽいけど少しづつぬれてくると水色になって来て、何か話しかけたことに答えてくれるような気がして。ほら、ジブシーの水晶玉占いってあるでしょう、あんなみたいに。そうやって薄い水色になった浮き玉は私が昔暖かい浜辺で見た海の色、空の色に見えてくるの」
そう話すとシンシアは何故か悲しそうに視線を空にやった。
武志は初対面なのに色々なことを話す子だなぁと思った。しかし彼女の話は武志が知らない、発想もしない考え方から来ているようで、とても興味があった。
「その続きも聞きたいなぁ」
武志は言った
「私、海岸で見付けたそのスリガラスの浮き玉を無くしちゃったの。机の上に置いておいたら転がって床に落ちて割れてしまった」
「だから、替わりの浮き玉を買いに来たのかい」
「いいえ、違う。これは別の新しい浮き玉。替わりじゃないの。ここを見て、このおへそのところが大きいでしょう。これなら転がって落ちることも無いはず」
そう言ってシンシアはこの浮き玉を武志に向かってテーブルの上を転がした。
浮き玉は予め決められていたように武志に向かって転がりながら緩くカーブを描いてまるでブーメランのようにシンシアの手元に戻っていった。
「ね、これで大丈夫」
と言ってシンシアは笑った。
その浮き玉の動きを目で追いながら武志は不思議な感動を覚えた。いったいこの子はどんな子なんだろうと益々好奇心がわく。
円を描いて転がった浮き玉はシンシアが秘めている才能の一部のような気がした。そして、それは武志には無い範疇の才能なのだろう。そんな衝撃が感動になったのかもしれない。
「君って不思議だね。子供みたいに見えたり、大人みたいに見えたり、はたまた、大人だからこそ子供のように見せようとしているように見えたり。なんか、僕が今まで会った人とは違う新鮮な感じを受けるんだなぁ」
武志は素直に言った。普通の女の子ならそこまで褒められると顔を赤らめたり下を向いて恥ずかしがるはずだが、シンシアは武志の言ったことが解らないというように武志を見返した。
「君は大人のようでもあるし、子供のようでもある。そんな魅力があるね」
武志はもう一度言った。
「君、君って言わないで。私はシンシアよ。君なんて名前じゃ無い」
シンシアはそう言った。眉に力が入ってなかなか気が強いらしい。
「ごめん、ごめん。それじゃシンシア、僕のことは武志と呼んでくれるかい」
「いいわ、タケシ」
食事が運ばれてきた。シンシアは上手にナイフとフォークを使い食べている。いつも、そうしていなければ、あんなにうまく使える訳が無いと武志は思った。
シンシアを見ていると武志が今まで付き合った女の子の誰とも似ていない。普通の女の子の魅力をシンシアは一人でいくつも持っているような気がする。しかも武志が見たのはその一部なのかもしれない、もっと不思議なシンシアを魅せてくれるかなと思った。それがますます武志のシンシアへの興味を引き起こす。
解らないとか不思議だって事柄に武志はとても興味を持つたちだった。
「シンシア、少し聞いていいかな」
武志は詮索好きのように思われないようにできるだけやさしくと気を遣いながら聞いた。
「聞くって何を?」
「月並みな質問から。シンシアは何処から来たの? この近く?」
一瞬シンシアは戸惑った。武志から目を逸しながら答えた。
「ええ、この近く」
「具体的に何処?」
「ここから、もっと東に行った所」
「網走の東には海しか無いよ」
「そう、海しか無い。だけど、その海をもっと東に行くと島があるの」
シンシアは明らかに話したくないと言う様子で答えた。
武志はシンシアが日本以外の土地に住んでいるのではないかと思った。シンシアの様子からはウソを言っているのでは無く、武志の聞いた事に素直に答えられない、答えることが出来ないと言ったとまどいを感じた。
 しかし外国と言ったって網走から東と言えば千島列島があるが、数100kmも距離がある。それに、冬は流氷に閉ざされる厳しい海だから、とても生活して行けるとは思えない。そのような矛盾は有るけれど武志は素直にシンシアの言うことを信じようと思った。
シンシアの目を見れば、どうもウソをついてるとは思えないし、そう疑うことすら、何か自分が汚れている気がした。
 
第6章 旅立ち
 食堂を出て時計を見るとさきほど調べておいた北見への汽車の時間が近づいていた。このままシンシアと別れるのは惜しい気もしたが、このままここに居るわけにもいかない。
「もう汽車の時間だなぁ。あと30分・・・それじゃ、サヨナラ」
武志は半分独り言のように言った。
シンシアは何も気にならないのか「そうね、それじゃサヨナラ」と言って手を差しだした。その手を握り返しながら『なんか、きっかけを作ってくれよ』と思わざるをえなかった。ここできっかけが有れば、もう少し一緒に居られるのに。しかし、シンシアに背を向けて待合室に歩きはじめた。少し歩くとシンシアが後ろから歩いて来るのがわかった。
「どうしたの? 僕は汽車に乗るんだ」
「私、別に急いでないの。だから一緒にタケシの乗る汽車を待とうかなと思って」
「そっかぁ」
二人は黙って駅の改札口の前まで歩いた。列車の時刻表を見ると正確には20分程時間がある。改札もまだ行われていない。二人は黙って待合室の入り口に立っていた。
何処の駅でも変わらぬ光景であった。テレビが一つおいてあって見るものが居るのかどうか解らないまま電源はいれっぱなし。映っているのはNHKばかり。回りの壁には古めかしいポスターが貼ってあって大きく付近の旅館の名前が書かれている。
待合室のベンチはテレビに向かって配置され、利用者の半分が座り残った半分は利用者の荷物で占められている。まるで、汽車を待つために24時間待合室に居るような人々の表情、ある者は見るとはなしにテレビを見、ある者はジット中空を見据えている。知り合いの者と楽しそうに話している者。他人の目から逃れるように肩を落とした者。
 改札口も同じだ。入場券の自動販売機はまるで場違いな所に無愛想に設置されている。キップは何処にそんな権威をひけらかしたいのか大理石の皿を通して売っていただくようになっている。そもそも、客とガラス越しに接客する職業って国鉄だけではないだろうか。私営バスの地域で育った武志には、国鉄の駅の風景には違和感があった。
 どうも陰気に感じられる回りの風景に誘われて武志の気持ちも曇って来る。楽しくはなかったキャンプの事、無理に乗り回して壊してしまったバイクのこと。そして幸運にも出会ったシンシアと別れること。
「駅って、出発の場所と思っていたけど。別れる場所なのね」
シンシアがポツリと言った。そして武志を見上げた。武志は何も答えなかった。只改札口のほうを向いていた。
「あの・・聞いてくれる。私をかわいそうだと思わない?」
今度は武志に聞かせると言うより独り言のようにシンシアは言った。
「何が?」
「タケシが居なくなると、話相手がこのガラス玉だけになっちゃう」
さっき手にいれた浮き玉を武志に見せながらシンシアは言った。
「でもね、僕がここに居ても、結局シンシアが去るのを見送ることになるんだ。結局自分が送る側になるか、送られる側になるかの違いじゃないかな」
シンシアの言いたいこととは違った返事をしているようで武志は気まずかった。
「次の列車だと2時間程時間があるな。あと2時間僕と付き合ってくれるかい」
武志は前言をフォローするように言った。
「別にそんな事気にしなくていいわ、どうせ行ってしまうのだったら、今行きなさいよ」
「今度の汽車で行くか次の汽車で行くかは僕が決めることだろう。ただ、あと2時間一緒に居てくれるなら嬉しいのだけれどと君に言っているだけ」
「そんなの解らない。タケシが決めた後で私は考えることにする。とりあえず、サヨナラ」
シンシアそう言い残して武志に背を向けて駅を出て行った。
武志はその後を追い掛けてシンシアの前に回ると
「ねぇ彼女、お茶に付き合ってくれなぁい」
とおどけて声をかける。
「ま、孤独な青年に愛の手を差し伸べるならできるけど」
シンシアは大人びた返事をかえしてきた。武志は何故シンシアの考えに自分の考えを合わせるのか自分でも不思議だった。2、3時間前に会っただけなのだから、特に自分にとって大切な人とも思えない。でも、二人で一緒に居たい存在だった。そこから街の中に歩きだして武志はシンシアとどう過ごしたら良いか迷った。
お茶を飲んだり映画を見たり、そんな事しか思い浮かばない。なんとなくこの青空の中で屋根の下で過ごすのはもったいない気がした。足は港の方向に向かっていた。
「タケシ、何処に行くの」
何回目かの信号の前で止まった時にシンシアは聞いた。
武志はまっずぐ前を指で指し示した。
「そっちは海じゃないわ。油が浮いてて海が死んでる。海を見るならこっちよ」
シシアはそう言って武志の腕を取り信号が青を示している右に曲がった。
別に目的が有ったわけでは無いので武志もそれに従った。
2、3本大きな通りを過ぎると港に出た。
 網走港は港と呼ぶより漁村と言ったほうがふさわしい規模だ。一般的に港は様々な物資の流通拠点だが、ここ網走港は物資が降ろされる港機能は弱い。ほとんどが陸送で北見市を中心に物流は運営されている。
港の南側には石油タンクが並びガソリンや灯油の集積場になっている。その南側を除けば海面は自然のままで、あの運河独得のメタンのゴミ臭いにおいもない。もっとも毎冬流氷が押し寄せて人間生活のゴミを海に洗い流してくれるのだろう。
防波堤のような岸壁の先に赤い灯台がある。灯台と呼ぶより航路標識と言った場所だ。二人はそこの灯台の土台となっているコンクリートのブロックに腰を掛けた。
夏の北海道独得の鈍い水平線が広がる。どんなに青空でも水平線と海が一直線に別れて見えることはない。暖められた海水から常に水蒸気が上がるせいかもしれない。この水平線がクッキリと見えだすと秋が訪れ早い冬が近づいてくる。
「タケシ。今、何考えているの」
しばらく海を見ているとシンシアが話しかけた。
「うん? 今ごろあそこに見える知床の岬のほうで大学の友達がはしゃぎまわっているだろうなって」
「知床? タケシはそこに住んでいるの?」
「いや、2、3日前友達とキャンプに行って、今はその帰り」
「どうして一人なの? 友達は?」
「僕一人が先に帰ってきたのさ。何と無く大勢で騒ぐのは性に合わなくて」
話ながら『なんでこんな話をするのだろう。今会ったばかりの子に』と武志は思った。
「知床てどんな所? 私まだ行ったことが無いの」
「ここと同じさ、海があって砂浜があって、波が打ち寄せて」
「ね、私を連れて行ってくれない。知床ってどんな所か見てみたいの」
「え、だって、さっき言ったように2時間くらい後の汽車で北見に帰る予定なんだよ」
「そりゃ、知ってるけど」
どうもシンシアのペースになっている。武志は自分のペースで話が進まないのが気に入らない。人に合わせるのは煩わしい。そんな気持ちになってきた。
「タケシ、少し失礼な質問になるかもしれないけど答えてくれる」
シンシアが武志が話に乗ってこないので話題を変えた。
「内容によりけりだけど、どんな質問かな」
「じゃぁ第一問。何故、私に声を掛けたの」
「え!なんで急に。その質問にパスは無いの?」
「パスは無し」
「じゃぁ、答えるけど、答えたらシンシアは何故付いてきたか答えること」
「ええ、いいわよ」
「そうだなぁ、目かな。目の綺麗な人は嘘がつけない素直な人なんだ。このところ目の綺麗な人と話していないからな。それが理由。ことわって置くけど、目の綺麗な男の子でも声を掛けてたよ」
「つまり、私の目がポイントなの?」
「うん。で、シンシアの答えは」
「えっと、「何故付いてきたの」ってことだったわよね。私はタケシより素直だから正直に言うと、今の私をサポートしてくれる人がいないかなと思っていたの。色々話したり相談したりする知り合いが欲しいなって前から考えていた。それにピッタリの人に見えたから。ことわっておくけど、それは女の子でも良かったのよ」
「べつに、ことわってもらわなくてもよいけどね」
「じゃぁ、第二問」
「え、何問まで有るんだ。結構、答えを考えるの大変なんだぜ」
「じゃぁ、第二問で終わりにしましょう。でも、正直に答えてね」
「なんか、簡単に終わりになるんだなぁ」
「タケシは私をサポートしてくれる気が有るか無いか。これはイエスノー問題」
「質問無し? イエスノーのみ?」
「そういうこと」
「答えにくいなぁ。だって会って3時間くらいだぜ。シンシアの事全然知らないし」
「全然知らないからいいのよ。今の気持ちは」
「じゃぁ、無条件にイエスにしておこうかな。シンシアがどんな人間か解らないけど、僕は自分の人を見る目は高いと思う。その僕がイエスと答えろっていってるよ」
「では、質問は終わり。知床に行きましょう」
「え、話を元に戻すのか」
「違うわ、もう少しお互いが知り合う時間を持ちましょうってこと。一緒に知床に行きながら情報交換をしましょう」
 これもシンシアのペースになってしまった。がしかし、武志にはなんとなくシンシアのペースでも良いかなと思えるようになっていた。それは、知り合って3時間程の相手に対する不安をシンシアも持っていることが解ったし、その不安をシンシアも武志も早く解消して色々話し合える関係になろうとしていることが解ったからだ。
「じゃぁ、知床に向かいますか」
シンシアが言った。
「今からじゃもう遅いよ。汽車とバスで行って知床に着くのは夕方を越えて夜になってしまう」
武志は時計を見ながら言った。
「陸上を進んだらでしょう。でも、いまあそこに見えてるじゃない。海を利用して行けばすぐじゃないの」
「知床岬に行く船は斜里の先の宇登路から出ているんだぜ、そこまで行くのに夜になってしまう」
「タケシ。さっきイエスって言ったでしょう。だから、話すけど、私の船があるの。これなら岬まで1時間程で行けると思う。その船を教えてあげる」
「船ねぇ。キャビンが無ければ怖いなぁ」
武志はシンシアをからかうように言った。
 その辺の釣り船のような手漕ぎボートに船外器を付けたようなものでは危険である。高校時代ヨット部に居た武志は海の上でぬれた服が風に当たるとどれほど寒いか。体温を奪って行くか良く知っていた。そして、一見静かな海にも突然の波があり、これに当たると船からほおりだされることもある。
「だって、もっと遠くから乗ってきたのよ。知床ってあそこに見えている所でしょう」
「その船にシンシア一人で乗ってきたのかい。一人で? 何処から?」
「タケシ、質問タイムは終わったの。とにかくイエスと言ったんだから付き合ってくれるでしょう」
「だから、何処からくらいは教えてくれなきゃ」
「さっきも言ったでしょう。あっち」
シンシアは東の方向を腕を伸ばして示した。
武志にはまだ良く解らなかった。どうせそのうち解るだろうからと割り切ってしまった。とりあえずはシンシアが言っている船を見たら少し何かが解るかもしれない。
「その船はここから近くにあるの?」
「ええ、すぐそこ。あの石油タンクの近く」
振り向いたシンシアは港の左に見えている三菱のマークの着いた白いタンクを指して言った。
「では、約束どおりサポートさせていただきますか」
笑いながら武志は灯台の下を離れシンシアの後に付いて歩きはじめた。
 
第7章 オホーツクの海へ
 歩きながら武志は考え込んでしまう。なんで、ここまでシンシアのペースに巻き込まれるのだろう。自分は他人の起こす面倒な事には首を突っ込まないようにして来た。さっき、網走駅で「じゃぁ」と言って別れるのが今までの武志の流儀だ。あまり、深く付き合ったりするのか好きでは無い。自分の世界に他人を入れるのは好まない。だから自分も他人の世界に足を踏み入れないようにしている。偶然に街で知り合った女の子にここまで引きずり回されるのは始めてだ。しかも訳の解らない船とか東からきたとか言っている。そんな話に何故自分が合わせている自分で自分が不思議だった。
「何考えているの。何か話してよ」
「うーん、もし船が無かったらどうしようかと思って。嘘つきになってしまったシンシアをどう考えたら良いかと思って」
「先に嘘ついたのタケシね。そんな事全然考えてないくせに。私が当ててみせましょうかタケシの考えていること」
「え、君に解るとは思えないけどな」
「俺は何をやっているんだ。なんか振り舞わされてるぞ、いいのかこんなので。ってあたりじゃない?」
顔に出ているのだろうか。武志は図星なのに驚いた。ひょっとしたらシンシアは人の心を読めるのかもしれないと思った。
「なんで、そんな風に思うのかなぁ」
「さっきの質問を繰り返すけど、何故タケシは私に声をかけたの」
「だから、言ったじゃないか。目を見て信じたって」
「気が付かなかったのね」
「何が?」
「あなたが浮き玉を探していた時に背中に視線感じなかった? 私、お願い声掛けてねって願をかけてからあの浮き玉を買う話を始めたの。そしてタケシは声をかけてくれた。そんな事言ったらタケシの自尊心が傷つくでしょうけど、さっき私の願いに気づいたか知りたかったの」
どうもシンシアのペースだ。武志は切り替えすことも出来ない。なんとかしなければと武志は焦った。
「じゃぁ、質問。何故、そんな願をかけたんだい」
「それを女の口から言わせるのは、本当のタケシじゃないわ」
 勝負の結果は明白だった。武志は手玉にとられているような気がした。2、3歳年下のこのシンシアが自分が予想できないほど様々な経験を積んで、そして武志がかなわないなぁと思うほどになっているのだろう。武志はシンシアと駆け引きをしてもしょうがないと悟った。素直な女の子と思っていたのだが、実は相手を素直にする、そんな魅力がシンシアにあるのかもしれない。
 石油タンクに近づくに従って海は特有の油の匂いを漂わせている。海面には虹のような色彩の油の膜が浮かんでいる。これが、漁港には無い本当の港の匂いかもしれない。武志は高校生の頃就学旅行で訪れた神戸や横浜の様子を思いだした。あの時は外国船が所せましと泊まっているそれぞれの港が都会的に見え進歩的に見えた。しかし、今は自然を破壊した人工的なものとしか思わない。自然を知らないで育った都会の人間と違い少しだが自然に触れ、自然の中で生活した経験を持つ武志には、人工の施設に、特にそれが巨大で自然を排除して作られていると嫌悪感を持つのだ。
 大きなダムを見ても、コンビナートに並ぶ石油分離塔を見ても、バベルの塔の思いが心を走る。何時か壊れて元の自然に戻る、過渡的な施設と感じる。
 5分と歩かないうちに漁船とは違った船が係留されているところが見えて来る。沖にあるタンカーから石油を移すブイ(そのブイの下から海底をはってパイプで港の石油タンクに積み荷である石油が輸送される)へ行くためか、石油会社のマークの入ったボートが数隻泊まっている。
 シンシアはその中でも大きいボートに進み係留しているロープを解いた。
「どう? このボートなら知床に行けるでしょう」
ロープを船に投げ入れバランスをとりながらボートに飛び乗りシンシアは言った。
 そのボートは幅が5m長さ8m程で船外機を取り付けるタイプではなく前方にキャビンも有りエンジンは内装されてスクリューはたぶん2枚あるようだった。『こんなボート、いくらするのかな。200万円はするのだろうか。車と違い決まった値段の無い船だからなぁ』こんなボートが子供のおもちゃだなんて、シンシアの家はどんな家庭なのか良く解らない。そんな印象を武志は受けた。あまりボートが岸を離れないうちに武志はボートに飛び乗った。運転席に座ると車のように小数のメーターが並んでいる。
表示されている単位から回転計、油温計、燃料計のメーターであることが解る。
シンシアは横の席に座って武志のほうを見ている。
「早く、知床に行きましょう。時間が無いわ」
シンシアは武志に運転させるつもりらしい、武志としても機械の操作には強いほうだから、何とかなるだろうとシートに座った。
 シンシアはいたずらっぽい目で武志が何を動かすのか見ている。車ならキーを入れてスターターを回せばエンジンがかかるのだが、ボートにはキーが無い。まずエンジンスタートと思い武志はSのマークの付いた黒いボタンを押した。反応が無い。何回か押すがカチカチ音を立てるだけでエンジンは回らない。今度はその横に赤いボタンを押した。
途端にボートはけたたましいホーンの音を響かせた。岸壁に居た人々は何事かと一斉に武志のほうを見た。これはホーンのボタンだったのだ。
シンシアは我慢できないというように吹き出してしまった。武志はバツが悪そうに頭をかいている。
「タケシ、貴方、ボートの運転ははじめてね。私すぐに解った」
とまだ笑いながら言った。
「はじめて」と言われて武志はますますバツが悪くなった。武志にとって知らないと言うことは屈辱に値することだった。
「ああ、そのとおりさ、でもそれを知っていてやらせたのかい」
「違うわ、悪くとらないでちょうだい。私がサイドシートに座ったら当然のように運転席に座って運転しようとするのは頼もしいわ。ただ、シートに腰掛けてからスタートさせようとしたでしょう。ボートは車と違って前が良く見えないでしょう。だから動かすときは立ってなきゃ」
武志はなるほどと思い、今度は立ち上がってどうするのかとシンシアのほうを見た。
「一番左がメインスイッチ。これを入れてギアをニュートラルにしてそれからスターターを押せばいいの。メインスイッチを入れてから少し待たないと燃料噴射が動き出さないからゆっくりとやるといいわ」
シンシアの言うようにニュートラルに入れてスタータを押す。エンジンが唸り出す。ディーゼルエンジン特有の低回転でボート全体が静かに振動する。スロットルを前後に動かしてエンジンの調子を理解してからギアをバックに入れ、車のサイドブレーキのようなレバーを使ってクラッチを繋ぐ。エンストすることもなくボートはゆっくり後進を始めた。
 他のボートの間を抜け向かい側の岸に向かって進む。クラッチを引いてギアを前進の1段目に入れてまたクラッチを戻す。車と違ってブレーキが無いのでその間もボートは後進を続ける。危うく向かい側の岸の直前で前進を始めた。良く運転の秘訣で「先を読む」と言われるが車と比べて先を読んで手を打つ運転がボートには必要なようだ。まだ操縦したことは無いが、飛行機はもっとこの要素が強いのかなと武志は思った。
ハンドル操作で堤防を抜ける。これも車で言うと遅れ気味の舵取りであったが、少しづつ武志はタイミングを会得していた。先に何もない港の外にでると、ギアーを2段目に切り替えてスロットルを開く。ぶつかる物は無いから右も左も自由に走れる。車の運転は道路をなぞっていくがボートは水平の世界だが自由度が高い。
 武志の全身から汗が引いていくのはスピードを出したための風のせいばかりではなかった。広い外洋に出た安心感からかもしれない。
右側の砂浜を見ると海水浴客のものかパラソルが2つ3つ、そして貸しボートが漂っているのが見える。もしシンシアと一緒でなければ武志は海水浴客の近くまでボートを走らせたかもしれない。何時の頃だったか、武志は海水浴で泳いでいて沖を走るモーターボートを見てたまらなく欲しいと思った。と、同時に自分には手に入れることができないのだとも思った。
 その武志が今ボートを乗り回しているなんて愉快な事だった。せめて、沿岸の海水浴客に見せびらかしたいとふと思った。
 コンパスで確認しながら船を南南東に向けて走らせた。港の中よりも波があるが,それでも「なぎ」と呼んでも良い程に海は静だった.スロットルを徐々に開ける。船首を持ち上げてから一瞬後に強い加速感が背中に感じられた。タコメーターは2000rpmまで一気に上がった.風の強さから時速60km程だろうか。それから少しづつスロットルを空け速度が時速70km程にまでなった。だが、60kmを越えると波の上に乗るためか小さな波でもバウンドを始め、このバウンドが中々戻らない。船底が着水の度に大きな振動を発生させる。武志はスロットルを戻し時速40km程に落とした。このスピードだとボードは海面を滑るように進む。
「素敵だ。バイクで走っていると道をたぐる感じだけど、ボートってのは何処に向かっても走れる。思った方向に行けるってことは、目的地に一直線に行けるってことだから、あとは自分の意思と工夫の問題になる。それが素晴らしい」
「タケシは海が好き?」
一人御機嫌で話す武志にシンシアが言った。
「好きだよ海は。今は北見に居て海は近くないけど、高校までは海の近くに住んでいたから、釣りをしたり、泳いだりしていたさ。それに、広いってのが好きだな」
「でも、それは夏の海でしょう。冬の海は?」
「それも好きさ。海から吹き付ける吹雪と波。とても寒くて誰も寄せ付けない。そんな海もたまらなく好きだ」
武志は調子に乗って話続けた。
「波が高くて、漁船ですら出ることが出来ない荒れた海。そんな面も海の魅力だな」
武志の話をシンシアは黙って下を向いて聞いていた。もし少しでも武志がシンシアの表情の変化に気が付いていたら、シンシアの目が武志を軽蔑しているのを読み取っただろう。
「タケシは、ただ表面しか見てないわ。冬の海だって単なるロマンチックな妄想なのよ。本当に冬の海に囲まれたら、その中で生活したら。とてもそんなロマンチックになれない」
シンシアは武志を睨むように言った。武志はその強さに一瞬言葉を失った。
「君は冬の海を知っているのかい」
「知ってる。何日も何日も太陽を見ることができなくて、灰色の低い雲と黒く冷たい海だけ。海が動いているのも少しだけ、やがて流氷が来ると止ってしまうの。海が止ってしまう。そんな環境の中で人は何を考えると思う?」
武志は観光としての冬の海を想像できるが、生活の場としての冬の海のイメージはもっていない。「解らない」と答える。
「緑の草花と、それを照らす太陽が欲しい。それだけを考えて冬を過ごすの。だから、少しでも春の予感がする時は嬉しくなる。でも、実際は春を迎えるまでに長く暗い冬が続く」
「シンシアの家はそんな時でも暖かいんだろう。こんなボートを持っているのだから寒さに凍えるような事も無いだろうし」
「そんな事無いわ。お金で解決出来ることの中に自然に恵まれるってことは入って居ないの。生活環境全てをお金で手に入れることは出来ないもの」
「でも、冬の間に南の方に、避暑じゃなくて、避寒というのかな、行くことはできる」
「その行ける、行けないってのも、お金では買えないものなの」
「でも、金で買えないものって、そんなに無いと思うけどなぁ」
武志はそこまで言ってどうもシンシアの話と自分の話がかみあわないのは互いの生活の背景が違うためかも知れないと思った。しかもそのシンシアの生活の背景を自分が想像できないのは、自分に経験が不足しているためかもしれない。シンシアが体験している世界と比べたら自分の人生経験なんて子供の世界なのかもしれない。そんな世界にシンシアは生きているのかもしれない。そんなわだかまりが武志にはあった。
「ここには二人以外に誰も居ないからあらためて聞くけど、シンシアの住んでいる所は何処? そして何故そこに住んでいるのか、を教えてくれないかな」
武志はそう話ながら、今までシンシアから知り得た情報からシンシアはたぶん千島列島あたりの密入国。でも、何故そこ住むことになったのかは不明。そんな所までは想像ができた。ソ連はモスクワだけでは無い。日本に一番近い外国、それがソ連なのだ、根室からなら肉眼で見える外国、それがソ連なのだ。
 しかし、一般に言われている共産圏のソ連のイメージとこのボートは結び付かない。この二つを結び付けるような背景がシンシアには有るのだろう。
 
第8章 昨日の街角
 「最初にタケシに会ったときに、話しを聞いて欲しいと思ったことがあるの。タケシは秘密を守ることができる?」
「内容によるな。自分が守らなければならないと納得すれば守るし、中途半端な秘密なら他人に知らせる楽しみが優先する」
「私達家族の生死に係わることなの。何故、タケシに話そうと私が思うのか自分でも解らないけど、その理由が解る前にタケシが居なくなりそうで。タケシには是非聞いて貰いたいの」
 シンシアは右手を伸ばしボートのスロットルを戻して20kmくらいに速度を落とした。エンジンの騒音も風の音も小さくなり、小声でも良く聞こえた。
「タケシ、私は隠すつもりは無いの、でも話して良いとも思わない。だから、興味本意で聞かれるのは嫌なの。私はタケシ達が千島列島と呼んでいる島の一つに住んでいるの。無人島よ。つまり人が住むには適さない島。食料や必要なものは知っている人が漁船にまぎれこんで運んでくるの。あの島には畑にするような土地は無いの」
武志は前に根室や釧路の漁船の中にはスパイ船と呼ばれる船が居て、ソ連の領海内で操業する代わりに情報をソ連に提供しているという話を聞いたことがある。シンシアの住む島に荷物を運ぶ船もその中の1隻かもしれない。
「でも私達、私と祖父と祖母と叔父、叔母夫婦の5人がその島で何をしてると思う」
「解らないな、でも勘でいいなら情報活動かな?」
「タケシのイマジネーションは人並みかな」
シンシアは無理に笑おうとした。話が暗くなるのを何とか明るくしようとしている様に見えた。
「私達の国籍はソ連じゃないの。密入国と言う訳。だから島では隠れて生活しているの。本当の国籍は琉球、つまり日本ね。私達が居た頃はまだ日本じゃなくて琉球だったけど。ここまで話すとタケシは何故琉球から千島列島まで来たか知りたくなるでしょう」
そう言ってシンシアはじっと武志のほうを見た。武志はその目がとても悲しそうで今にも涙が流れそうなのを見た。
「別に無理に話さなくてもいいよ。過ぎた事は今の自分を位置づけていても、これからの自分を引っ張ってはくれない」
武志は特に興味が沸いた訳でも無く、シンシアの背景をそんなに強く知りたいと思っているわけではないので、特に意見は無かった。
「どうして話してしまうんだろうって私、自分に問いかけているところなの。たぶん、やっと話せる人に出会えたと自分で思っているからなのね。これから話す話は絶対秘密にしてね」
そう言うとシンシアは武志の目を見て確認を求めてきた。
 今日、時代の歩みはますますそのスピードを早めている。記憶としての知識は適当に忘れることによって新たに学ばなければ古い誤った知識となってしまう事が多い。100年前の知識を以て現代社会を生きることができないのと同じである。100年とまで言わなくても50年、10年の年月ですら知識が風化する。ロシア、今のソ連に革命が起こったのは今から60年程前である。2世代前と言える。その時旧貴族の多くは国外へ逃亡したり、身を偽って体制側に食込んでいった。
 当時はマスコミや交通機関が発達していなかったため、国土のいたる所に中央の権力が行き届かない空白地域があった。まして、首都レニングラードから1000kmも離れると中央からの情報伝達には時間がかかった。
距離と途中経路の人口の少なさなどで1つの集落がまるで外界と接触する事なく存在できる時代だった。シンシアの祖父・祖母はそれぞれの家族を含めた30人程の集団で革命直前に南方に逃れた。多くの財産を携えていたが、それは再び帝国の時代、労働者では無く貴族が君臨する社会を目指して蓄財された。彼らはカスピ海の沿岸で農耕を始め、半農半漁の生活を続けた。
 しかし、昔の生活を忘れられず、逃亡の際に持ち出した財産を売り貨幣を得て働か無くても同じ生活水準を保ちたい風潮が広がった。シンシアの祖父母が結ばれたのはそのような時期だった。祖父は血気盛んな青年で、ロシア帝国を再建するために全てをささげていた。しかし、集団全体の意見は革命の嵐がおさまった今、元の領地に戻りそこで生活を現在の政治の許す範囲で再開したいと思う者達と、あくまでロシア帝国再建を目指す者達に別れていった。
 結局祖父母は新天地を求めてロシアの国土を離れ東へ向かった。シンシアの祖母の話によれば、生まれたばかりのシンシアの父を抱き、東へ東へと進み、ついに太平洋を目にするまで3年の月日がながれたそうである。
 そして彼らは今の中国の南広東省の香港の近くに落ち着いた。1930年の秋であった。ここに家を構え仮の住まいとした祖父が財産を少し削って金銭に換えるのに香港を経由すれば容易であった。小さなダイヤで一家が1年以上生活するとができた。
 しかしその生活も10年と続かなかった。日本は少しづつではあるがアジアでの勢力を強めていた。権力に迎合することをよしとしない祖父は再びこの地を離れた。パラセル諸島の一つの無人島に避難した。一方で安楽な生活に慣れてしまった息子、シンシアの父に生きる厳しさと逞しさを教えるためでもあった。息子は15歳を迎えたばかりである。
 既に40歳を過ぎ、さすがに祖父にも帝国再建の夢は衰えたが、息子が生きて行く世界が戦禍の時代である宿命を感じていた。なににも増して動乱の時代には自らに強い信念が無ければ道は開けない。
昼間上空を飛ぶ日本軍の戦闘機を目にしたり、夜間東の空を染める砲撃の様子を見ながら戦争の時代を生きる息子に人類の歴史や武器の使用方法を教え続けた。
 祖父の予想に反しアジアは開放されなかった。圧倒的なアメリカの工業力に日本も本土に追い込められた。祖父は日本以外のアジアの国が日本と組んで欧州の植民地支配から脱却する戦いを起こすと予想していたが、それが実現するにはさらに数年を要した。
 戦争が終わると息子を社会の中で育てようと島を離れ混乱の沖縄に移り住んだ。当時、アメリカ統治下の沖縄では日本(琉球)の国籍取得が容易だった。本島から50km程離れた島で、日本人としての生活が始まった。定期的な台風の被害を除けば自然に恵まれた生活であった。本島の大学を出た父は祖父母と一緒にこの島で生活するためにこの島の中学校の教師の職に付いた。本島で知り合った女性と結婚し昭和29年7月にはシンシアが生まれた。
祖父は孫が女の子であったことに失望したが、孫が成長するにつれ、かつての帝国再建の夢も昔話になりつつあった。それに、処分する財産は山ほどあり、この島に永住して一生を終えようと考えているようだった。父もこの島での生活に満足していたし、母の妹であるお叔父叔母夫婦も一緒で平穏な月日が流れた。
 シンシアにとっても、この島での生活はとても恵まれたものだった。家庭は上流の部類にはいるし父の職業柄人々もシンシアに親切だった。島の丘に登れば回り一面がエメラルドグリーンの海だ。夏は海で泳いだり、船に乗ったり、抜けるような青空と絵のような白い雲それが全てでそれで十分だった。
友達も多かったし両親が二世の為か皆一目置いていた。しかし、思いもかけない所から不幸は始まった。
 この島の学校を改築するために祖父は小さな骨董品の類を処分した。祖父にしても財産はこの島の役にたてば良い、親戚だけに相続してもこの島が豊にならなければ親族の生活も向上しない。そんな意味で学校の改築に資金を出そうと考えていた。
 日本本土は戦後20数年過ぎ急激な経済成長をとげ、金目の物は絵画であろうと古本であろうと、その美術的・芸術的価値よりも、安全な利殖と言う面から古いものが買いあさられていた。祖父が売却した骨董類はロシア帝国中期の物で高値を呼んだ。そして日本では珍しい物の売買にマスコミも飛び付き新聞、テレビ等で報道された。それが島に学校を作るためとあっては、おりからの沖縄の本土復帰とからませて大きく報道された。
 祖父の骨董品は商社の手を経て海外のオークションでも取り扱われた。そのオークションで一つの陶器の壷を興味深く観察している一団が居た。50年前、祖父と一緒に革命の中を逃げ出した人々のほとんどはこの世に居なかった。しかし、革命時は敵であった政府に寝返りその官僚体制の中で地位を占めた老人が居た。
 野心家の彼はその壷がかつての同僚の持ち物であり、それが流れてきた先にはかつての同僚もしくはその子孫が居ると思った。そして、その過去の同僚が未だに処分可能な財産を持っていると予想した。彼は簡単に外国に行ける身ではなかったが、その財産を自分の物にすべく、西側の組織に調査し出来れば奪うことを指示した。
 最初に危機を感じたのは祖母だった。彼女は回りの変化に敏感だった。祖父もそれを感じた。何年も逃げることが続いた生活の中で自然に培われた勘のようなものだ。
しかし息子夫婦はそれを話しても笑うだけだった。経験したことと語られたことの実感の違いだろうか、シンシアもその中で父と同じように変化は感じなかった。
 ある日、突然銃声とともにシンシアはいやが上にも現実を体験することになる。銃声に驚いて居間に行くとシンシアの父が血塗れになって倒れていた。母は立ち尽くすだけであった。祖父は祖母そして母とその妹夫婦に海岸のボートに乗るように命じた。自分は息子を背負いその後を追った。
賊はこの家のどこかに隠し財産があると思って押し入ったものだ。しかし、ほとんどの財産は島のために売却し、翌日本島の貸し金庫に預けるためにボートの金庫に居れてあったものが残った。賊が財産のありかを言わせるために威嚇で用いた銃が暴発し父にあたったようだった。
祖父はボートを本島まで走らせた、父は途中出血多量で死亡した。
また一家は逃げて隠れる生活をしなければならない。しかも、今度は世界に張り巡らされた組織が相手になる。結局、いつかアメリカで生活しようと、少しでも近い千島列島の島に移り住むことにした。祖父があまり皆に教えたくない付き合いを利用して、とりあえず千島列島に仮の住まいを確保した。
 しかし、不幸は重なり千島での最初の冬に父が亡くなってから何か生きがいを失ったような母がちょっとした風邪をこじらせてあっけなく他界した。シンシアは、あまりの悲しみ続きで涙も出なかった。母の遺体とともに3日間を誰とも話さずに過ごした。
その日から、シンシアは悲しみを怒りに替えた静かな炎を自身の中に感じるようになった。
祖父母はもう逃げ隠れる生活に疲れていた。だから、あの島からは出たいとも思っていない。しかしその経験の無いシンシアが恐れることもなくボートでここにやってきたのだった。一人で北海道に来るのは今回が初めてでは無かった。何時も知床半島を目印に網走や常呂に来て街での体験を通して日本を感じていた。
 
第9章 その夜
 ボートはゆっくりだが知床へ近づいて来た。武志はクラッチを切るとエンジンをアイドリングさせ波に漂うままにした。波が船を打つ単調なリズムが繰り返される。
 煙草を胸のポケットから引き出し火を付けた。煙を深く吸い込んでゆっくり吐き出す。目は知床岬とその先の水平線に向けられる。
『世界は広いから、この海の向こうに、そんなロマンが有るのかも知れない。たぶん、俺の生活している世界からは想像出来ないダイナミックな世界なんだろう。俺は何でも知っていると思っていたけど結局「世間の常識」しか知らないのかもしれない。』武志はシンシアの話を聞きながら思った。
 シンシアは話したい事を全て語ったので武志の出方を見ている。武志の答えによっては話したことは悪い結果を生むのだから。
「私、なんだか気持ちが楽になったわ。祖父からこの話を他人にしてはいけないって言われていたの。だからかえって、気が重かったの。私、たぶんタケシには話してしまうと思っていたけど、やっぱり話してしまった。タケシは私の話信じる?」
「ああ、シンシアには何か秘密があるのだろうと思っていたけど、こんな事だとは思わなかった。信じるとか信じないとかじゃなくて、今のシンシアを作った背景がダイナミックなその生活に有ったってことかな。でも、過去てのは今の自分を作った源だけど、これからの自分は過去をステップにして未来に向かって新しく作られる、新しい自分だってこと。過去に縛られて明日が開けないってことがないようにしなければ。今、ここにシンシアが居る。それと同じように、今の話も信じることができるよ」
「そう、そう言ってくれると嬉しい」
武志は、もっと気の利いたセリフを短く言いたかった。しかし言葉ってのは不完全で解るように説明しようとすればするほど言葉を必要とした。黙って肩でも抱いた方が良かったかなと武志は思った。
 8月も中旬を過ぎると日が沈むのが早い。時計はまだ5時だが太陽はかなり西寄りになってきた。海の上では日が傾くとすぐに気温が下がるので余計太陽の傾きが敏感に感じられる。
 再びボートをスタートさせ、知床の海岸、昨日まで武志がキャンプしていた海岸の沖を走り回っているともう日は山の上に掛かってきた。
「これから何処に行くの。帰えらなきゃならないんだろう?」
心配になって武志は聞いた。
「ええ、でも今からじゃ、夜になって島に戻っても岩の間を入って行けないわ。島から明かりは漏れてないし」
「それじゃ、何処か泊まる所が有るのかい?」
「そうね、このボートのキャビンに寝るわ。日が登ったら起きて帰る」
 北海道のオホーツク側は夏と言っても夜はかなり冷え込む。まして海の上なら冷え込みは厳しい。それにこのボートのキャビンは暖房はあるが、狭くて眠るのは辛いだろう。
「夜は冷えるよ、僕のアパートに来ないか」
武志はもう少しシンシアと居たいと思った。そのためには、とりあえず、そんな方法しか無いのかと思って言った。
「ここから近いの?」
「ボートで途中まで行って、あとはバスで30分くらいかな」
シンシアは少し考えていたが、
「それじゃ、泊めてもらう。タケシを信用してお世話になります」
「信用? 何に信用?」
武志が聞くと顔を赤らめて下を向いてしまった。
ボートは大きく左に回り、今来た方向に戻り始めた。丁度山に隠れる太陽を斜め左に見てその太陽を追い掛けるように走った。暗くなるまでに女満別(めまんべつ)まで行きたいので武志はボートのスロットルを一杯に開き少し波の出てきた海上を飛ぶように走った。
シンシアのほうを見ると長い髪が潮風に編まれて後ろになびいていた。武志は「風」を著す写真があるなら今のシンシアのポートレートだと思った。
「早すぎるわ、風で私寒い」
シンシアが言った。武志はスロットルを戻すと自分のジャンパーを脱いでシンシアに着せてやった。ハンドルを握っている武志にはあまり寒さは感じない。
「暖ったかい。タケシに抱かれているみたい」
時々シンシアは武志が驚くような表現をする。あまり同じ歳の人間と会話していないからなのか、とにかく額面どおりに受け止められない表現がある。
 網走の港の灯台が左に見えてくる。この灯台を左に巻いて橋の下をくぐり網走湖に入る。網走湖はオホーツク海に注ぐ広い川でここを遡り女満別に向かう。
武志は前に大学のヨット部の合宿に付き合った時に女満別にある合宿所からこの網走湖を下り海まで出たことがあるので地形は覚えていた。
日は暮れてしまい西の空がまだ青さを残しているだけで東の空は星が輝き始めた。ボートのライトを灯けて浅瀬を避けて出来るだけ川の真ん中を走って上流に向かう。
途中、何回か泥の浅瀬に乗り上げたが一時間程で女満別湖に着いた。大学のヨットハーバーにボートを着けアンカーを投げ込む。暗くなってきたので、もうヨットは引き上げられ皆合宿所に居るのかハーバーには誰も居なかった。ここに置いておけば大学の誰かが不思議に思っても警察に届けるようなことは無いだろう。
 ボートを降りると少しの荷物を持って国道まで歩く。ヨット部の合宿所まで行って誰かに車を借りようとも思ったが、明日ここに来るかどうか解らないのでやめた。
 バスの停留所に行くと長距離はは20時が最終で二人はそのバスに10分程遅れていた。ヒッチハイクをしようと国道に添って歩き始める。しかし普段は親切な長距離トラックの運転手も男女二人づれだと手を上げても大きくホーンを鳴らして通り過ぎてしまう。マイカーや仕事帰りのライトバンはまるで見向きもしてくれない。飛行場に折れる交差点近くでシンシアが言い出した。
「タケシ、まさか歩いて行くつもりじゃないでしょうね。私あまり歩くの得意じゃないの。少し休みたい。もう足が痛くて、痛くて」
「車がもっと簡単に捕まると思ったんだがなぁ」
武志は滑走路の芝生まで行って腰をおろした。シンシアは座り込んでテコでも動きそうも無い。
「コーラでも買って来るから少しここで待っていてくれる。そのあとどうするか考えよう」
武志はそう言って空港ターミナルのほうへ歩き始めた。
シンシアは不安そうにその後ろ姿を見送った。だが、付いて行く程気力は残っていなかった。
20分程してシンシアが不安に耐えきれず立ち上がると向こうからオートバイのライトが近づいてきた。シンシアは恐怖を感じて近くの立ち木の後ろに回り込んだ。
 オートバイは真っすぐこちらに向かってくる。シンシアは武志が近くまで戻っていないかと回りを見回したが一面暗やみで何も見えない。オートバイが通り過ぎるのを願いながら立ち木の下にうずくまった。しかしオートバイは願いとは逆に近くまで来るとブレーキをきしませながら止まった。少しの間を置いてヘッドライトで回りを照らすようにスピンターンを始めた。そしてシンシアをライトで捕らえると真っすぐに向かってきた。シンシアは逃げようと思ったが恐怖で足が言うことをきかない。ライトに目が眩んで乗っている者の顔は見えない。2m程の所に来るとオートバイを止め男が降りてきた。シンシアは恐怖に目をつぶった。
「どうしたんだい、身体の具合が悪くなったのかい」
近くで声がした、武志の声だ。シンシアが目をあけると武志が心配そうに見ている。その武志の手を借りてシンシアは立ち上がる。
「なんで、なんで、一人で置いて行って、そしてバイクでなんか戻って来るの。私、を守ってくれるタケシが何で私を脅かすの」
目から涙が流れていた。武志は何故こんなにシンシアがおびえているか解らなかった。一人でボートを操って密入国してくるし、知り合ったばかりの武志のアパートに泊まるなんて子が、暗やみに一人残されたくらいでこんなに脅えるとは思えないからだ。
「コーラを買おうと思って雑貨屋に行ったら、その店が自転車屋もやっていたんだ。そこの小母さんに網走からの帰りにバイクが故障してここまで歩いて来たけど友達と一緒でなかなかヒッチハイクに苦労しているって話したんだ。話している間に奥から自転車屋をやっている小父さんが出てきて、壊れたバイクは何処に預けたって聞くから斜里の自転車屋の名前を言ったら遠い親戚だとかで代車のバイクを貸してやるって」
武志は何故バイクに乗っているかを話した。シンシアも涙を拭いて武志が渡すヘルメットをかぶった。器用に長い髪をヘルメットにつつんだ。
バイクは武志が何時も使っているヤマハで、排気量が大きいツイン125だったのでウインカーやライトのアップダウンの操作は同じであった。メーカーによってウインカー一つとっても上下にスイッチが動き上が左のものもあれば左右に動くものもある。ヘッドライトの遠目・近目も上下のスイッチがあって上が遠目もあれば下が遠目もある。同じメーカーのバイクだと操作が同じなので運転が楽だ。特に夜間は様々なスイッチを使うので新しいメーカーの物では慣れるのに気を使ってしまう。
 国道に出ると新しいバイクの性能をテストしたくてアクセルを一杯に開く。直ぐにスピードは100kmを越える。エンジンも武志のツイン90に比べて余裕がある感じだ。しかし夜間の国道であっても取り締まりが有るかもしれないのでスピードを制限速度の2割り増し程度に落として走った。20分程で北見の市街地に入る。ここから武志のアパートまでは更に5km程ある。アパートの50m程前からエンジンを切り押してアパートの裏に付けた。時計は21時を回っている。アパートの住民は音がすれば窓から駐車場を見るだろう。だから、静かに駐車させなければならない。
武志はシンシアと一緒の所をアパートの他の住人に見られないようにと気を付けて二階への階段を出来るだけ音を立てないように静かに上がった。
 鍵を開けて中に入ると武志はキャンプに行くときに釣り竿を出したりして部屋の中が雑然としていることを思いだした。壁のスイッチを入れるとその様子がシンシアにも解るようになった。
「わりと綺麗な部屋ね、でも少しかたずけないと座る場所も無いわ」
段ボールの箱をロッカーの上にあげ、机の上の食器類を片付けると少しましになった。
「タケシは射撃をするの?」突然シンシアが言い出した
「ああ、でも、何故そんな事が解ったんだい」ガンロッカーを見てそう思ったのかと武志が答えた。
「この部屋にはクリーニングオイルの匂いがある。私の家に居るような感じ」
「シンシアも射撃をするのかい」
「私は教わり始め。祖父はかなり上手よ。自分を守るために使い方に慣れろって何時も言ってる」
「ライフルかい?」
「いいえ、私には反動がありずぎて撃てない。それに撃っても当たらないし。散弾なら当たる程度の腕前。でも、それで十分だと私は思っているのだけれどね」
「ピストルも練習するの?」
武志は女の子と射撃の話が出来ることをうれしく思った。
「ハンドガンはあまり無いの。弾が無いこともあるし、祖父が嫌いなの。ハンドガンは自分を守るための武器で戦う射撃とは違うものなんだって言うの」
シンシアは銃によって自分の父親が亡くなった、その事に話がいくのを嫌っているようだ。それ以上、銃に関して話したくないようだった。
「でも、護身用にはいつも持っているの」
ハンドバックから22口径のベレッタを取りだして武志に見せた。
「さっき、飛行場でこれを構えたら、良かったじゃないか」
武志は初めて手にするベレッタを操作しながら言った。
「怖かったから取り出す気持ちにはならなかったの。自分の恐怖を振り払うために銃を使うなんて、良い結果にならないわ。冷静な時に初めて自分を守ことができるはずだから」
「なるほど、僕よりも、扱いに慣れてるんだな」
武志はシンシアに銃を返しながら言った。
「それに、これ見てくれる」
シンシアは返されたベレッタの弾倉を抜いて武志に渡した。そこには豆粒のような弾が並んでいたがどれもワックス弾だった。つまり空砲ばかり。
「こうして弾が無いほうが、いざ使う時に冷静になれるって叔父が言っていたの」
護身用というのは、相手を殺傷するよりも、相手の出鼻をくじくものだから、シンシアの叔父の話は正しいのかもしれない。
 武志は溜っている新聞を玄関から持ってきて何気なくテレビのスイッチを入れる。ニュースのチャンネルに合わせて新聞を読む。シンシアは冷蔵庫を開けて何か夜食を作ろうとしている。武志はそれをシンシアの好きなように任せた。
夏場のニュースは定番ものが多い、どこの海岸に何万人海水浴客が来たなんて記事が多い。今日一日沢山の事が有り過ぎた。武志はぼんやりとテレビを見つめる。
「何か考えごとしてるの、用意が出来たわ」
シンシアの言葉に武志の思考は中断された。テーブルに並べられた食事を見て武志は驚いた。冷蔵庫に残っていたものはだいたいの見当は付くが、それだけでシンシアはここまで作ったのだろうか。
「シンシアは料理が巧いんだなぁ。僕なら冷蔵庫から出してそのまま食べる感じだけど」
「私、料理は好きなの。それにタケシには今日色々してもらったからそのお礼に工夫したの」
武志は急に空腹なのを思いだした。シンシアの作った料理を味見する。
「うまいよ、一流のホテルのコックもここまで出来ない。なんせ、材料が限られてるから」
「よかった、タケシの好みに合あったようで」
シンシアも今日いろいろ動き回った為に空腹なのかフォークを持って食べ始めた。
「タケシ?さっき何考えてたの」
食事が終わるとシンシアは尋ねた。
「料理するシンシアを見て。そう言えばここの部屋に入った最初の女性だなって思って、そんな自分に驚いて、って感じかな」
武志は冷蔵庫から氷を出して前に吉田が置いていったウイスキーでロックを作った。シンシアには薄くホットウィスキーを作ってやる。
「これ、なぁに」シンシアはグラスを透かすように見ながら言った。
「シンシアは、未成年だったなぁ。お酒は飲んだことが無い?」
「ワインくらいなら飲んだけど、これって強いの?」
「たぶん、ワインと同じくらいだけど、今日は色々忙しかったから、軽く飲んで眠るといいよ」
「タケシはこの部屋に一人で住んでいるの、御両親は?」
「僕は平凡な大学生。改まって人に自己紹介できるようなことは無い。親父もお袋も既にこの世に居ない。兄弟も居ないのでまったくの孤独。でも、親父の妹にあたる人が僕の面倒を見てくれて、この人達には感謝しても感謝しきれない」
「そう、私と同じね。私の方がまだ恵まれているかもしれない。一緒に住む人が居るから」
「大学ってどんな所?」シンシアは話題を変えた。
「うーん、ただぼんやりと机に向かって、それで単位がもらえたりもらえ無かったり。必要な単位数をつみあげるのに興味の無い授業を受けたりで、あまり面白くない。僕が欲しい知識は90パーセント以上街のバイク修理工場や、アルバイト先で手にいれてる。ただ、大学が国立なので授業料が幼稚園と比較出来ない程安いので経済的には楽だけどね。そして大学卒業って肩書きを得て社会の歯車に組み込まれていく」
「それって、タケシの本心じゃないでしょう。私、言葉で表現できないけどタケシはそんな生活をしているように思えないの。何か燃えるようなテーマを探して、いやもう見つかっているのかもしれないけど、それに向かって一生懸命になっている。それは誰も知らないタケシだけの世界の中で」
シンシアは武志の目をのぞき込むように話した。少し飲んだホットウィスキーに酔ったのか目の回りからほほにかけて薄く赤みがさしている。目も昼間と違い霞がかかったように潤んでいる。『これが女の色気かな』武志は頭の隅で考えた。
「シンシアには隠し事が出来ないなぁ。たしかに僕は普段出来るだけ目立たないようにと考えて生活しているよ。学生だし、今の生活で目立つってことは得にならないと思うから。そうだなぁ、自分が本当に燃えている時は、射撃している時とオートバイを乗り回している時かな」
武志は少し酔いが回ったのか、それともシンシアに対していると仮面で本当の自分を隠す必要が無いのか口は軽くなった。そして、自分に言い聞かすように今の自分を話した。
「これからどうしようか」話の切れ目にシンシアが言った。
「これから、って今夜って意味かい?」
武志はストレートに言われたので驚いて問い返した。
「馬鹿なこと言わないでよ。今夜は何も無し。明日からの話」
シンシアは武志を軽蔑したように言った。
「いや、シンシアにその気があって、僕が外したらと思って」
武志は言い訳した。
「真面目な話し、私、タケシに一緒に島に来てもらいたいの。祖父や叔父に会ったらきっとタケシと話が合うと思う。それに、島での生活にメリハリが出来るし。夏休みはまだ残っているのでしょう。だったら、明日私を島に送ってくれない。夏休みが終わる頃には私が送ってあげる」
そんな提案をシンシアがした。
「島って言ったって、ロシア領なんだろう。シンシアは今は良いけど、島に居ると密入国。僕にもそうなれって言うのかい」
「え?、怖いの。そんな事がタケシが一緒に来てくれない理由になるとは思わなかった。夏休みが終わるまでの期間くらいいいじゃない」
「ちょっと待ってよ。僕は自分のペースじゃないと駄目なんだ。シンシアの提案はシンシアのペース。少し待ってくれよ」
「まさか、タケシ怖いのね。最初会った時に感じたイメージと違うなぁ。意外と臆病なんだ」
シンシアは決して断定的に言った訳では無い。どちらかと言うと冗談めかして言ったのだが武志の気に触った。
「勝手にイメージ作らないでくれ。僕は僕、シンシアの為に僕が有る訳じゃない」
気まずい雰囲気になった。
シンシアは武志が言葉を荒げて言うのに驚いたが、ひるまない。
「だって、勇気が無いじゃない。平凡な生活に飽き飽きしてるのに、それを越えて何かしようとしない。結局、今に不満だけど新しいことをするのが怖い。そんな感じじゃないの」
「ちょっと待ってくれよ。僕はシンシアと議論しようと思わない。それは、シンシアと話が出来ないとかシンシアが居なくなるような事が考えられないから。ちょっと考える時間をくれよ。即答は出来ないけど、明日の朝までには答えを出すから」
武志は非常に不満だったが、少なくとも明日の朝まではシンシアをここに置かないとならない訳で、あまり対立したくなかった。
 テレビのニュースを見ながらしばらく会話が途切れた。ふとシンシアを見ると首をうつむいている。声を掛けても答えない。今日一日歩き回ったり、バイクで走ったりと疲れていたのだろう。武志は起こそうとしたが、シンシアが気持ちよさそうに寝ているので気がひけた。そのまま抱き上げるとベットに運んだ。
 武志の腕にはシンシアの女と呼ぶのにまだ硬い少年のような身体の感覚が伝わってきた。ベットに横にすると毛布を掛けてやる。寝顔を見ながら顔にかかった髪の毛をはらってやる。ここで抱きつけばシンシアは拒否しないだろうとふと思った。しかし一方ではたぶん自分はそうしないだろうとも考えていた。
 シンシアは寝ぼけた目を開けて武志の手を握って「オヤスミナサイ」と言うと目を閉じてしまった。武志も「オヤスミ」と言ってその場を離れた。ここでシンシアを抱いてしまうのも有るだろうけど、なんかそれはもう少し先に伸ばしたいと思った。そして、自分がシンシアの提案を受け入れると考えているのを知った。
『あいつは何なんだ』ソファーに横になりながら武志は考えた。女の子とあまり付き合いが無い武志にはシンシアをどう扱って良いのか解らない。だけど、シンシアは別に女の子として扱ってもらいたい訳では無いらしい。だとしたら、普通の対応で良い訳で、男の友達が遊びに来て泊まっていると考えれば良いわけだ。違いは、ベットに寝ているのが武志で、友達はここのソファーに寝る。そうだ、何故シンシアはベットなんだ。そんな事を考えながら武志もまた疲れていたので眠ってしまった。
 
第10章 豹変
 翌朝、武志は水道から流れる水の音で目が覚めた。
いつもの癖で反射的に腕時計を見た。左腕のセイコーのアドバンは9時を少し回っていた。昨日ソファーに横になった時に掛けていなかった毛布が今は掛かっている。おかしいなと思いながら起き上がるとシンシアが声をかけた。
「おはよう、お寝坊さん。ソファーじゃ窮屈だったんじゃない?」
「ああ、おはよう。君は良く眠れたのかい」
「ええ、良く眠れたわ、あのベットは寝心地が良いみたい」
「そうだろうなぁ、あのベットがこの部屋で一番高級なんだ。・・・毛布はシンシアが掛けてくれたの?」
「そうよ、4時頃だったか目がさめたの、そしたらタケシが寒そうにソファーで寝ていたから」
武志は覚えていない。普段なら少しの物音にも目が醒めるのだが、昨日はかなり疲れていたようだ。テーブルの上は綺麗に整理されて、タバコも無い。
「シンシア、ここにタバコが有ったと思うけど」
「タバコ? ここに有るわ、さっき一緒にかたずけてしまったみたい」
シンシアはグラス類と一緒に置いてあったタバコをもってきた。武志が口にくわえると慣れないてつきでライターで火を付けてくれた。なんだ、もう女房気取りでと数少ない昔付き合っていた女の子を思いだして武志は思った。
「良く眠ったいたいだね。シンシアの目の白いところが薄く青くなっていて綺麗だ」
「そう、ありがとう、朝まで1回も目が醒めなかった。タケシが何もしないので期待外れだったけど」
シンシアはそう言って武志の話を逸した。
「本当に、そう思っているのかい」
武志が真顔になってシンシアの肩に手をかけると驚いたように身体を硬くして
「イヤ! 冗談よ。タケシがそんなことしたら私、舌咬んで死んじゃうから」
と大きな声で言った。
「御免、僕はその度胸は無いと思う」武志は言った。
「朝になったのだから、そんな話は止めましょう。それより、朝はどうするの。冷蔵庫には何も無いけど」
武志は外食が多いので冷蔵庫はあまり使っていなかった。大学の同級生が手土産に何かをもってきた時に使う程度なので、いつもはほとんど空だ。武志は顔を洗って表で朝食(と言っても、もう昼近いが)をとることにする。部屋を出るときに管理人の小母さんと会ってしまった。シンシアと武志を見て信じられないといった様子だ。武志はまずいと思ったが、もうすぐ仮面を被った自分は無くなるんだと心の何処かで叫んでいた。何時も自炊をしない時は利用している食堂に足を向けた。
シンシアと肩を並べて歩きながら、せめてシンシアと一緒の所を自慢する相手が近くに居ればと思った。何もなかったとは言え、シンシアが自分のアパートに泊まった最初の女性なのだから。
 食堂の戸を開けて中に入ると先客として17、8歳の青年が4、5人居た。服装から見て工事現場で働いているようだ。そう言えば1週間程前から、近くの病院が改築を始めたから、そこの左官かもしれない。入ってきた二人をジロジロと眺める。二人が奥に座ると武志に聞こえるように罵声を浴びせる。
「気にしなくていいよ、世の中にはああいう連中も居るってことで、勉強だと思うことだ」
武志はシンシアが怖がっているようなので言った。その声は男達にも聞こえたようで、また声高になにかを言っている。
馴染みの小母さんが来て「あら、今日は可愛い人と一緒なのね。お友達?」と言う。
「ああ、大学の同級生なんだ」武志は当たり外れの無い返事をする。
シンシアはその小母さんに軽く頭を下げた。
その時、男達の中から「同級生どうして昨日の夜はいちゃいちゃしてたんだろう」と大声を出す者がいた。途端にシンシアの目の色が変わった誇りを傷つけられその男の方を睨みつけた。
「御免ね、病院の棟上げで昼から飲んでいるのよ」
小母さんは言い訳した。しかし、そんな言葉でシンシアの怒りは静まらなかった。
「ああいう、失礼な態度は許せないわ」
「酔ってるんじゃないか。ほっておけば良いさ」
「勇気が無いのね」
「昨日も、同じことを言ったね。僕はそう言われるのは好きじゃない。それにあんな酔っぱらいの相手をすることが勇気だとは思わない。僕の思う勇気っていうのは食事が終わったらシンシアと島に行くことだ。もしかしたら、戻ってこれないかもしれない。だけど、僕が経験したことがない生活を体験することによって、何か得られると思う」
武志は昨日は保留にしたシンシアの提案に答えた。
「え、一緒に行ってくれるの」
「ああ、僕のためにね」
シンシアはさっきの怒りは消えていた、思いがけない武志の返答がうれしくて泣き出しそうになった。
「そうと決まれば、食事はボートの中でもとれる。早速出発の準備をしよう」
武志は店の小母さんに食事はキャンセルして帰ると告げるとシンシアの背を推して店を出ようとする。
ついでに入り口の4人組の一番出口に近い者の椅子を足で引き倒す。その男は派手に床に転がった。
「失礼、足が滑ったようだ」
無礼に挨拶して店を出る。
「まだ、日本でやっておかなければならない事が残っているようだ。先に帰っててくれるかい」
シンシアを先に行かせて、店の前で待つ。待つまでも無く4人が店から出てきた。「何処へ行きやがった」
と互いに虚勢を張る。
「遅いな、酔い潰れて出てこないかと思ったぜ」
武志は4人に向かって声をかける。
「この野郎、痛い目に会いたいらしい」
4人は飛んで来て武志の回りを囲む。通行人は何事かと遠巻きにしている。仕事の道具なのかスパナのようなものを取りだして襲いかかってくるつもりらしい。道具を持った者を正面にしていると後ろの男が武志をはがいじめにしてくる。その様子を見て正面の男がスパナを振り挙げて向かってくる。武志は足でこの男の顎を蹴りあげ、その反動ではがいじめにしている男の胃に左肘で突きをくらわす。屈みこんだところを後ろのベルトを掴んで右の男に鉢合わせさせる。確認している暇は無い、左の男が襲ってくるのを腰を落として背中に乗せ、鉢合わせしている二人の上に頭から落としてやる。
 全てが一瞬の出来事だった。10秒もかからなかっただろう。武志は特別に格闘技を教わったことは無い。人並み以上の筋力と射撃やオートバイで鍛えた反射神経があれば十分だった。それに、相手は酔っている。
4人が戦意を喪失しているのを確かめて、彼らに背を向けてアパートに戻った。角を曲がるとシンシアが立っていた。
「これは、勇気とは別なものだよ。こんなのは勇気と呼べない」
「でも、タケシは私のために戦ったんでしょう」
「それも違う。次代を担う若者に礼儀を教えるのは大人の義務だからさ。僕は人のために何かをするのが似合わないタイプなんだ」
「浮き玉買ってあげたりも似合わない感じだったわ」
シンシアの突っ込みに苦笑するしかなかった。本当に昨日の浮き玉から始まった話だった。それが、こんなに話が進んで、結局ロシアに密入国する所まで進んでいる。ま、島に渡ったら今までのように目立たないように生活するなんてことは出来ないだろう。武志の持っている全能力を出さないと危険な目に会うような、そんな漠然とした不安が武志にはあった。
 アパートに戻るとシンシアは近くのスーパーに昼食として、ボートの中で食べるサンドイッチの買い物に出掛けた。武志は旅行用のバックに衣類を詰め始める。
 
第11章 島へ
 旅立ちの興奮。それは一種独特な感情だ。
不安と言う恐怖が目の前に広がるが、それが喜びに変わって仕舞う。未知の物事に対する挑戦がかもしだす気持ちのたかぶりが旅立ちの喜びに含まれる。バックに衣類を詰めながら何度か旅の前に味わったこの興奮を楽しんでいた。
 シンシアが大きな紙袋をかかえて帰ってきた。
「スーパーって何でもあるから、どれを買おうか迷ってしまう」
紙袋から材料を取りだしてシンシアは料理を始める。時間が無いので武志もサンドイッチ作りを手伝う。食事が終わって片付けが済む頃には12時近くなっていた。
部屋を見回して銃のロッカーを確かめ電気のメインスイッチを切ると二人は外に出た。
「シンシアは忘れ物がないかい?」
武志はドアの鍵を出しながら聞いた。
「無いわ。私はこのハンドバックだけですもの。それに出したものは全部ここに戻しているし」
武志は自分に忘れ物がないか考えてみた。あった、昨日着ていたジャンパーのポケットにナイフを入れたままだった。今は暑さのため他のジャンパーをカバンに入れ上はTシャツしか着ていない。
「チョット待ってて」
武志は部屋に戻ると壁に掛けてあるジャンパーからナイフを取りだした。
「何を忘れたの?」玄関からシンシアが声をかける。
「これだ」武志はそのホールディングナイフの刃を起こしてシンシアに見せた。
「ナイフ? そんなもの必要無いと思うけど」シンシアが言った。
「シンシアはナイフが解るかい?」
武志は器用にナイフを反転させると柄のほうをシンシアに差しだして聞いた。
「ナイフが解る?」
シンシアはその柄のほうを持つと武志が言っていることが解らないふうでナイフを振っている。
「バランスがいい。それに良く切れそう。でも私の手には少し大きい」
「このナイフは僕にとって世界一のナイフさ。この柄は僕が自分の手に合うように削ったんだ。切れ味は最高だけど、それより丈夫なんだ。シャベルの代わりに穴を掘ることもできる」
そのナイフはガーバナーのフォールディングナイフだ。武志は猟はやらないが、山に行くときは必ず持って行く。力さえあればナタよりも切れる。ツルを切ったり、マキを作ったり、それに簡単な工具の替わりにもなる。
「そんなナイフが何故必要なの?」
シンシアは不審そうに聞いた。
「何時も必要な訳じゃない。でも本当に必要な時に手元にあると心強い」
武志にとってこのナイフはいろいろ思い出がある。何処に行くときも手元にあると安心できる道具だ。
「シンシアにこのナイフの美しさが解らないのは当然かもしれないな。だって、君は女だから」
シンシアは不満そうだが何も言わなかった。二人は下に降りると昨日借りてきたバイクでボートを置いた女満別湖を目指す。
 武志はセルを回した。調整が良いらしく一発でエンジンは回り始める。軽くレーシングしてギァオイルに活を入れると走りだした。2サイクル空冷のエンジンはほとんどウォームアップを必要としない。
 風に当たっていると丁度良いくらいの気温だ。今日も既に30度を越えているだろう。アスファルトの道路の先に出来る逃げ水を追いながら制限速度の一割り増し程度で走って30分程で昨日バイクを借りた雑貨屋兼自転車店に着く。そこでバイクをかえしお礼のお菓子を渡してボートを泊めているヨットハーバーに向かう。網走で漁船やボートに給油しているスタンドの電話番号をその自転車屋で教えてもらう。たぶん、ボートの燃料は昨日走った分で島までは足りないだろう。
 学校のクラブが使っているハーバーのような場所に着くと10名程の部員がヨットにワックスを掛けていた。
「よう、ひさしぶりだな」その中の武志と同級生の山田が声を掛けてきた。
「練習で忙しいみたいだな。インカレが近いんだろう」武志は月並みな挨拶を交わした。インカレとはインターカレッジの略で高校のインターハイの大学版になる。毎年8月の終わりに行われるヨットの大学選抜選手権だ。武志の大学は北海道地区予選からの勝ち上がりが必要で、全国大会には過去数回しか行っていない。ここ女満別湖では網走市役所のレガッタが全国区で活躍しているチームで、時々練習風景を見るにつけて武志達の羨望の的だった。それも、数年前までで今は武志はヨット倶楽部の部員では無い。
「今年も全国は無理だろうな。新入生の練習に時間が裂かれるし。ところで、あれは誰だい? お前と一緒に来た」
山田は二人と離れて立っているシンシアをさして言った。ヨットを磨いていた部員もシンシアに見とれている。
「ああ友達さ、昨日知り合ったんだけど」
そう言うと武志はバックをボートの上にほおり投げた。
「あれ!まさか、このボート、お前のじゃないだろう?」
「ああ、彼女がオーナーだ。昨日の夜に留める所が思い付かないからここを借りたんだ」
「へぇ、金持ちなんだ。これなら北海道の何処でも行けるよなぁ」
山田はうらやましそうに言った。
「今朝起きてビックリしたんだ。何でこんなボートがここにあるのか。我々へのプレゼントじゃないですかって新入部員がキーを壊そうとしたんだぞ。お前、シンデレラ・ボーイってやつか?」
山田はシンシアと武志を半々に見ながら言った。
 シンデレラ・ボーイ、学生達が金持ちで美人な女の子をハントした男を呼ぶときの言葉だ。北海道には夏の観光で訪れる学生が多いので、たまたま気が合った相手が大金持の令嬢って話は結構ある。もっとも、ただそれだけで、そのままシンデレラのようにお城に出入りできた話は聞かない。
 ボートに乗るとシンシアに手を貸してボートに引き上げる。昨日と同じで武志が左でハンドルを握ぎる。シンシアの渡すキーを入れスタターを回す。昨日のようにホーンを鳴らすことは無い。
ヨット部員が羨望の眼差しで見る。何処へ行くのかなんて誰も気にしていない。自動車と違うからゆっくり後退した後はハンドルを車で言う「すえ切り」してクラッチを繋ぎアクセルを開きスピンターンのようにして方向を変えハーバーを出る。
「巧くやったな、シンデレラ・ボーイがぁ」
山田が怒鳴る声はエンジンの音も消せないほど大きかった。他の部員の笑う声も聞こえる。実は、学生にも係わらず、女のヒモになっている男のことも、この言葉で呼ぶ。ニヤと笑った武志にシンシアが聞いた。
「タケシ、シンデレラ・ボーイって何のこと。さっきからタケシの友達が何度も使っていたけど」
「え、あの、それはね、女の子みたいに気の弱い男って馬鹿にしているのさ、皆は冷やかしで言っていると思うよ」
「嘘ばっかり。タケシは嘘をついているとこは必ず鼻の頭に手をやるわ」
武志はあわてて手をハンドルに戻す。
「シンシアのようなお嬢様は知らなくていい事さ。学生の、それもうちの大学だけのスラングみたいなものだから」
ボートは網走湖に入りその一番広いところを50km/h程の速度で進んだ。昨日の暗い中での運転と比べるととても楽だった。
「私、お嬢様じゃないわ。それに隠し事は好きじゃないの。教えてくれる」
「隠し事も好きにならないととは思うけど。そう言われると答えようが無いなぁ」
武志は何故そんな言葉を使うのかその意味を教えてやった。シンシアは「なんだ、そんな事なの」と笑った。たぶん、自分の知らない自分を侮辱するような意味が有ったのではないかと気にしているのかもしれない。
「タケシ、あなた、ガールハントなんかするの?」
今度は心配そうに聞く。
「いや、自分から声をかけるほどチャーミングな女の子に合ったこと無いから」
「まぁ、それを誇ってもいいけど、たぶんうぬぼれね。止めた方がいいと思う。タケシが声をかけてもついて来る子は居ないわ。タケシの誇りが傷つくだけだもの」
「ひどい言い方だなぁ、現にシンシアは僕に付いてきたじゃないか」
「それは別。私がガールハントに掛かったなんてタケシは思ってないくせに。なんで、その話を持ち出すの? 昨日言ったでしょう、あれは、私の、なんて言ったらいいのかな、私のボーイ・ハントなんだから」
「と、シンシアは思っている。てことでいいかな。僕は自分がハンティングの対象とは思わないし、女の子をハンティングの対象として見たことも無い。さすが二十を過ぎると人と人との出合は不思議だと思うし、自分の自由になるようで成らないってことも解ってきた。たとえば、昨日バイクを貸してくれた自転車屋の小父さんはたまたま、家で酒を飲んでいて雑貨屋の店で交わされている話を耳にしたからバイクを貸してくれた。誰が仕掛けたとか言ったことは意味がないと、僕は思うけどね」
「あのぉ、ちょと解ってもらいたい事があるけど、タケシは否かなぁ」
「別に」
「じゃぁ確認。言葉って心を伝えることが出来る思う?」
「出来ると思う。仮に、僕が「シンシアを好きだ」と言わなければぼくの気持ちはシンシアに伝わらないだろうから」
「タケシが私を好きかは少し置いといて、それって、本当に言葉でしか伝わらないと思っている?」
「だって、多くの恋の悩みは、打ち明ける悩みだろう。つまり、伝える悩みじゃないか」
「ちょっと待って。タケシ私の目を見て、言葉って伝わらないってこと解るから」
武志はボートのスピードを落としてシンシアの方を向いた。綺麗な目だ澄んでいる。シンシアの心をそのまま表しているようだ。
その時、武志の頭の中に耳からでは無く、直接シンシアの呼び掛けが感じられた、何と言っているか言葉の内容は解らないが、伝えたいニュアンスが伝わってくる。武志は思わずシンシアの手を握った。すると更に感覚が伝わってくる。二人はそのまま自然と口付けをした。武志の心にシンシアがかなり大きな位置をしめるのが解った。
「どうしてなのかな、言葉でなくても会話できたような気がする」
身体を離すと武志はボートのスピードを上げながら言った。武志も良く解らない感覚だった。
「ヨーロッパの詩人の言葉にこんなのがあるわ。神は人間に言葉を話すことを教えた。お互いを欺くために」
武志は前に同じような話を聞いたことがある。確かスタンダールの小説にも引用されていた。
「たしかに、全ての人々がそれぞれ自分の思っていることを話したら戦争ばかり起こるかもかもしれない。神が人間に偽るための道具として言葉を与えたて話はおもしろい。でも、シンシアは言葉でなく伝えることが出来るみたい。どうしてだろう」
「バイリンガルって知ってる」
「なんて言うのか、複数の外国語を話せることだろう」
「そう、私は生まれた時からその生活なの。日本語と英語とロシア語。で、タケシは言葉に発するまえに、何語で考える」
「意識したことが無いけど、ネイティブな日本語だろうなぁ」
「私、自分は何処の言葉で物事を考えているか悩んだことがあって、結局人って言葉で考えるのじゃないって思うようになったの。不思議なのは、叔父と祖父がお酒を飲みながら叔父は英語、祖父はロシア語で議論している時があったの。で、私がそれを言うまで二人は互いに別な言葉で話しているのに全然気が付かなかった。だから、言葉じゃない、タケシの言うコミュニケーションって有ると思うの」
それを体験した武志には素直に納得するしか無い話だった。
 網走の港で給油のために接岸する。公衆電話で前に教えてもらったスタンドに電話して軽油の給油をお願いする。ほどなく、小型のタンク車が港に表れてボートのタンクを一杯にしてくれる。100リッター近く入った。かなりタンクは空だったようだ。コンパスの南東、120度程を目印に経済速度の40km/h程で網走港を後にする。知床半島に添って岬を目指す。2時間ほどで岬を回る。ここから日本の領海を離れてロシアに向かう。シンシアの指示で東北東70度のコンパスの指示で進む。早く横切りたいので、60km/hに速度を上げる。たまに見える船を警戒しながら進む。一般にオホーツクの海は夏の間だけ穏やかな日が続く。風も武志達を推す西風が多い。ただ今日はその風も弱い。
「シンシアのお祖父さんってどんなんだい。会えば解るけど、予備知識くらい欲しいな」
島が近づくにつれて、武志は不安になってきて、シンシアに聞いた.
「そうねぇ、わりとやさしいし、多少の事なら文句も言わず容認してくれるわ。ただ、やっぱり意思の人ね。自分にも厳しいし他人にも厳しいのかもしれない。ただ、肉親にはそれが良く解らない。でもタケシなら特に問題無いと思う。お祖父さんの好きなタイプだから」
「もう、旧貴族階級に固執していないんだろうなぁ。僕はイデオロギーとしての共産主義に反対するけど、かといって資本本位主義にも疑いを持っている。イデオロギー対決なんて場面は辛いなぁ」
「そこは、私にもどうにもならないわ。ただ、私の直感がタケシは祖父に受け入れられるだろうなってことだけ」
「ふーん・・・・」武志が興味が沸くのはシンシアの話してくれたような境遇の人々が今の時代をどのように見ているかだった。自分は日本のいわゆる戦後世代で、ベトナム戦争を他人ごとのように感じながら生きてきた。戦争の時代、常に身の危険を感じながら生きている世代の人生観から自分が得るものは大きいと思う。
「今年の夏って異常気象なのかなぁ。ここまで来ても暑い。ここの海で泳いだ人は居ないだろうなぁ。泳いでみないか、僕は水着をもってきたけど、キャビンで着替えてこの冷たい海を泳いでみたい。シンシアも水着があるなら泳がないか」
「そうね、いつでも泳げる海じゃないから、ここで泳ごうかしら」
海は冷たく10分と泳げないだろう。しかし日差しの強さは短い北海道の夏を楽しむには十分なくらい強い。たぶん既に日本の領海は出ているだろう。ここで泳ぐなんて誰もやったことが無いだろう。武志はそんなささやかな冒険をしてみたくなった。ボートのエンジンを切って海流に任せる。水着に着替えてボートから飛び込む、水温は知床の海よりも暖かい。ただし、表面だけ。水面を泳ぐのには暖かいが立ち泳ぎすると足の先は冷たい。シンシアも水着に着替えてボートから飛び込んだ。武志はあわててボートに上がる。
「どうしたの、一緒に泳ぎましょうよ」
シンシアが海のなかから声をかける。
「どちらかがボートに居なければ、二人して遭難だぜ。一人が泳いでいる時は一人はサポートに回らなきゃ。危ないじゃないか」
武志はボートの上から声をかけた。
その後、交互に泳ぎを楽しんだあとボートの上で日光浴をする。
「タケシ 今、何考えてるの」
しばらく沈黙が続いたあとにシンシアが聞いた。
「何も考えていない。と言うより、昨日からなんか大きな流れに巻き込まれたのかなと思う。だとしたら、それを自分なりに受け止められるか? そんな不安を感じている」
「私の事は?」
「あまり考えていない」
「そんなぁ」
シンシアは笑いながら武志の胸を叩いた。
「ちょっとまずくないか。男と女が誰も居ない所で水着で向き合っているなんて」
「別に タケシは私に興味ないんでしょう。昨日の夜だって何もしなかったし」
「ちょと待ってくれよ。そんな話を今するのかい。順序立てて説明しないと解らないのかい」
「解らないわ」
武志はシンシアが甘えているのだと感じた。さっき言葉は伝わらないと言ったシンシアが言葉で表して欲しいと甘えているのだ。それに応えて欲しいのだろう。
「日本には応援団って考え方があってね。グランドで実際にプレーしている選手を応援、文字通り応援する集団のことなんだ。選手にとって成績を残すために何も寄与しないと僕は思うのだけれど、高校あたりではこの応援団が幅をきかせている。この応援団って僕から見たら卑怯な存在だと思う。ある意味で選手当事者のためじゃなくて、自分の満足のために応援しているのだから。選手が日本記録を更新したなんて時は応援団は自分のことのように喜ぶ、だけど、記録も出ないで残敗した時は当の選手と悔しさを分かち会うことは無い。
で、僕はシンシアの応援団だと思う。喜びを分かちあえても悲しみを分かちあえてない。まだ、人間関係としては未熟な関係。そのことが解るから、昨日の夜も自分には資格が無いんだと思った」
「じゃぁ今も応援団のままなの?」
「その答えは待ってくれないか。どうもここまで来ると応援団では居られないぞって自分でも思っている所だから」
武志はシンシアの長い髪をなでると立ち上がった。このまま話を続けるとシンシアを抱いてしまうような気がした。武志はそこまでまだ、割りきれていない。
 既に夏の終わりの日はかなり傾いてきた。時計は3時を過ぎている。
「そろそろ行こうか。ここからどっちに向かったらいいんだい」
武志はそのままの格好でシートに座った。エンジンを再び駆けてレーシングする。
「エトロフ島の南なの。遠くに山が浮き出ているいるでしょう。あの山の裏側の海岸から少し行った所」
シンシアの示す山はエトロフ島のベルタベル山の事だ。目測で30km以上ありそうだ。武志は日の有る間に島に着こうとボートのスピードを一気に70km/hまで挙げてシンシアの示す方向へ走った。
 既に日本の領海を離れ、今はソビエトの領海を走っている。しかし海なので国境を越えたと言う実感は無い。また、他の船の影さえ見えない。武志は知らなかったが、このボートはソビエトの国境警備のレーダーには映っていた。しかし、祖父が手を回しているので、取り締まる対象からは外されていたのだった。クザミリ水道に出ると波が出てきた。しかしボートはその波を強力なエンジンの力で押さえつけ強引に進んだ。ベルタルベ岬を大きく回り、エトロフ島の南側にでる。周囲に船が居ないのを確かめるとベルタルベ山の南南東、エトロフ島から10km程離れた小島の群れの中に入った。
「あの島がそうよ。南側から近づいて」
シンシアは手で一つの島を示すと言った。
武志は言われるとおりに南側から島に近づいた。4km四方のわりと大きな島だ。近づくと入江になっている海岸が見えて来る。武志は真っすぐそこにボートを進めた。シンシアが運転を替わろうと言ったがボートに比べて幅がある入江なので自分でそのままボートを進めた。
しかしそこに武志の誤算があった。武志は車を車庫入れするくらいの気持ちでいたのだ。入江を抜けると小さなプールのようになっていた。ボートはそこの浮き桟橋に泊めるらしかった。入江に入る速度が早かったので、そんな近くに浮き桟橋があると思わなかった。武志は思わず床を踏んだ。しかしボートにはブレーキは無い。あわててギアーをバックに入れてエンジンを吹かし制動をかける。今度は入江に向かって必要以上の速度でボートはバックで近づいて行く。スクリューは入江の岩を噛んでいやな音を立てる。
「ほら、やった。ここの波を読んでないとこうなるのよね」
シンシアは言った。しかしその様子は非難すると言うよりたしなめると言った意味あいが強かった。
「第一印象は落第点かな」
武志は自分に言い聞かすように小さく言った。
「スクリュウが曲がっただけでしょう。たいしたことは無いわ」
シンシアは破損した側のクラッチを切って片手で器用にボートを桟橋に近付けた。
「シンシア、何処に行っていたんだい。途中で故障でも起こして遭難したかと思ったぞ」
桟橋よりすこし奥の岩の上から大きな声がした。
「あれは誰?」
「あ、話して無かったわね。島に食料とか送ってくれる人の息子さん。新一さんって言うの。叔父さんの助手みたいにいろいろ島の設備の整備をしてくれるの。ボートの事は話さないほうがいいわ。後で私からお祖父さんにはなしておく」
シンシアは早口でそう話すと降りてきた男、新一にロープを投げた。新一はそれを桟橋の杭に結ぶ。武志のほうを不信げに見ている。
「この人、武志さん。向こうで知り合ったの。私一人で帰るのは危ないって送ってくれたの」
ボートを降りながらシンシアは武志を新一に紹介した。
「松任谷武志です。よろしく」
シンシアに続いてボートを降りながら武志は新一に握手の手をさしのべた。しかし、二人の格好が良くなかった。武志は海水パンツにTシャツをはおっただけ、シンシアは水着の上にヨットパーカをはおっただけだった。新一にたとえボートのスクリューの件は知られていないとしても、良い印象を与えるはずが無かった。武志の差し出す手を無視してシンシアに
「早くお祖父さんに知らせたほうが良いよ。昨日の夜は心配していたから」
と言ってシンシアを先に行かせた。
武志はボートからバッグを取りだし、シートに投げてあったGパンを履くと、その後を追おうとした。
「待ちな!」新一が引き留めた。
「何か、まだやることが残ってます?」
武志は高飛車な新一の言い方に腹をたてていたが、この島で最初に喧嘩はまずいと思い下手に出た。
「お前が、何を勘違いして彼女の後をノコノコ付いてきたか知らないが、この島ではおとなしくしてもらう。彼女は俺のものだ、お前に手出しはさせない」
新一は肩をいからせて、それがカッコいいと思っているのか、右手を握り左の手のひらを打ちながら今にも武志を殴り倒そうとしているように見える。武志が何も答えないのに力を得たのかさらに続けて
「お前みたいにニヤケタ男は、2、3発殴って根性を叩き尚してやる」
シンシアと武志が水着姿だったのが、よほど勘に触ったのか新一は怒鳴りちらした。
「なかなか、威勢がいいな。でもな、初対面の相手に対しての礼儀を知らないらしい。その根性こそ叩き尚してやろうか」
武志は感覚的にこのように虚勢を張る人間は最初に叩き潰しておかなければと思う。深慮遠謀とか熟考とかとは縁の無い物の考え方をするタイプだ。幸いシンシアは先に行っている。あとは、双方誰からも解るような傷を残さないように、どう始末するかだけだった。
新一は武志の言葉で感情が沸点に達したらしく 左右の打ち合わせていた手のリズムが狂う。そしていきなり右手のストレートで武志に殴り掛かってきた。左のフックでも出されたら武志はあわてただろうが、右手で来るのは予想通りだ。右に身体を開いてそのパンチを避け新一の態勢が崩れた所で右足を回し蹴りのようにして新一の背中を蹴る。蹴ると言うより押すといった感じだ。新一はバランスを失って桟橋から海にダイビングする。しぶきが武志の顔まで飛んでくる。
「少し冷たい海に漬かって、頭を冷やすんだな」
浮き上がって怒りに真っ赤な顔をしている新一に武志はからかうように言った。桟橋には一人で揚がれないだろうから、入江の岸まで泳いでから揚がる間に十分時間があるだろう。武志は再度荷物を持つとシンシアの後を追った。入江から大きな岩の間を抜けて崖を登るシンシアがそこで待っていた。
「さっそく1ラウンドやったの。どちらが勝ったの」
「単なるご挨拶。ただ、彼は何か勘違いしてるな。シンシアは俺のものだみたいな事を言っていた」
「それで、タケシは「ご挨拶」をした訳?」
「まったく、シンシアは、うぬぼれてるなぁ。僕は僕のプライドのために生きているだけなんだから」
「素直じゃないのね。ま、いいわ、早く家に行きましょう」
 住居は崖の途中の洞窟のような所が入り口のようだった。自然の洞窟を少し堀広げたのか内側にはコンクリーが打ってある。入り口は自然石のままだが、中は広い。しかもアパートのように廊下が延びている。突き当たった所はいくつかの部屋のドアがあった。洞窟と見えるが岩の折り重なったような所で風の通りは良く湿気はほとんど無かった。その透き間から差し込む光でぼんやりと明るい。
「たいしたものだなぁ。奇岩城のようだ。二年間でこれだけ作ったのかい?」
「まさか、これは昔からあったの。日本が戦争をしている頃、何に使ったかは知らないけど。ここを知っている人はもうほとんど居ないんじゃないかな」
「タケシには私の部屋を提供するわ。大事なお客さまですもの」
そう言ってシンシアは一番右側のドアを開けた。壁のスイッチを入れると電灯が点いた。
「電気も使えるのかい」武志は今では珍しい白熱電球を見上げて言った。
「私の部屋は小さいからこれだけ。でも居間で過ごすから不便じゃないわ。後で食事の時に皆に紹介するから、その時に居間も見せてあげる。それより、私の部屋に最初に入った男性として何か、記念になる一言は無いの?」
「そうだなぁ。この1歩は私にとって同じ1歩だが、人類にとって偉大な1歩だ。てのはどう」
「もっと、思い出に残るような事言えないの?時々タケシって私の事無視したような事をするんだから」
「じゃぁ、改めて。シンシアの部屋を最初に訪れた男としての一言。『本当は、彼女前の晩に俺の部屋に泊まったんだぜぇ』」
「もうやめて。タケシに求めた私が馬鹿だったのよね」
シンシアはどうしようも無いなと諦めたような表情で言った。
 タケシはあらためて部屋の中を見回した。10畳程の広さの部屋はちょっとした高級マンション風だ。別室で風呂や洗面所もある。部屋の隅には三菱のマークの入ったエアコンがある。セントラルヒーティングなのだろうか。隅の天井には電灯があり、蛍光燈に慣れた武志にはかえってあたたかみがあった。他には壁に組み込まれた本棚、シーツをピッチリと硬く掛けたベッド。南の海を走る大きなクルージングヨットのパネル、床は厚いグリーンのカーペットが敷かれている。
ラジオ、ステレオのたぐいは無いが、かなり豪華な部屋だ、これが洞窟の中にあるとは信じられない。
「この部屋を僕に提供して、シンシアは何処で寝るの」
「祖父の部屋に居候ね。他に部屋はあるけど、片付けてないから」
「その、片付いていない部屋でいいよ。こんな立派な部屋もったいない」
「私が、そうしたいって言ってるのよ」
「それじゃぁ、貸してもらおうかな。でも、なんとなく女の子の寝室を借りるって恥ずかしいな」
武志はシンシアのキラキラ光る澄んだ目を見つめながら言った。
「あと一時間程で夕食なの。その時、部屋にむかえにくるわ。それまではシャワーでも浴びて綺麗にしていてね。それから、お祖父さんは物の考え方とかに厳しい面があるから、あまりムキになって受け答えしたりしないほうがいいわ」
「なんか、面接試験みたいで心細いな」
 自分も着替えるのかシンシアは部屋を出て行った。ここは寝室のみらしく洋服等は別な部屋にあるのだろう。そう言えばこの部屋はタンスが無い。
武志はシャワーを浴びて潮水を流し、バッグからプレスの効いたズボンとカラーシャツ、アスコット・タイをしめる。シンシアにネクタイが必要かどうか聞いておけばよかった。上着にバックスキンの一張羅のブレザーを着た。
 ベッドに寝ころがって本棚に目を移す。英語のペーパーバックが半分、そして女の子なら必ず読むような文学全集、そして心理学の専門書もあった。
 本棚を見るとその人のことが解ると言われている。その人間の頭の中に何が詰まっているのか、それを表しているのが個人の本棚と言えるかもしれない。
 武志は本棚のペーパーバックの背表紙を読んでみる。日本の作家の英訳が多いのに気が付いて安心する。心理学の本は武志と分野が違うから手も足も出ないのはしかたないとして小説類で自分の手のでない難解なものをシンシアが読んでいると気になる。武志はどうも現代作家、それも大学生なら誰でも読むような作家に対して喰わず嫌いな面がある。五木寛之、柴田翔あたりは読んだことがあるが、安部公房、高橋和己となるとまったく手が出ない。手にすることが無いのだ。それに武志は古典的な小説が好きだ。歴史という背景を背負って読むことができる。モンテクリスト伯、レ・ミゼラブル、赤と黒、等のフランス革命前後、ナポレオンの出て来る話が好きだ。
 シンシアの本棚の隅に、庄司薫を数冊見付けて武志は安心した。彼女も一部分普通の女の子の面を持っているのだ。
『伊豆の踊り子』の英訳を抜きだしページをパラパラとめくる。そのうちに眠気に襲われて眠ってしまう。
 
第12章 シンシアの家族
 ドアがノックされる音で目がさめた。時計を見ると30分程しか眠っていないようだ。だが、頭はスッキリしていた。
「タケシ、居るの?」外でシンシアが叫んでいる
「ああ、少し寝ていたけど」
シンシアはドアを開けて部屋に入ってきた。
「どうしたの、疲れて眠ってしまった?」
「ああ、なんとなく、疲れてしまったのかなぁ」
「ところで、シンシアは心理学の勉強をしているのかい?」
「あら、本棚を見たのね・・・。そう、自分を知るための勉強かな。自分を含めて人を知るための勉強かな」
「そうかなぁ、本のハウツー物って古かったり、人を知らなかったりする気がするけど」
武志は意地悪な質問をした。心理学ってお互いが解り会う世界と少し違うと思っているから。
「私は活字で全てが伝わると思うほど単純じゃないわ。ただ、事前知識を得て置かないと時々判断を誤ることがあると思うから、勉強しているの。そんな事より食事の用意ができたわ。皆、待ってるの行きましょう」
シンシアは武志の手を引くと居間のほうに誘いだした。
 居間は廊下の突き当たりの戸を開けた所だった。武志はシンシアの祖父に会うことに期待と不安とそして希望の入り交じった複雑な気持ちだった。武者震いがする。
ドアを開けるとその部屋は元作戦本部として使われていたのかちょっとしたホール程の広さがあった。右側が食事の場なのか大きなテーブルがあり、椅子が8脚程並んでいる。左側は居間の形式で小さなテーブルを囲ってソファーが並べてあり、正面の壁全体が本棚になっていた。また、その横の一段高くなった所にはかなり年代もののピアノが置かれていた。食堂と居間と書斎を一緒にしたような部屋だった。
「お祖父ちゃん。タケシさんよ」
シンシアは武志の腕をとって右側のテーブルに連れていった。家族の者皆が集まっている。上座に祖父が、その右側に祖母が、それから叔父叔母、左に武志を座らせるとその左にシンシアが座る。
新一は家族と一緒に食事を取らないのか、その場には居なかった。
「はじめまして、松任谷武志です」武志は場の雰囲気に飲み込まれそうなのをこらえて、声を出した。
「タケシ君か、こんな不便な所に良く来てくれた。それにシンシアを送ってくれてありがとう。お客さんなんてめったに無いから話相手が居なくてネ。おおいに歓迎するよ」
祖父なのだろうか、武志の手を握りながら言った。日本語にはほとんどなまりが無い。
「こちらが私の家内、そしてシンディの母方の兄弟になる内間さんと奥さん。みなおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんと名前で呼ぶのはここではシンディだけなので、君もそうしなさい。こちらもタケシ君で良いかな?」
「ええ、かまいませんよ」
皆、心から武志を歓迎してくれるようだった、新一を除いては。シンシアが自分のことをどのように説明したのか知りたかった。
「マツトウヤさんとおっしゃいましたね」祖母が話しかけてきた。
「ええ、木の松に責任の任、そして谷と書きます」
「昔、香港で同じ松任谷さんと言う方が居て、珍しい名前だから親戚かなにかしら?」
武志はあまり遠縁の親戚まで知らない。外国なら家系図みたいなものが常に家庭にあるが、日本ではあまりこだわらない。武志の知る限りでは父も母も最初に北海道に渡った世代の3代目になる。
「良く解りませんが、調べたら意外と親戚かもしれません」
「そうなの、でも本当に日本でも珍しい名前に入るのでしょうね」
 祖母の口調は優しく武志に自分の孫のような親しみを感じているのかもしれない。食事をしながら話が進んだ。祖父は最近のニュース、その主なものは遅れて届く新聞によるのだが、その内容をもっと詳しく知りたいと言った。金大中氏事件とかソルジェニツィン問題とか国家と個人の問題に興味の中心があるようだ。自分の経験に近い話題なので当然かもしれない。
「実はシンディから聞いていると思うけど、私達は日本であって日本で無い琉球、日本では沖縄と呼ばれている所に長く住んでいてね。日本を良く知らないのだよ。米軍統治下の国だから国際的に国家とは認められない。住民には選挙権はあるが、住民が選んだ政治のその上にアメリカの国家の利益を優先する軍政制度がある。働いている人の多くはそのアメリカからサラリーを貰ってるので、逆らえない。そんな地域だった。そんな沖縄の現状をどれくらいの日本人が知っているのだろう」
 シンシアが一瞬心配そうに武志に目を向けた。これが、さっきシンシアの言った祖父の物の考え方をチェックする質問なんだろうか。
「北海道に生まれ育った身としては、正直言って沖縄返還問題の頃に勉強した程度なんです。日本の南と北の端、北海道と沖縄はある意味で同じ問題を抱えているのかもしれないと思って調べたりしました。しかし、その根本である文化からして北海道と沖縄は大きく違う。今の問いかけへの答えとして的確では無いかもしれませんが、北海道は良い意味でも悪い意味でもフロンティアスピリットを尊重する。沖縄は沖縄独自の伝統を大切にする。しかも、文化は政治や経済と別物で誰が統治しようが、何処の国に帰属しようが文化が曲がることは無い。ところが北海道では新天地だから政治も経済も文化もみんな一緒に一から作って行く。そんな風土の違いを感じますね。これは、北海道に住む私の感想です。
それで、お話の内容に少しは近くなると思うのですが、日本が沖縄をどのように理解しているかと言えば、まるで解っていません。現に復帰後の沖縄を観光開発しようと考えている人は多いようですが、観光が産業として成り立つには気が遠くなるような時間がかかる。そして、それが沖縄の文化と両立するのか疑問がある。
空手って実は漢字で書くと空と手ですけど語源は沖縄の唐の国の手ですよね。武器を全て取り上げられた民衆が武器を持たずに、もしくは武器と見えないものを武器として利用するのがカンフーであり、空手なのです。これって、刀刈りがあった日本の歴史と似てますよね。ただし、あえて区別すれば日本文化は武力を放棄して経済中心の非武装経済文化としての町人文化に向かった。沖縄は、空手に代表されるように同じ機能を別な物に求めた。話が長くなって申し訳ないのですが、私にとって沖縄は異文化である、って認識から物事の検討が始まらなければならないと思っています」
「なるほど」と答えたあとで祖父は黙ってしまった。それが何を意味するのか武志には解らない。
「タケシって不思議な人ね、一昨日会った時にはそこまで考えている人には見えなかったけど。大学ってそんな話が出来る人達が集まっているの?」
「集まっているとは言えないと思うけど、そんな人間も居るよ。でも、大学で学ぶことは講義を別にすれば、人間関係の体験だと思う。沢山の個に会いながら自分を形成する、そんな場なのかもしれない」
「なるほど、君が個人として捕らえているのは解った。どちらかと言うと君の得た情報が君の考え方の基本になっているのも良く解る。残念なことは、それは沖縄で体験したもので無いことかな。もっとも、私は体験しない人間に語る資格は無いとは言わない。経験しないと語れないとは思うけど、真正面から口に出して言えるものじゃない」
「体験した者だけが語る資格を持つと言う考え方は当事者しか語れない。だから、皆で考える事では無いとなってしまいますよね」
「うん、そこまで踏み込むとたしかにそうだ。でも世の中には当事者の問題と社会的問題の区別が付かない人間が結構居て、特にマスコミに多いまるで焦点がずれた話が横行する。少し経験のある先輩に聞けば解るようなミスが紙面を通じて漏れて来る。これって、なんか変だと思う感覚を大事にしたら良いだろう。人間は体験を通じて蓄積し、年齢を重ねることにより物事が見えてくる」
老人は武志とシンシアの会話が聞こえなかった様に話した。
「それでは、その年齢ってなんでしょうか? どんなに努力しても若者には年齢が積み重ならなければ解らない領域って踏み込めないのでしょうか?」
「そうだなぁ、言葉で年齢による判断を話して聞かせることは難しいのかもしれない。あえて言えば有限の未来。人間は何時か死してこの世界を去るってことかな。若さは無限の可能性を信じている。でも老人は決して自分は無限なものでないと解っている。死は誰にも訪れる絶対的なものだ。それを受け入れて残された者に語る人と、なにがなんでも自分が実現させると思う心とでは理解できない部分があるかもしれない」
「でも、若者、思春期ほど死について考える事が多いのではないかと思うのですが」
「確かに若いときほど死について考える機会が多いかも知れない。でもそれは、概念としての死であって、自分の死ではない。若者に自殺が有るのは、人生への不安じゃないだろうか。若者が未来は無限の可能性を秘めていると信じられないのは不幸なことだ。だがね、私達の年齢になると、未来への絶望なんて観念的なものじゃなくて、肉体の老化から納得する寿命なんだよ」
「それって、若者には理解不能な事なんでしょうか」
「まぁ、結論を急ぐこともないだろう。日本という国は、他人ごとのように日本って言うことは許してもらいたいのだが、太平洋戦争の頃に若者も含めて国民は死に方を決められていた時代を経験したのではないかと思う。今タケシ君が言ったことは、今の日本では死に向かってどのように生きるかも含めて全てがあいまいになっていいる。だから、皆が変なことだが自分を探している。本当は自分は自分の中にあるのだけれど、今はそうなっていない。思春期のような、死の概念しかない」
「たしかに死を概念でとらえるこことしか出来ないかもしれない。しかも、戦争の時代では無いから、自分の死する場面は考えられないかもしれない」
「人間にとって寿命をまっとうして死を迎えるのは必然だ。ただ、人生の中で1回しか無い死を現実のものと実感する歳になると、せめて、個人の都合による死よりも、誰かに役立つ死でありたいと思うのだよ。つまり、ある場面で自ら命を投げ出すことに意義を設けたい。で、この考え方は日本が戦争中に若者に強いた考え方なのかもしれない。でも、今、この歳になって、逆にそう思う自分がある」
「どうでしょう。最近の思春期って死を考える期間じゃなくなっているのかもしれない。シンシアはどう?」
「私はあまり考えない。本で読むと思春期の悩みの中に死の問題は出て来るけど、最近は着目されないんじゃないかなぁ。結局、結核とか思春期に死に至る人が居た時代の考えかたじゃないのかなぁ」
「うーん。時代なのかな、シンディですら、そう考えるのなら」
祖父はあまり、このような話を孫としないのか、嬉しそうに話した。
食事が終わり皆は隅のステレオの前に並べられたソファーに移った。祖母が紅茶を配る。
「夜はどうやって過ごすの?」
武志がテレビも無いこの家族の団欒がどんなものかシンシアに聞いた。
「叔父はラジオを聞いたり、昼間の仕事を続けたり。叔母は食事のあとかたづけ、私と祖父と祖母がここで本を読んだり、レコードを聞いたり」
「新一君はどうしてる、一緒に居ないの?」
「え、彼はボート小屋で機械の監視をしているわ」
「機械? どんな?」
「発電機とか冬はボイラーとか」
「一緒に居ることは無いのかい?」
「一緒に? 何故? 彼は使用人よ、何時でも仕事があるわ。タケシはなんで新一さんの事そんなに気にするの? あ、やきもち焼いているんだ」
シンシアは武志が「そうさ」と言うのを待つように武志を見た。
「やめてくれよ。皆に聞こえるじゃないか。僕はこの島のことを知りたいのさ」
武志は小声で言った。
「だって、気になるじゃない」
なおも食らいつくシンシアに叔父が助け船を出した。
「たぶん、シンディが家に戻って自分のペースを取り戻したのと反対にタケシ君は今日初めてこの島にきて、いろいろ気を使っているんだろう。それを解ってあげなくては」
「そうね。でも、昨日の夜はタケシのペースだったとは思えないけど」
「ちょっと、待ってくれよ。変に誤解される話し方は無しにしようよ」
武志はシンシアの発言を遮るように言った。
「まぁまぁ、タケシ君、これがシンディのペースなんだから」
叔父は若い二人の会話を楽しむように言った。
「ところで、タケシ君は大学での専行は何かな」
「いちおう電気工学ですが、範囲が広いですから」
「ラジオや無線機についての知識があれば教えて欲しいのだが」
「あ、そっちは別です。高校の時にアマチュア無線の免許取ったりして、そちらのほうは大学の講義と違い実践で勉強しました」
「実は今、困っていることがあって、ニュースを聞くために短波が受信できるラジオを組み立てているのだけれど、ノイズが多くて、居間で聞くには少し問題がある。VOAなんかを聴けると世界の情報に遅れないのだけれど、なかなかうまく行かない」
叔父は居間のキャビネットの戸を開けて自作の無線器を示した。最近では見掛けなくなった真空管式のラジオで、逆に武志が育った時代の技術だった。スイッチを入れると真空管のフィラメントがゆっくりと光だし、スピーカーから音が流れ出す。ここの島でも北海道の中波ラジオが入るらしく、雑音の中からプロ野球関連の番組が聞こえてくる。今日は試合の中継は無く1週間を振り返るような番組構成だ。
「この雑音が無くなれば良いのだけれどね」
叔父はボリュームを絞りながら言った。
武志の耳にはこの雑音の原因は電源から回り込むリップルだと直ぐに解った。電源は自家発電なので、通常の商用電力用の設計では雑音の回り込みを防げない。
「部品はどんなものがあります。それと半田鏝があれば」
「どの部品が効果があるのか解らないけど、ここの箱にある。それから、半田はすぐ使えるようにしよう」
武志は部品の箱の中にチョークトランスを見付けたので、これを電源部に接続する。ついでに、電源のコンデンサーを箱の中に有った一番大きなものに換える。アンテナ線も屋内はシールド線に換えてノイズを防ぐ。30分程で作業は終わった。それを手伝いながら叔父は武志の腕を確かなものと感じているようだ。
「さて、これで、ステレオ並とは言えないけど、ラジオが実用になったと思う」
武志は回路を確かめた後電源を入れる。今度は若干のフェージングはあるが、クリアーな音質でナイター中継が聞こえた。
「すごい、やはり実践で鍛えた腕はたいしたものだ」
叔父が驚いて言った。
「これで、野球が何時も聞けるようになったわね。今年は巨人の優勝を聞きたかったの」
シンシアが武志が何をしたのか解らないが、結果としてラジオが聴けるのが嬉しかった。ポータブルのICラジオは有るが、居間で皆でラジオを聞けるのがよかった。早速シンシアはVOAを探して聞き始めた。
「野球中継は良く聴くのですか」
自分の作ったラジオが予想した使われ方をしているのに満足したように見ている叔父に武志は話しかけた。
「聴くのは好きだね。キャッチボールもたまにするけど。昔米軍のキャンプの横を金網ごしに見ながら学校に通っていて、たまに午前中で学校が終わる時なんか金網ごしに兵隊が昼休みを利用して二組に別れて野球をやっていることを目にすることがあってね」
叔父は技術者にありがちな朴訥とした話し方をする。時々手の爪をなでながら話すのも、技術が好きでいろいろ挑戦してる結果なのだろう。
「上半身裸になって、力一杯バットを振り回す兵隊を見ているとただもう圧倒されてしまってね・・・・」
「外国人はジェスチャーがオーバーだから」
「そうだな。いやそれよりも、やることが何と無く大ざっぱで野球にしても当たればヒットかホームラン、外れれば三振。しかし三振しても悪びれるところがない。不思議に金網ごしに見ている我々にもその三振した軍人が次回バッターボックスに立つと、さっき三振した人だと解る。つまり、9人全員が個性的なんだ。ところが、その上を行くショーマンシップの日本のプロ野球にそれが無い。7番、8番バッターは打席を消化するために立っているように思う。個性が感じられない」
武志はこの話を聞きながら何と無く叔父という人間が解るような気がしてきた。機械をいじるのが好きだが、また、不完全な人間も好き。そんな包容力の大きさを感じた。
「タケシ君は野球は何処のフアンかな?」
祖父がタイミングを計っていたように話に割り込んできた。
「日本のチームなら大洋ですね。特にシピンがWプレーするときにフォームが好きです」
「大洋ねぇ。若いのに気の毒なことだ」
祖父は笑いながら言った。
「お祖父さんは何処のフアンなんですか」
「私達はバラバラでね。私は阪神。叔父さんが中日。シンディは巨人でね。時々中継がある時は皆でラジオ放送を聴くのだけれど、どうも皆が対立してしこりを残すようで」
祖父はにがわらいしながらシンシアの方を見た。
武志が解らないでいると叔父がフォローして
「そうそう、去年の8月頃だったかな。巨人の王選手がホームランをバンバン打つから1試合で4回も敬遠されたことがあって、その時にシンディが『武士道に反する』とか言って2、3日野球の話をすると機嫌が悪くなってね」
と言って笑った。
「ウソよ。ただ、アンフェアーって言っただけで、武士道なんて大げさな事は言ってないわ」
シンシアは必死になって言い訳した。武志もこの家族の中で甘やかされて生活してる時のシンシアなら言いかねないと思い、笑わずにはいられなかった。
「今日は月曜日だから野球の中継は無いけど、これからラジオが利用できるのが嬉しいね。それにテレビ受信へのチャレンジも武志君と一緒にやってみよう」
叔父は武志が設定した回路を確かめながら言った。
「タケシ君には、いろいろ教えてもらう事がありそうだな。そろそろ皆、寝ることにしよう。明日の朝はタケシ君を借りて射撃をしようと思うのだけれど、シンディはいいかな」
祖父の言葉に武志がシンシアの客と家族に認知されてのが嬉しいのか、シンシアは黙って頷いた。
 武志はシンシアから借りた部屋に戻りベッドに横になり今日を思い出す。
緊張感がほぐれた為か急に疲れを覚えた。ポケットから煙草を取りだして火を付ける。そういえば、シンシアの家族では煙草を吸うのは誰も居ないようだ。紫色の煙がゆっくりと天井に向かって流れていく。『今日一日、多くの事があり過ぎた。身体だってまだボートに揺られているようだし、耳には、あのエンジンの音が残っている』目には昨日のベッドに運んだシンシア、今日のボートの中での水着姿のシンシアが残る。ここは日本じゃない。ソ連だ。そして密入国。でも、ここの家族が全て同じなのかもしれない。初めて外国に居るのだけれど、それはイリーガル。そんな中で、武志はここにこんな家族が居ることを自分が解っていることを大切にしたいと思った。
武志は煙草の灰を近くの皿に押し付け、バッグの中から新しい煙草を取りだした。
その時、ドアがノックされた。
「タケシ、起きてる? もう寝てしまった」
シンシアの声だった。
武志は抜いた煙草をくわえたままドアの所に行きドアを開けた。
シンシアはGパンに赤いTシャツ、それにGパンとそろいのジャンパーを羽織っていた。
「入っていい?」
「ああ、もともとシンシアの部屋じゃないか」
「まあ、そりゃそうだけど」
シンシアは入ってきてベッドの隅に腰を降ろした。
「ドアは閉めないで、半分開けておいて」
「えっ、・・・・シンシアがそうしたいならそうするけど、急に信用無くなったんだなぁ」
「そうじゃないの、エチケットでしょう。祖母ちゃんに今日の昼間のこと話したら、二人だけで水着になって遊んでいるなんて、はしたないって怒られたの。考えてみると他の人から見たら変なんだろうなって気が付いたわけ」
「あまり、人から見たらなんて考えたこと無いけどな」
「うーん、私少し考えたんだ。タケシは今までは私のペースに驚いて受け身だったんだろうなって。だけど、タケシが自分のペースを取り戻した時に私の今までのペースを上回るペースで迫って来たら困るな、って」
「困る?」
「正直に言うとね、今まで私はタケシの先に先に回り込んで、タケシがドギマギする状態を作っていたの。そうしようと思ってしていた訳じゃないけど、やはりタケシの部屋に泊めてもらうって私にとっても怖いって感じはあったの。だけど、それって自分に素直じゃないって思うの。だから、これからは、辞める。それが、ドアを開けておいてってことなの。解る?」
「今までも素直だったと思うけどなぁ。ま、多少振り回されてるなぁって感じは持ったけど、それがシンシアの防衛本能なのかなぁ。僕は心理学は良く解らないけど、シンシアがそうしたいならそうするのいがいいだろうな。ただ、僕は今までどうりだ」
煙草を灰皿に押し付けて消しながら武志は言った。
「タケシ、そのお皿は灰皿じゃないのよ。私の部屋に灰皿があると思う? それは私が自分で作った絵皿なの。いちおう、芸術品。それを灰皿に使うなんてひどいわ」
「え!、あ、そうか。そもそもこの部屋で煙草吸うのが変だよな」
武志は今一度自分が灰皿に使っていた皿を見た。確か不格好な形は手作りらしい、しかし、これが絵皿とは思えない。そもそも、絵が描かれていない。
「そのお皿に白い点が沢山あるでしょう。それは星なの、その皿は夜空って作品。星を絵にした画家は居ないでしょう。私は世界に誰もいない星を描く芸術家なの」
「ふーん、真の芸術は常人の理解を越えているってやつかい」
武志のほうが悪いのだ、勝手に部屋で煙草を吸って、しかも手近な皿を灰皿にして。武志は火の消えていることを確認した吸い殻をゴミ箱に捨てるとハンカチで拭いてその皿を棚に戻した。
「そろそろ電気が止まるわ」
シンシアはそう言って机の上のランプに火を就けた。インテリアではなくて、これは実用品のランプらしい。そもそも煙草を吸わないシンシアの机の上にマッチがあるのが不思議だったのだが、このランプのためらしい。
武志が棚に戻した皿をその横のホルダーとともにランプの前に立てて
「常人にも芸術が解るわ」
と言った。2、3分するとスイッチを切ったわけでも無いのに部屋の明かりが消えた。
「電気は10時までで切れるの。音の問題もあって発電機を止めるから。ほら見て」
シンシアはランプの前に立てた皿を指した。急に暗くなったので武志の目は一瞬真っ暗になったが、徐々に目が慣れてくると、その皿が穴でも空いているように、後ろのランプの光を通して赤や青に小さな点を浮き上がらせている。シンシアの言ったように星にも見えないことは無い。
「なるほど、星のようだ。でも、どうやって作ったの?」
「ガラスの破片を埋め込めば出来ると最初は思ったの。でも、陶器が焼き上がる温度とガラスが溶ける温度が合わなくて穴のあいたお皿ばかりできたの。でも、叔父さんが色々工夫してくれて、これが出来たの」
「この島に陶器を焼く窯まであるとは思わなかったな」
「これ、叔父さんが使っている電気炉で作ったのよ。金属を焼き入れするために必要なんだって」
「金属の焼き入れ?」
武志は不思議に思った。ラジオを作るために使うわけではないし、叔父は技術者としては実践膚だが、何にその電気炉を使ったのだろう。
「そうそう、私、タケシを誘いにきたの。どう? 外に出て星を見ない? ここは何も無いけど星はとても綺麗なの。今日は天気もいいし」
「ああ、本当の星を見たくなったな」
武志はバッグからジャンパーを取りだしシンシアの後ろに付いて行く。シンシアはさっき就けたランプを持って廊下に出た。さっきの入り口の反対に進み階段を上がった。途中でシンシアはランプを消した。それでかえって暗さに目が慣れたのか屋根のような扉をあけると外の方が明るかった。
武志は最初月が出ているのだと思った。しかし空に月はなく、本当の星明かりで明るいのだ。満天の星。プラネタリュウムで見るような星空が広がっていた。今、目にしている大自然の星空を人工のプラネタリュウムと比較するのもの変な話だが。
夏と言っても夜はさすがに寒く、シンシアが体を寄せてくる。武志はその肩を優しく抱いた。
「あっちに少し平らな場所があるの」
二人は細い岩だらけの道を肩を組んだまま歩いた。少し行くと平らな岩場があり腰掛けるのに都合の良い石が並んでいた。二人が座るとあと音をたてるものは無い。静かな星空だった、体を寄せているシンシアの心臓の鼓動が伝わってくる。下の方で岩に当たる波の音が聞こえる。
 真上に天の川が流れる、白鳥が大きな十字を描いている。目の前の南側の水平線にはさそり座のアンターレスが低いこともあって赤みを増して光っている。さそり座のさそりのシッポは釣り針のようにはっきり見える。後ろの水平線では北斗七星の杓がまさに水を汲むように光っている。童話になっている琴座、鷲座のおり姫、ひこ星も天の川を挟んで輝いている。しかしこの一等星も、あまり沢山の星が見えるので影が薄い。武志の感覚ではここでは6等星まで見えるような気がする。
「静かね」
「ああ」
「こうしていると、世界に二人しか居ないみたい」
「うん、一人で見るのは怖いくらいだ」
「シンシアは、天の川のおり姫と彦星の七夕の話を知っているかい?」
「おり姫? いいえ、天の川はミルキーウェイって感覚があるから」
「僕もしっかり覚えているわけじゃないよ。ただ、昔は夜になると明かりはなかったから、今よりももっと星が沢山見えたと思うんだ。その星のなかで夏には何時も頭上に見えている天の川を挟んで二つの星がある。この天の川を挟んだひとつが女の子のおり姫、そして男の子の彦星。二人は夫婦なんだ。彦星は牛飼いだったのだけれど、働かないでいつも遊んでいた。そして、天の川には橋がかかっていて、二人はその橋を渡って天の川の両岸に行けたんだ。ところが、働かない彦星に神様が怒って、織り姫が橋を渡って対岸に行ったときに橋を壊してしまう。
だから二人は会うことも話すこともできなくなってしまった。しかし二人は愛し合っていたから神様がこの二人を可愛そうに思い、一年に一度だけこの川に橋を掛けて二人を会わせることにした。それが七夕の夜で、人々は二人の1年に1回のデートを笹を飾って祝福する、そんな童話があるのさ。もっとも7月7日は北海道ではまだ夜は寒いので、北海道の七夕は8月7日なのだけれどね」
「そう、七夕ってそんなお祭りなのね・・・・でも童話にしては悲しい話ね、一年に一度しか会えないなら、そのうちどちらかの気持ちが変わってしまうでしょうから」
「童話を聞いてそんな心配をする人も珍しいかな」
「星って不思議ね。頭の中ではそれぞれ自分からの距離は想像出来ないほど離れているのに、こうやって夜空って丸いスクリーンの上に光っていると、この星とこの星にはロマンスがあるなんて人間は考えてしまう。本当は横から見たらもっと遠く離れている星なのに」
「そうだよ、でも、ずいぶん天文に詳しいんだね」
「昔、沖縄で父と一緒にカノーブスを見ようとチャレンジしてた時があって、色々教えてもらったの」
「カノーブスかぁ。北海道ではまったく見られないものなぁ。たしか見た人は長生きするって伝説がある星だよね」
武志にシンシアの肩が少し震えるのが感じられた。シンシアの父はもう居ないのだった。
「ごめん、気を悪くしたかな」
「いいえ。でも、私達これからどうなるのかしら。今はこうして一緒に居られるけど、そのうち遠くに離れてしまうの?」
武志の記憶ではシンシアが「私達」と言ったのはこれが始めてだった。武志にはまだ「私達」って表現が馴染まなかった。シンシアに「私達」と言われてどうして良いのか解らなかった。
「あ、流れ星」
不動に見える天空を駆け抜けるように流れ星が見えた。丸いドームのような星空から浮き上がって直線に飛んだ。
「タケシ、流れ星が見えてる間に願い事をすれば、その願いがかなうって知ってる」
「オトメチックな小説には良く出てくる」
「今度、星が流れたらお願いしょうっと」
さほど待たなくてもまた星が流れた。
「タケシとずっと居たい」
シンシアは流れ星が短い間しか光らないと思い、早口で言った。
「この願い、かなうかしら」
「うーん・・・・解らない。でも、こうして一緒に居るじゃないか」
武志は星空を見上げながら、自分がシンシアと何時までも一緒に居る存在なのか解らなかった。自分にはここの島のことを全て忘れて大学生として過ごす道もあるのだ。だから、シンシアの一途な思い込みを受入られない面があるのだろう。それは卑怯なのかもしれない、またシンシアが言っていた「勇気が無い」なのかもしれない。
 武志が部屋に戻ったのは1時頃だった。夜露で濡れ冷えた体を毛布が少しづつ暖めてくれて気持ちが良い。珍しく夢も見ないでグッスリと眠った。
 
第13章 軍用モーゼルカスタム
 千島の朝は早い。日本の標準時より1時間は早い。標準時の明石からは15度以上東になる。しかも夏は北の高緯度のほうが日の出が早い。昨日も1時頃には東の空に朝の気配が感じられた。シンシアが起こしに行くまで寝ていても良いと昨日シンシアに言われたのだが8時になっても呼びに来ないので部屋を出て居間に向かう。途中昨夜知った裏口に登ってみると目が痛くなる程明るい。抜けるような青空が広がっている。
 少し寝不足気味だが、外の空気を吸うと気分がスッキリしてきた。居間に行くと皆もう食事が終わったのか祖母が一人でお茶を飲んでいた。
「おはようございます。今日も天気がいいですね」
「ええ、そうらしいけど。私はあまり外に出ないから」
「皆は、もう・・・」
「ええ、でもシンディは昨日夜が遅かったので、まだ眠っているようだけど」
「朝、起こしてくれるって言ってたんですけどねぇ」
祖母は立ち上がって武志のために食事の用意をしてくれた。しかし、昨晩のような親しみが今日は見られない。
「昨日、シンディは、あなたといろいろ話せて嬉しかった、今夜は眠れそうにないとと言っていました。私は途中で眠ってしまったのですが、かなり遅くまで日記を書いていたようでした。あなたはシンディに何を話したのですか?」
武志は朝からそんな質問をされるのにちょっと気を悪くした。祖母がよそよそしいのは、それが原因だったらしい。武志はこの祖母に反発してみようという若者特有の気持ちが起きてきた。
「どんな話だったと思います?」
祖母は逆に質問するような返事が返って来ると予想もしていなかったのか、次の言葉が出なかった。
「私には解りません。残念ながら私がシンディの気持ちを理解するには世代のギャップが大き過ぎます。あの子は今、恋をしています。貴方に。私達の世代では運命の偶然で知り合って恋に落ちるなんて物語の中でしか知りません。決められた人生、運命の中で育むものが恋だったのですから」
武志は自分の気紛れな一言が、祖母の心を傷付けたと知って、反発心は急に薄れた。自分の我が儘で人を傷つけるのなら、始めからその人と付き合わないことだ。それが武志の考え方だ、だけど武志はこの島で生活するシンシアの家族から何か教えてもらえると自分から飛び込んで来たのだ。その自分が祖母に失礼なことをしているのが恥ずかしかった。
「貴方はシンディをどのように思っていらっしゃるの?」
「今の僕のシンシアへの気持ちは言葉で表して伝えることが出来ないです。僕も年齢なりに恋も幾つか経験しましたけど、こうやって家族の人達と会ってという経験は無いです。何と言ったらいいか、恋人とも違うし、友達とも違うし、兄妹とも違う。男と女と言うより、あのエキセントリックな人間性に引かれているのかもしれません」
「そうですか。でも、あの子はまだ子供ですから、恋に恋して自分を見失うようなことが無ければと私は心配なのです」
「解ります。でも、一生子供で居られないのだから、多少傷ついても大人に向かって少しづつ歩んでいかなければと思いませんか」
「貴方のおっしゃりたい事は、このまま島で過ごしていてはシンディは大人になれないって意味ですね。それは、そのとうりです。ここでの生活は何時までも続けられないし、かと言って、シンディはこれから社会で生きていかなければならない。そのあたりの悩みは私達にあります。その悩みを松任谷さんが解っていらっしゃるようで安心しました」
「松任谷さんだなんて、タケシと呼んでください」
「ええ、じゃぁタケシさん、シンディを大切に思っている祖母のことを心の隅に置いていただけますね」
「はい」
人生の年輪というのはこのようなものだろうか。祖母の目は訴えるように、しかも武志の嘘を見抜けるのだと言うように威圧感があった。しかし武志は真っすぐに見て「はい」と答えることができた。自分がシンシアに軽率な態度で接したら、たぶん見破られていただろうなと思いながら。
そこにシンシアが起きたばかりといった風で居間に入ってきた。
「おはよう。アーァ、まだ眠たいわ。何の話をしていたの?」
武志と祖母の間の雰囲気を感じてシンシアは聞いた。特に興味は無いが、と断りを入れているような話し方だった。たぶん、推測できているのだろう。
「昨日は全部紹介できなかったけど、島の観光でもしましょうか。そんなに広くはないけど、景色が良いところがいくつかあるの」
コーヒーを注ぎながら、シンシアは自分で話題を替えてしまった。
「ここの海は泳ぐことは出来るんだろう。泳げなくても釣りはできるだろう。みんなに、おいしい夕食を御馳走できるといいけど」
「泳ぐのはほとんど無理ね。冷たくて手がかじかんでしまうもの。釣りは出来るけど叔父さんの話では明け方意外はほとんど無理みたい。船で沖に出ると何時でも釣れるはずだけど、回りを通る船から見付けられるからあまりできないし」
「お世話になりっぱなしじゃ、心苦しいから叔父さんの作業の手伝いなんか出来ないかなぁ」
その時、戸口のほうから鈍い銃声が聞こえてきた。
「あれは?」
「お祖父ちゃんと、叔父さんが射撃の練習をしているみたい。この島では体を動かすことは少なくなるから、運動のために競争してやってるわ。あ、タケシも射撃をするって言ってたわね。やってみる?」
「ああ、見るだけ見せてもらおうかな」
「じゃぁ、行きましょう」
「食事は? 起きたばかりだろう」
「朝は食べないの。じゃぁ、行ってみましょう」
 二人は裏の出口から外に出た。部屋を出るときに武志が祖母を振り返ると、祖母は武志に『シンシアの事は頼みますよ』と言っているようだった。思わず武志は胸に手をあててジェスチャーで返事をした。昨夜星を観た所からさらに先に行った所に四方を大きな岩や土手に囲まれたテニスコートを縦に3つほど並べた窪地があった。一方の端に祖父、叔父それに新一が居た。もう一方の端に台があって空缶が並べて立てて有る。
「おはようございます」
武志が言うと叔父は唇に指を当てて『静かに』と合図した。祖父が銃を構えている。引金が引かれた。武志の持っている22口径より大きな音がした。よく見ると祖父の持っている銃は一昔前のM1ライフルに似せたライフルだった。
「やったぞ、27個連続だ、新記録だな」
祖父はレバーを引いてまだ薄く煙の残る薬莢を飛び出させた。
「ええ、でも新一君の45個まではまだまだですよ」
叔父が言った
「何の競争ですか」
武志が聞くと初めて武志やシンシアが来たのに気が付いたのか祖父がライフルの薬室を空にして横に立てかけてこちらに向き直った。
「いやいや、競争ではなくて遊びだよ。あそこの空缶を連続何個撃ち落とせるかを楽しんでいる。今、私が27個連続で、自己新記録。叔父の26個の記録を破って、この島で第2位になったわけだ」
祖父は、してやったりと言うように叔父を見ながら笑った。
ざっと見て標的までは20m程、武志の練習では標的の7、8点圏内だろう。
「でも、我々の記録は新一君の40連続なんだよ。これは我々では破ることは できないだろう」
祖父が残念そうに言った。
「やってみるかい」
まさか武志が銃の扱いに慣れているとは知らない新一は武志に恥をかかすチャンスとでも思ったのか、銃を差しだして言った。武志は銃を受け取ると薬室を開いて実弾が入っていないことを確かめる。新一の使っていたライフルは狩猟用の大口径のウインチェスター70であった。弾倉を抜くとこれも狩猟用のホーローポイント弾が詰まっている。武志はこのライフルを空のままで構えてみた。重い10kg近いだろうか。鹿や熊を相手に狩猟を目的にライフルを使う場合と武志のようにスポーツライフルとでは根本的に道具であるライフルに対する考え方が違う。標的に正確に弾を運ぶスポーツライフルと違い弾が標的に当たった後獲物を殺傷するためには、使う弾や打ち出す速度が何倍も強力なものが要求される。また、俊敏な発射が要求されるから、肩付けが容易で、いざとなれば腰溜で撃てる形状が要求される。
「撃ってみないのか」
新一は構えだけの武志に挑発的に言った。
新一がライフルの免許を持っているかは疑わしいが、北海道では散弾銃の経験を3年積んで狩猟免許を得る者は多いので、たぶん、新一も免許を持っているのだろう。逆に武志は金が無いので散弾銃の練習ができず無免許なのだが。
「たぶん、僕の腕ではこれは扱えない。1発だけ、参考に撃たしてもらって、そちらのM1でやらせてもらうよ」
 武志は1発だけ薬室に送り込み、一番端の缶を狙って撃った。引金が硬い、引くのに銃がぶれた。発射の瞬間目の前が真っ白になる。強烈な反動を肩に受ける。飛んでいく弾が空気を引き裂き衝撃波を出しているためか、黒い点に見えた。狙った缶の上30cmあたりの土手に土埃があがる。
「何処に撃っているんだ。もっと下だぞ」
新一が目的を達して声高に笑う。
武志は右肩に手をやった。強烈な反動が予想以上だったので擦り傷が出来ているかもしれないと思ってだ。こんな銃で射撃をするのは馬鹿げている。当てて殺傷する目的のライフルとスポーツ射撃は違うのだから。
「やはり、これは僕には大き過ぎるみたいだ。お祖父さんの銃を貸してもらえますか。サイトは調整しませんから」
薬室を空にして新一の銃を机に置き、祖父に聞いた。
「いや、サイトは動かしてもかまわないが、そんなに違うものなのかな?」祖父は武志が負け惜しみに理由を付けているように受け取ったのか疑うように言った。
『この人が沖縄で息子を失ったのは、武器に関する知識の少なさかもしれない』武志はその言葉のニュアンスに一瞬そう思った。M1も武志には初めてのライフルだった。ただ、持った感じでは手入れが悪いと言うよりも材質の問題かかなりクタビレタ銃の感じがした。薬室に弾を込めて、標的の空き缶を狙う。照準はピープサイト型に改造されているので照準が付け易かった。正確に空き缶を中央に入れて引金を絞る。祖父の癖に合わせているためか、武志が撃つと下にそれた。10cm程だろうか。武志は照準を5クリック程上にする。この距離なら直接照準だろうから。
2発目を撃つと武志の予想とは若干違い缶の左側に当たり、缶はスピンしんがら飛び上がった。
「当たった、当たった!」
今までのなりゆきを心配そうに見ていたシンシアが声を上げた。
「まぐれ当たりかな。もう一つ落としてみれよ」
新一が言う。
「あたるか、外れるかは解らないけど、では、もう一回」
武志はおおよその銃の感覚をつかんだので、再度挑戦することにする。今度も空き缶を宙に飛ばした。予想してた分を修正したので真ん中に当たる。しかし武志に特にこの島での射撃大会に興味は無い。銃を祖父に返すと観客に戻った。Tシャツの下の右の肩を覗いてみると赤くなっていた。それほど強烈な反動だった。それを何発も撃ち続ける新一の体力にには驚きを感じた。それに慣れているということは銃を扱うのに近い業界に居るのだろう。
「さて、記録更新と行こうかな」
祖父が戻った銃に弾を詰めて言った。
「照準をいじりましたから、元の感覚で、缶の下ぎりぎりを狙ってください。しかも少し右側を」
武志は再照準しないで撃ち始めようとした祖父にアドバイスした。
祖父は理解できたのか解らないが、残っている缶に照準を合わせた。最初の1発は見事空き缶を捕らえた。
「タケシ君のアドバイスどおりだな」
祖父は武志の言ったとおりに照準したらしい。
撃つごとに祖父は記録を伸ばしていった。そして1発命中するたびにシンシアは声を上げて喜んだ。それでも35発目に外れて記録は34連続だった。武志から見ると撃つときの姿勢が一定でなく、まだ構えの練習を繰り返したほうが、命中率が上がる構えだ。
 今まで目にしなかった叔父が小さなアタッシュケースを持って坂を降りて来る。武志に見せたいものがあるようだ。
「なにか珍しいもののように見えるけど。それ、なんですか?」
武志は叔父の手元のアタッシュケースを見ながら言った。
「タケシ君は銃に詳しそうだから、これを見てもらおうと思ってね」
叔父はそう言うとアタッシュケースの中から銃を取りだした。いや、小銃の範囲を越えている。モーゼル軍用がケースに入っていた。その独得のスタイルは銃を知るものならば一目で解るはずだ。
「これは、正確に言うと、モーゼル・ミニタリー・ピストル・M7-2・スペシャルと言うわけだ」
叔父は遊手を引いて弾が入っていないことを見せ、それから、2・3度空撃ちをしてから武志に手渡した。
「これが・・本物を見たのは始めてですよ。矢張り前が重いバランスですね。撃つと丁度良いバランスになるのかなぁ」
「タケシ君、最後にスペシャルが付くだろう。これはレプリカ、私が作ったんだ」
「貴方が、どうやって?」
「技術的興味、だけじゃないのだけれど、祖父から銃の作成技術を取得しておいたほうが良い時代がくるかもしれないと言われて、研究しながら作ってみたんだ。さっきタケシ君が使ったM1も私が作ったイミテーションなんだよ」
「解ってましたよ。撃った瞬間銃身と銃床の間のショックをやわらげるアブソーバーが違和感があった。でも、どうやってそこまで作ったのですか?」
「あれは最初の作品だから・・・・。まず、モデルガンを手にいれてね。最近のモデルガンは本物の設計図を見ながら作っているのか、本物の機構が良く再現されている。最初はヤスリがあれば根気よく作れると思ったが、結局、旋盤が必要になり、そして、仕上げの焼き入れに電気炉が必要になった」
「あ、それで、シンシアの芸術品の絵皿を作ったのですね」
「あ、それを見たのかい。あれは、電気炉の温度コントロールの実験に使ったのだけれど、それはシンディには内緒だぞ」
 武志は昨晩から目にしている叔父の油で汚れたような黒くなった手が、実は工作機械をあやつる手だったのだと改めて納得した。
叔父はアタッシュケースの中から弾を取り出すと武志から受け取ったモーゼルの弾倉に弾を込めた。
「その弾も自作ですか」武志は聞いた。
「いや、これは新一君に買ってもらったものだ。いくら私でも、火薬を詰めて弾を作ったりしないよ。均一に造れる技術は無い」
叔父は弾の入っていた箱を武志に投げてよこしながら言った。
武志はおかしいと思った。さっきのM1に使われている弾はいわゆるNATO(ナトー)標準で、同じ口径のハンドガンも出ているから、アメリカ経由で購入するのは法律問題を別にすれば難しくない。しかし、このモーゼルが特別な改造をほどこしてなければ7.63ミリの特殊なものだ。街の銃砲店や米軍の横流しで手に入るものではない。
叔父が作るときに手にはいる弾に合わせたのかとも思ったが、箱にはMAUSERと印刷してある。しかし武志は口に出して言わなかった。新一がどうやって入手したか聞くことによって新一の背景が明らかになったとしても、ここはこの家族しか居ない孤島だ。新一の背景がなんであれ、この一家は新一を頼らざるを得ないのだから。
 叔父は弾倉に弾を2列交互に10発詰めた銃を武志から受け取ると遊手を引いて弾を薬室に送り込み空缶に向かって引金を引いた。発射音はかなり乾いた音だ、大きさはライフルより大きいかも知れない。缶にはあたらなかった。薬莢が真上に飛び出す。
「これには、フルオートがあるんだ」
叔父はセレクターレバーを切り替えると少し銃を下に向けて引金を絞る。ブオーと音がして銃が反動で跳上がる。その僅かな間に残りの9発が発射されたのだ。武志は始めてみるマシンガンの機構に驚いて口も利けなかった。真っすぐに銃を構えたら10m程の間隔で弾が連続して飛んでいることになる。
「本当はこのフルオートが出来るM7−2型は20発入る弾倉を使うのだけれど、サンプルのモデルガンではその機構が良く解らなくて、試行錯誤したけど巧く給弾できる弾倉が作れなかったかったんだ」
叔父はかなり詳しく説明をした。
今度は武志が撃ってみる。
ライフルなら必中の距離だが、大きいとは言えピストルにはつらい距離だ。3発に1発くらいしか当たらない。しかし、自動銃なので一回一回レバーを引く必要がなく射撃の感覚を掴みやすかった。すぐ10発の弾倉は空になった。もう一度弾を補充してフルオートで撃ってみる。強く握っていないと銃が反動で上に半回転して自分の頭をふき飛ばしそうな感じだ。しかし武志は軽く引金を撫でるようにして3点射が出来るようになった。20発の弾倉があれば、結構練習できるのだが、3点射でも弾倉はすぐに空になる。また、フルオートで撃つと手で持てない程銃全体が熱くなる。しばらく、銃を冷やすために休むことにする。
 叔父は鞄の中からこれも自分で作ったのか様々なオプションパーツを取りだして、組み立てる。まず、木製のショルダーホルダー、そして銃の横に取り付ける光学サイトスコープ。武志はサイトインしてから弾倉の下を左手で支えてひざ撃ちをしてみる。3発に2発は当たる。サイレンサーを付けてみるが、これはまるっきり役にたたない。音は小さくなるが、弾は今までと全然違う軌道を描いてはるか手前で地面に落ちる。
「サイレンサーって本当に効果があるのだろうか。これを作ってみてピストルにサイレンサー付けるくらいなら、新しい方式の銃を考えたほうが楽だと思ったね」
叔父は武志が苦労しているサイレンサーが不出来なのを認めて言った。
弾は山ほどあると言う叔父の話に安心して、武志は練習を重ねる。もちろんサイレンサーは外して。しかも銃が暖まらないように使うと、せいぜい1分に1発程度の発射頻度になる。
「タケシ君が使うと作ったかいがあるな。これは中々使えなくて、今までしまっておいたのだから」
「偶然かもしれませんが、このショルダーホルターなんか、ピッタリの長さでとても使いやすい」
「うん、見ていると本当に体の一部になったようだ。。私からこの銃をプレゼントさせてもらおうかな」
「え!?」これを僕にくれるのですか。
「ああ、道具はそれを使いこなせる人が持つのがよい。私にはそれを使える技術は無い」
「しかし、いただいても、日本の法律では個人でハンドガンは持てないのですよ。残念ですが」
「え?、それは初耳だな。だって、新一君はコルトのディテクティブを持っているよ」
「それは事実かもしれませんが、日本の法律では禁止されてるのです。だから、これをいただいても僕は持って帰れない」
「それは知らなかった」叔父は声をひそめた、そして顔が曇った。
「とりあえず、それは、この島に居る間は手元に置いておいてくれ。ここで自由に練習してくれていい。弾はまだ沢山あるから心配はいらない。もっと、これを沢山作る予定だったんだけど、今はこれ一つしか出来ていない。もしかしたら、私にこれを沢山作らせるのが目的の人が居るのかもしれない。まぁ、そのあたりは良く調べてからにしょう。タケシ君も誰にもこのことは言わないでおいて欲しい。いいね」
叔父は武志に念を押すと自作の一式を武志に預けた。
武志はMAUSERを分解して軽く火薬カスをブラッシングで落とし鞄に戻した。その間叔父は黙って考え事をしている。
「その銃は、ここに居る間は自由に使っていい。それから、弾は私に言ってもらえれば金庫に沢山あるから」
叔父はそう言った。そして一人で考えたいのか下へ降りていった。
 武志は一人残り、近くの岩に登り海を見ながら煙草をふかしていた。祖父も新一も射撃はとっくにやめて下に行ってしまった。この島は特別な海域にあるのか海には全然船が見えない。その事がこの島を安全な隠れ場所にしているのかもしれない。そうでなければ、昼間は洞窟から一歩も外に出ることができないだろう。
 潮騒が遠く下から響いて来る。それに混じって下から誰か登って来る足音が聞こえた。足音はそっと武志の後ろに回り込もうとしているが、武志にはそれがシンシアの足音なのは解っていた。しかしわざと気が付かないふりをして海を見ている。
「誰だぁ」
シンシアは子供っぽく武志の後ろから目を覆っていった。
「この島で、誰だぁ、もないだろう」
武志は手を振りほどくと体を回してシンシアのほうも見ながら言った。握った手を引き寄せてシンシアを抱き締めようとする。
「いいじゃない、遊びなんだから、合わせてくれたって」
シンシアは手を振りほどくと武志に背を向けた。岩の上に腰掛けると手元のバスケットからサンドイッチを取りだして一人で食べ始める。
 昼はかなり過ぎている。3時くらいだろうか。射撃に夢中になってたので感じなかったのだが武志はひどく空腹なことに気が付いた。シンシアの横に座り、バスケットの中からサンドイッチを取りだして食べる。シンシアは何も言わなかった。
「怒るなよ。別に悪気があった訳じゃないいんだから」武志が口火を切った。
「そうよね。、この島には隠れるほどの人も居ない。窮屈過ぎるわ」
「そんな不満は贅沢なんだって思わないかい。世の中には家族と一緒に暮らしたくても経済的理由で別々に暮らしている人も多いんだぜ」
 そんな話を日没まで海を見ながら二人で話した。その間にも沖を通る船は一艘も無かった。吹いて来る風は秋を感じさせる程冷たくなってきた。
 その夜、夕食が終わると武志は部屋で叔父からもらったMAUSERを一つ一つの部品にまで分解した。実際のMAUSERがどのようになっているのか知らないが、叔父が苦労しながら作った様子が各部品を見ると感じられた。銃の持つメカニックな冷たさ。単なる機械なのだが引金を絞った瞬間吠え狂う。動と静、鉄の塊と火を吹く躍動、その極端な背反、それが銃の魅力なのかもしれない。
銃口を向けられた時の恐怖感、グリップを握った時の安心感、そんな相反する魅力を銃は持っている。何回も分解、組み立てを繰り返し全てを知ってこの銃を自分のものにしょうとしていた。
「タケシ、入ってもいい?」廊下からシンシアの声がした。
「ああ、いいよ」武志は手を休めずに言った。
「まぁ、何しているの。床が油で汚れるじゃないの」
「その事は気を付けてるよ。それに給油はここではやらない。必要なら外でやる」
「男の人って不思議ね。そんな鉄の塊や機械に興味を持つなんて。何処がそんなに面白いのかしら」
シンシアは眉をひそめながら武志に向かって言った。自分の部屋に煙草に加えて銃まで持ち込まれて少し御機嫌が悪い。
「どうして興味があるかって聞かれても解らない。ただ、気が付いたら好きだったってことかな。その心理を研究するのがシンシアの得意分野じゃなかったかな?」
「得意分野? あ、あの本のことを言っているのね。別に心理学に興味がある訳じゃないの。只、私あまり人と話す機会が無かったから、自分以外の人の物の考え方を知りたくて。でも、沢山色々な人を知らないと読んでもさっぱり解らない」
武志は聞きながら銃を組み立てて鞄の中にしまった。油で汚れた手を洗いながらシンシアの話を聞いていた。
「でも、最初に会った時は、そんなに他の女の子と違っているようには感じなかったよ」
「ええ、それは私が感じているように、タケシと私はずっと昔から知っている間柄のように感じる。それは、お互いがお互いに違和感が無いだけで、ひょとしたらお互いが社会から相当違和感ある存在なのかもしれないって最近感じている」
「難しい言い方だなぁ。つまり、一言で言うと似たもの同志ってことかな」
「ニタモノドウシ。それってどんな意味なの。私とタケシの何処が似てるの?」
「たとえ話として聞いて欲しいのだけれど。お互いが相手の気持ちを理解して、こうして、話している時でも特に気を遣わなくても互いのプライバシーには踏み込まない境界線を好く解っている。そんな間柄って意味さ」
「ふーん。友達の条件みたいなもの?」
「友達!?」
「ええ、友達」
「前に僕の友達が好きな女の子が居てね。結婚したいなんてその子に言ったんだ。そしたら、その女の子は『友達のままで居ましょうよ』って答えたんだって。で、その友達は『友達関係なら、いいや!』ってその子に言ったんだって」
「え? タケシは急に話が変わるから分からない」
「まぁ聞けよ。同性の友達関係と異性との友達関係は基本的に違うってこと。同じように友達なんて言葉で分かったようにならないほうがいい」
「だって、友達じゃない」
「人間関係には沢山の表現があって、その表現の数々を言葉としてじゃなくて、体験で分かると、なんで、人間同志の関係にあんなに用語が沢山有るか分かって来る。シンシアももう少し大人になったら分かる話だと思うけどな」
「私、子供じゃないわ。今の話を詳しく教えて」
「今言った話は、シンシアの僕への気持ちを今まで経験した誰かへの感情の中から探したら説明出来ないと思う。今までと違うと思ったら逆に理解が出来ると思う。この意味は自分でもう少し考えたら解ると思う。それはそれとして、今日の天気はどうかな。ここの星空は本当にきれいだから」
「そうそう、その事でタケシを誘いに来たの。叔父さんが望遠鏡を出して星の観察をやっているの。一緒に見てみましょう」
部屋をかたづけると廊下を進んで天窓のようなドアを空け二人は昨日の場所へ向かった。
武志は祖母が監視役に叔父を付けたのかなと思ったが、直ぐに打ち消した。妙な勘ぐりは武志の性に合わない。
 
第14章 試練
 島での生活は二週間目に入ろうとしていた。短い北海道の夏も終わり朝夕は秋の訪れを感じる。昼間だって太陽の高さは、あの7月のようでは無い。特に日の入りが一日一日と急激に早くなってくる。6時になると西の空を除いて、夕闇に包まれる。
 武志の夏休みももう終わる。近ごろでは島での生活よりも帰ってからのことについて考える時間が多くなった。『この島の秘密を守れるだろうか。ここの家族は何時までここに居るつもりなんだろうか。シンシアはこのままここで過ごすつもりだろうか』、相手に聞けば答えが得られる訳でもなく、かと言ってずっとここに居られない自分の生活もある。それがもどかしかった。
 釣りをしたり、海岸で日光浴をしたり、星空を見上げたりしながら、そんな時間に考えるのはこれからだった。
シンシアもいつまでも今の状況が続くわけが無いことは知っていて、今の幸せの後にくる不幸せを考えてか沈みがちだった。
「そろそろタケシを送っていかなきゃネ!」
そんなある日の夕食の時にシンシアがポツリと言った。
「そうだな。夏休みもそろそろ終わるだろうし、何時までもここに居たいけど、帰ったら浦島太郎では困るし」
「浦島太郎になる?」シンシアは武志の言葉に残った自分はどうなるの、と訴えるよう武志を見返した。その目にはとても寂しさを感じさせる翳りがあった。
「タケシ君には何時までも居てもらいたいが、君には君でやらなければならない事があるだろう。今、新一君がボートのスクリューの部品を取りに行っているから、せめて彼が戻ってボートの修理が終わるまでは居て欲しいが」祖父も武志が少しでも長くここに居るのを望んでいた。
祖父には国家や民衆の在り方の話相手に、叔父には不得意な電気製品の知識の教師として武志と話していると得るものが多いらしい。しかし、皆、武志が夏休みが終わる頃にはここを去らなければならないことは理解していた。
「残念ですけどやはり僕には学校もあるし、そろそろ戻らなければならないと思っています」
「しょうがないさ。別れなんて、また巡り合う喜びのためにあるんだ。また会える時のことを考えていればいいさ」叔父は元気の無いシンシアの方に言った。
しかしシンシアは何かを考えているのか何も言葉を返さなかった。
武志はなんとシンシアに声を掛けて良いか分からなかった。結論は出ている。只、それをどのように受け止めるかだけの問題だった。
「お祖父ちゃん、私、タケシと一緒に行ってもいいかしら?」
シンシアは不意に祖父に向かって言った。祖母が一番驚いているが、小母は賛成なのか頷いている。事前にシンシアが相談したのかもしれない。
『そう言う解決方法もあるな』武志は思った。
祖父は突然の問いかけに直ぐには答えなかった。しかし武志の意見を聞きたいのか武志のほうを見つめた。
「あの、どう解釈したら良いのでしょう」
武志はシンシアにではなく祖父に向かって意見を聞いた。このような場合、自分の意見よりも回りがどのように考えているのかを知らないと答えようが無い。
祖父はその質問には答えず祖母に意見を促した。そうやって皆の意見を聞いてから自分の考え、ある意味では結論を決めるつもりらしい。別な見方をすれば突然の事で自分の考えがまだまとまっていないのかもしれない。
「駄目です。シンディ、貴方はまだ何も知らない子供なのよ。そりゃぁ自分では大人だと思っているかもしれないけど、まだまだ社会を理解するには十分じゃない。そんな不安定な年ごろに家族を離れて暮らすなんて、傷付くだけ、不幸になるのは目に見えているのよ。もっと大人になってからでも遅くない。まだ若いから時間は十分あるの」
祖母はシンシアを説得しようとした、だが、シンシアはそれには反発した。それなりの覚悟が既にシンシアの中にあるのだから。
「たしかに子供かもしれない。お祖母ちゃんと比べてじゃなくても、ここに居る誰よりも若いわ。でも私と同じ歳の女の子と比べてそれほど差が無いと思う。普通の19歳よりは少し先を行ってると私は思っている。でも私に一番欠けているのは傷つくこと。ここに居ると本当に楽しい、皆私を大切にしてくれる。でも私が大人になるためには、もっと経験しなければならないことがたぶん有るのだと思う。それを経験しないでは永遠に大人になれないような何かが。それが何か分からないけど、それを体験しないと不完全な大人になるような気がする。だから、今の生活と比べて、なんでそれを捨ててきてしまったんだろうと後悔するかもしれない。でも、そうやって人は素敵な大人になる、そんな考え方をいましているの。
 涙って沢山の場面で流されるけど、その涙を流す体験が人を成長させるのかな、って最近考えている。だから、私はその体験を出来るような生き方をしなければと思っている。なんか、このままでは私の歩む道は狭く、ほとんど私の選ぶ余地がないようなそんな感じを持っている。だから、私はあえて新しいことに挑戦しないと駄目になっちゃう気がするの」
シンシアは一気に喋り続けた興奮しているのか手が震えている。そして今にも泣きだしそうだ。
 武志はこのようなシンシアを前にも一度見たことがある。そもそもシンシアが最初に武志を見たときに願いを送ったと言われた時から感じていた武志の理解出来ないシンシアの魅力だった。
「シンディ、そう感情的にならないで・・・タケシ君シンディを連れてチョット席を外してくれないか。私達だけで話したいから」
祖父は武志に言った。それは二人が邪魔だと言うより二人が話を聞いてきまずくなるのを危惧しての配慮だった。言われたとおり武志はシンシアをエスコートして部屋を出た。何度か星空を見上げた丘に登った。
 シンシアの肩を抱いて歩いた道も手を引いて助けるだけにした。おそらく今のシンシアの心には新しい一歩を踏み出し始めたのだ。武志があれこれ言うよりもシンシアの中で考えなければならない事が沢山出てきたはずだ。
 シンシアは黙って岩に腰を降ろした。さっきとは逆に虚脱したような状態だ。さっきの事を自分なりに繰り返し考えているのだろう。
もう日は落ちてかなり時間が過ぎている。西の空にかろうじて太陽の名残が感じられる。
武志はタバコを取りだして火をつける。今までの二人と違いそれぞれ自分の心の中に目を向けていた。横に居ることすら気にならないように。
少し風が出てきた。秋が始まったのか寒さを感じる。武志はブレザーを脱いでシンシアの肩に掛けてやった。そしてシンシアを見るとさっきの虚脱したような感じはもう無かった。何時ものように輝く目をしていた。
「タケシ、私を連れていてくれる?」
シンシアは祈るように答えを待った。
「その事は少し時間をくれないかな。僕自身も考えることがいっぱい有るし」
「そうね、すぐ答えてと言うのは無理かも知れないわ。でも、あまり時間は無いの。新一さんが明日の昼までには帰ってきて。それにあと1週間で8月も終わり。タケシも2、3日中にはこの島を離れるでしょう」
「そんなに長くはかからないさ」
武志はシンシアを連れて帰る気は無かった。アパートでは妹が一緒に住むことになったと言えばなんとかなるだろう。でも、今の生活がシンシアに縛られることに踏ん切りが付かなかった。30歳になるまでは親や兄弟(今の武志には居ないのだが)そして恋人、夫婦、親戚、そんな関係に縛られず自由でいたいと決めていたのだから。父親が亡くなった時に自分は一人で強く生きていこうと決めたのだった。それが数年で崩れることが武志には納得出来ないのだった。
「今夜も星が沢山見えそうだ」
「ええ、今夜は月の出るのが遅いから星が丸くドームのようになるわ」
しかし武志には星を見る余裕が無かった。宇宙とか自然を感じる余裕が無かった。シンシアを傷付けずに自分がこの島を去ることができるのか。それとも、全部を捨ててこの島で暮らすことを選んだら良いのか。選択肢は多くしかもどれも満足な結論では無い気がした。
「タケシ寒くないの」
「ああ、少し寒い」
「下へ行きましょう。お祖父ちゃん達の話も終わったと思うから」
「ちょっと一人で考えたいんだ。一人にしておいて欲しい」
「そう、それじゃ、私先に下へ行っているわ」
シンシアは武志が貸したブレザーを脱いで武志の肩に戻すと、ありがとうと一言残して下へ降りていった。
 シンシアの付けている香水か一瞬バラの香りが武志の鼻をくすぐった。しかし一人で考えたい武志の願いは叶えられなかった。シンシアが降りて行くと代わりに叔父が登ってきた。武志と話をするのが目的なのか真っすぐ向かって来る。
「今日も綺麗な星空になりそうだ。北の空は南より星が多いから飽きることがない」
叔父は星を観測したり、機械を触ったりが芯から好きらしく、いつも話を切り出すとき最初にそれを利用する。
「ええ、ところで話はどうなりました。その事でお話にみえたのですよね」
「まぁね。まず状況から話しておこうか。お祖父ちゃんはタケシ君の考え次第でどちらでも良いと思っているみたいだ。お祖母ちゃんは、まぁ、絶対反対だろうな。なんとか説得はできると思うが。妻はシンシアはもう自分の足で歩く歳になっていると言う。つまり、シンシアの意見を尊重するべきだと言う」
そこまで話すと叔父は言葉を切った。下から聞こえてくる潮騒を楽しんでいるように沈黙を守った。
「で、貴方は?」武志のほうから話し始めた。
「私? 私はなんとも言えない。人にはそれぞれ道がある。シンディだって何時までもここで守られて育っていくわけにはいかない。妻の言うように自分の足で歩くことが何時かは必要だ。もしかしたら、既に遅いのかもしれない」
「それじゃぁ、意見は3:1ですね」
「3:1? 考え違いをしてもらっては困るよ。私も妻もこの件に関しては発言権は無い。しかも多数決で決まる筋の問題でも無い。君の考えが大事だ。もし君が今、連れて行かないと言ったらそれでこの話は終わりだ。シンシアは島を出る機会を失う」
「ちょっと待ってください。僕がシンシアの運命を握っているような言い方は止めてくれますか。それは僕に連れて行けと言ってるようなものなんだから」
「無理にとは言わない。しかし私はシンディの勇気を考えてあげたい。シンディは、ま、生まれた時から知っているのだけれど、あんなに自分の考えを前面に出す子では無かった。そのシンディが変わったのは君とこの島に戻ってからだ。誤解を恐れずに言わせてもらうとシンディを変えたのは君だ。たぶん、君に恋してるとかでは無いだろう。シンディの中にこの島とそれ以外の世界とを橋渡しをしてくれる信頼にたる人、つまり君だが、それを見付けられた自信があるのだろう。シンディは君に恋してるかもしれない。でも、幼い時から知ってる我々は、君との出会いがシンディを成長させたと思っている。そのことを踏まえて、結論は君が出す。それで良いと思う」
「それは解っています。だけど、誰も傷付かない結論が解らないから悩んでいるのですよ」
「誰も傷付かず? そんなのは無理だ。タケシ君は人生ってものをどのように考えているのかなぁ。人と人との擦れ合いが人生だろう。だから、恨まれたり、喜ばれたり、見下されたり、全部人と人との関係の中にある。一人で無人島に住むロビンソンクルーソーが着目されたのは、我々はそんな生活にある意味では押しつぶされてるからだ。でもね、我々は無人島で一人生きて行くよりは窮屈だけど社会で生きて行くことを選択する。そして、傷つく。だけど、人間って人間同志で傷つくように出来ているらしい。だから、それを避けるよりは乗り越える知恵が必要になる。まず、自分の考えから、それから他人への影響、そんな考え方をするべきだろうな」
「それは解っています。問題はそれでも傷が少ない方法は無いかと思って悩むのです」
「その悩みは選択肢が多いから生じる悩みで、普通は追い詰められてギリギリの選択をするものなんだよ。タケシ君が今悩んでるのは、ある意味で贅沢な悩みなのかもしれない。私から言えることは、少しは窮屈になって肩に責任を背負う生き方にも挑戦したほうが良いってことかな。その重荷を感じたら、君が少し大人になったってことだ」
叔父は武志の返事を待たずにゆっくりと歩いてそこを去っていった。
月が水平線に見えてきた。それが、気温以上に寒さを感じさせた。
それから2時間、武志は考え続けた。そして、前とは変わり、シンシアと一緒に帰ってそれから・・・・と言った具体的なことを考えていた。
 
第15章 銃声
 次の日武志はいつもより早く起き食堂へ入った。
 何時も8時頃に食堂に居たが、家族の皆はもっと早く起きているらしく、朝食は皆が食べた後だった。もっともシンシアがその頃にならないと来ないので一緒に朝食をとるのに合わせていたのだが。
今日はシンシア以外の家族は皆食堂に居た。
「おはようございます」武志は皆に挨拶した。
「ああ、おはよう。今日はいつもより早いみたいだが」
「ええ、色々考えることがあって、あまり眠られなかったものですから」
武志がそう言うと皆、武志が何を考えて続けていたのか知っているため武志なりの結論が出たのだ解る。その結論を皆はききたがっているのが良くわかる。しかし、武志は次の言葉は続けなかった。朝食の用意に取り掛かる。
祖父が痺れを切らして聞いた。「で、その考えた答えは?」
「実は、まだお話しすることは出来ないんです。僕なりの結論は出ました。あとは、シンシアと話してから最終的な結論になると思います。あと半日時間をください。夕食までには二人でご報告しますから」武志はシンシアに相談しても自分の考えは変えるつもりは無かったが、まず最初に話す相手はシンシアでなければならないと思った。
「それでは、あなたの考えだけでも聞かせてくれませんか。私も貴方と同じように昨日は眠れませんでした。早く知りたいのです」
祖母が武志にせがんだ、しかし祖父がそれを遮った。
「それは聞かないことにしよう。夕食まで待ってあげなさい。ただ、タケシ君がシンディと話さなければ決まらないと言うことは、おおよその想像は付くだろう」
祖父はお見通しだ、シンシアが自分達の手元を離れることを感じたのだ。大きくため息をついた。叔母だけが、うれしそうに笑顔を武志に向けてくれる。
祖父の説得で話はそこで一旦終わった。祖父は叔父と今日新一の持ってくる新しい機械の話を始めた。武志に教えてもらった方法でテレビが受信できるかもしれないという話しだ。
 食事が終わると武志は外へでた。もう何度も登った丘に行った。ここにもあと数回来たらこの島を離れることになる。もう一度この海に囲まれた自然を目に焼き付けておきたかった。
風はすでに冷たく、日差しも弱い。『また、夏の終わりを迎えるのか』武志はそう思った。自然と身に付いてしまったのか、北海道の短い夏は春の訪れから始まり一気に風景を変える。平野で桜が咲くのは5月の始め。山々の雪が消えるのは5月の末。その頃から植物は一斉に秋に向けて活動を始める。若葉の季節が5月の後半1週間くらいで、時々寒い日も重なって、7月の終わりには夏まっさかり。あらゆる花がいっせいに咲く。特に冬流氷で覆われるオホーツクでは種類に関係なく一斉に花が咲くので各地に原生花園と呼ばれる自然の花畑が広がる。そして9月には植物は一斉に冬支度を始める。考えてみると北海道で雪を目にしない期間は6、7、8、9の4ヶ月だけかもしれない。武志はこの島のたまたま短い夏だけを知っているのかもしれない。
 さほど待つこともなくシンシアが登ってきた。昨日は寝られなかったのか目が少し赤い。
「おはよう。タケシが私に話があるってお祖父ちゃんから言われたけど」
シンシアは武志の結論を聞くのが怖いとでも言うように武志から目を逸して言った。
「うん、少しシリアスな話しなんだけど」
「私、はっきりとタケシの考えを聞かせて欲しい。回りくどいのは否なの」
「まだ何も言っていないじゃないか。まず教えて欲しいんだ。一緒に行くとしたら、それからどのようにシンシアは過ごしていきたいか、そのビジョンを持っているか。持っていたら教えて欲しいんだ」
「そうね、まず学校へ通って心理学を勉強したいの。そして、High−Schoolの先生になりたい。両親がどんな考え方をしながら生きてきたか、トレースしながら考えてみたいの。少し夢が無いかな」
シンシアは前から考えていたのか夢を語った。
「うん、解った。それともう一つ約束しておきたい事があるのだけれど」
「約束、それって難しい約束?」
「僕が一番自分自身で悩んだことなんだ。もし一緒にこの島を出るとしたら、僕は君の家族に君を妹として連れていきます、と誓うつもりだ。僕は君の事を恋人に近い人間と思っている。でも、お互いに若いし、それを宣言することは出来ないと思う。そして宣言と言うか誓ってしまったらそれに縛られると思う。だから、僕達の間には兄妹関係の愛情しか許されない。それでもいいかい? 僕は、そんなのいやなんだ。でも、そう決めないと一緒に島を出るなんて出来ないような気がするんだ」
「その約束をしなければならないの。それがタケシの条件?」
「守れるならって言う、ま、条件と言ってもいいかな」
「Noね。これからどうなるか解らないけど、私にタケシを兄としてのみ愛せよと言われても誓えないわ。逆にタケシを軽蔑する場面だってあるかもしれない。親子とか兄弟とかは先天的なもので避けることが出来ないから、重荷だったり、喜びだったりする。良く言われる「絆」よね。でも、私とタケシの間に約束ごとのような絆を後天的に作る意味が解らない。それが条件、約束なら最初から守れないからNoとしか言えない」
武志はポケットから煙草を出してくわえた。そろそろこの煙草も無くなる。島で煙草を吸うのは武志だけなのだから。
シンシアの返事は嬉しかった。武志にしてもいまさらシンシアを妹として愛せよと言われても当惑する。だけど、祖父や祖母に好きだから一緒に暮らしたいと言ってこの島を去ることはできないだろう。
「じゃぁ、どうするのが良いとシンシアは思っているんだ?」
「私、叔母と話したのだけれど、タケシが居る街にみんなが引っ越すのが良いと思う。この島での生活はもう無理。琉球、じゃなくて沖縄も日本の領土になったんだし、日本の何処かに住んで良いと思う。たまたまタケシが来たのをチャンスにタケシが居る街でもいいと思う。そろそろ皆で島を出る機会だと思う。そんな気持ちが少し違ったけど昨日のような言い方になったの。タケシは考え過ぎ。私はタケシの事が好きだけど、それが恋人なのか兄なのか父親なのか分けては考えられない。タケシは私に「恋人」と言わせたいのかもしれないけど、そのあたりの感覚は私には解らない。その意味で私が島を出るってことは、家族全員で新しい場所に移りましょうって事なんだけど、昨日は言葉が足りなかったみたい」
「そのための下調べをシンシアがするってことでいいのかな?」
「ええ、最初にタケシに会った時。そして、武志のアパートに泊まった時、あの街は過ごしやすいと思った。だから、私があの街で住む場所を探してみようと思うの。そのためにタケシの協力が欲しい。そんな気持ちが今の気持ち。もちろん、そのためだけにタケシが必要と考えているのではないことは解ってもらえると思うけど」
「なるほど。それじゃぁ、その話を皆として、これからの予定を決めよう」
シンシアだけで無く、この島での生活そのものを辞めようとシンシアが話せば皆は納得するかもしれない。どうせ何時かこの島を出るのなら、今がその機会かもしれない。
「あ、船が戻ってきた」
シンシアの声に海に目を向けると新一が乗って行った船が島の入江に向かって入って来る所だった。
「ずいぶん急いでいるみたいで、あんなに大きな航跡を残してる。それだと飛行機からでも発見されるから島の近くでは波が立たないように速度を落とすように叔父に言われているはずなのに」
シンシアと話していて沖から近づく船に気が付かなかったが、大きな三角の航跡からするとかなりの速度で走っていたようだ。
「それに、変だな。あの船には5、6人の男達が乗っている」
まだ船は3km以上離れていたが武志の目には見えるだけでも数人の男達が船の上で動いているのが解った。
「まさか、ここに来る時は最大でも2人までって言われてるのに」
シンシアは目をこらして見ようとするが良く見えないらしかった。
「とにかく、皆に知らせてこよう」
武志は急いで下へ降りた、船はかなり近づいている。シンシアにも男達が見えたのか急いで後を付いて来る。武志が中に入る前に見たときは入江の先を回る所だった。
居間のドアを蹴るように開けて武志は飛び込んだ。シンシアと武志が話した後の結論を聞くためか皆はお茶を飲んで待っていたようだ。
「どうしたの変だね。そんなに慌てて」
祖父が驚いたように尋ねた。後ろのシンシアの様子を見てなにか大変な事が起こったのだと解ったようだ。
「新一君が戻って来ました。しかも5、6人の男達と一緒です」
「やはりそういう事になったか」
祖父は叔父のほうを向くと独り言のように呟いた。叔父は黙ってうなずいている。
「皆を心配させてはいけないと話さなかったのだが、時間がないので手みじかに話そう。この島に来てから直ぐに紹介された新一君の家族のことを調べてもらった。そこで解ったことは彼らの家族が山野組と呼ばれる暴力団と深いつながりがあることだった。国境を越えて生活に必要な食料や燃料を運ぶのだから多少のイリーガルな面はしかたが無いと思っていた。島に居る間は彼は一人だし、数の上では我々のほうが多い。ただ、彼が戻って来る時だけ気を付けていれば良いと思った。しかも前回戻る時に今までの謝金を倍にしろと言っていた。私は倍にはできないが、せめてこの冬は新一君に一緒に越冬しなくても自分達で機械のメンテナンスはするからと言っておいた。だが、彼は金が欲しいのだろう」
「そんな、単純な話でしょうか。皆を脅すわけでは無いですが、さっき船からは殺気を感じましたよ。最悪のシナリオも有ると思って備えたようが良いと思いますよ」
新一とこの家との関係が良く解らないが、少なくとも武力行使によって何かを得ようとする集団が今船で向かって来ている。いや、もう上陸したかもしれない。
「最悪の場面は考えてないわけでは無い。ここは洞窟だから守りやすい。だけどそれぞれが自分を守ると同時にこの洞窟を守らなければ他の人間は守れない。最悪の場合はそれを考えておく必要がある。だが、私はそこまで心配してない」
シンシアはと見ると不安な表情で武志の腕にすがっていた。祖父の話しよりも武志の話を信じているようだ。
 その時、居間のドアを開けて新一を先頭に5人の男が入ってきた。二人は猟銃を手にしていた。他の者もポケットの膨らみからハンドガンを持っているようだ。銃をむき出しで持っている事に驚いたのと、武志の予想どうりだと驚いたのか祖父は武志を振り返った。武志は何も言わなかった。まさか「言ったとうりでしょう」と言っても意味が無い。
「ここは居間なのだから。銃を持ち込むなとは言わないが、穏やかに話そうじゃないか。そちらの望みは何か聞こうじゃないか」
あまりにも穏やかな祖父の口調に新一は面食らったようだ。思わず横の男の顔色をうかがう。この男がボスらしい。
「新一君も我々と良く話し合えばこんなに大勢で押しかけなくても良いのに。我々との間にあった信頼関係を裏切って後ろめたくないかね」
どうも祖父は事態を楽観しているようだ、武志にはそれが裏目に出ることが心配だった。
「後ろめたい!? 何を言ってやがる」
新一はむきになって腰から銃を抜きだした。その銃が持つ力が世界全てを自分のものに出来ると興奮をさらに煽ったようだ。『危ない』と武志は思った。極度の興奮で手が震えている新一が銃を暴発させないとも限らなかった。
「よせ、殺しては金が手に入らない」
ボスが横から新一の銃をつかんで言った。かなり場数を踏んでいると思われるのは新一の銃の撃鉄が落ちないように指を挟んで銃を取り上げた。武志もこの男は手強いと思った。
「金か。金を目当てにこの島に来たのなら検討違いだったな。ここには置いていない」
「新一の話を聞いて、ここに金が無いとは思っていた。だがな、現金でなくても宝石とか金とかそうゆうたぐいの物は身近に置いておきたいものだ。それを、いただきたいと思ってな。生活に困るほど巻き上げるつもりは無い。ただ、ここで暮らす以上の財産は我々に譲ってもらいたい。それが、じいさんの言った「望み」だ。それが済めば俺達は引き上げる」
柔らかな言葉遣いが逆に威圧感がある。
「引き上げる? 馬鹿を言うな。素直に引き上げる訳が無い。渡せば今度はもっとよこせ、しまいには命をよこせとなるに決まっている。そんな取り引き条件を出すのが何の意味も無いことを自分自身で数々の場を踏んで知っているだろうに。もっとましな事を言ったどうなんだ」
叔父がくってかかった。しかし、仲間の一人の銃尻がその叔父の腹部を突いた。叔父は体を折り曲げてうずくまる。
「勝手にしゃべるな!聞かれた事にだけ答えるんだ」
男は叔父を蹴り上げると言った。シンシアの腕が前よりも強く武志をつかんだ。
「話し合いじゃないんだ。痛い目にあいたくなかったら俺達の言うことを聞け。さあ、じいさん、何処に有るんだ?」
祖父は答えなかった。その目は憎しみを込めて新一の方に向けられていた。
「早く答えろ!」
ボスはじれて祖父に掴み掛かった。しかし祖父の様子から素直には答えないと解ったらしく作戦を変えた。
「じいさん、目の前で孫が殺される所を見たいらしいな」
男はシンシアの方にチラット目線を向けながら言った。
祖父の顔色が変わったのを見てニヤリと笑うと
「おい、新一、その娘を連れてこい」
アゴで新一に指示する。
武志はシンシアを後ろにかばった。新一の腕が伸びる。その瞬間武志は新一のもう一方の銃を持った腕を下にたたき落とす。銃は手を離れて床に落ちた。新一はあわてて武志に掴み掛かってくる。体を開いて避けた武志は新一の振り返った顔に膝でアッパーカットをくらわせた。新一が2m程飛ばされるすきに新一の落とした銃を拾おうとする。しかし一瞬はやく仲間の一人がその銃を足で踏みつけた。
「威勢が良いな。だが、そこまでだ」
男はそう言うっとライフルの銃床で武志を蹴り上げた。武志はよけそこねて仰向けにひっくりかえった
その男は新一を助け起こすと銃をそのベルトに差してやった。
「ドジな奴だ。使う時は手にすれば良いし、使わない時は両手を開けておけ」
新一はばつが悪そうに頭をかいた。新一は三下クラスなのだろう。武志のキックで口の中を切ったようで血の混じった唾を吐いた。
武志は起き上がってソファーに座り込む。目の少し上が切れていた。もし目に当たったらと思うとこの男達の暴力に非情な怒りを覚えた。シンシアが傷口にハンカチを当ててくれた。
「大丈夫? ここ以外に怪我は無い?」
武志の顔をのぞききみながら聞いた。武志は屈辱感でいっぱいだった。今度チャンスが有れば、今度は巧くやる、そんな気持ちだった。
「こっちに来い」
男がそのシンシアの腕をつかんで祖父の前に連れて行った。そしてハンドガンをこめかみの所に近付けた。気が強いのかシンシアは悲鳴一つあげない。
「さぁ、どうする。俺に引金を引かせるつもりか?」
男はサディスティックに笑った。
武志はどうすることも出来ない自分を歯痒く思った。しかし強く手を握り締めて耐えるしかなかった。
祖父はそんな武志の方をチラット見てから言った。
「卑怯な真似はよせ。お前達の望みは解った。しかし我々の身の安全も保障してもらいたい。でなければ渡せない」
「そうそう、そうやって素直に話してくれればいいんだ。どうすれば、渡してくれるんだ」
「まず女性と子どもは先に船で島を出す。その船を運転するために一人運転手を付ける。その4人がこの島を出てから1時間したら。物は渡そう。それを持って何処にでも行くがいい」
「それは駄目だ。考えてみろよじいさん。俺達は先に逃がした人間に通報されて逃げることが出来なくなる。それでは俺達に不利だ。そうでなくても、国境警備隊なんかが出てきたら日本の警察の何倍も面倒なことになる。その条件は駄目だ。話し合いは終わりだ。今すぐ出して貰おう」
男はシンシアを武志の方に突き飛ばし、今度は祖父に銃口を向けて怒鳴った。
「今すぐと言われても、ここには無い」
「でたらめを言うな、さっき有ると言っただろう」
「でたらめでは無い。下の海岸の岩影にコンクリーで固めた金庫がある。これを空けられるのは私だけだ」
「新一、本当か?」
「いや、俺も見たことは無い」
「知らないはずだ。ここの島に来てから新一君が居ない時に、そこの叔父と二人で見付けた海岸の洞窟の中に作った。入り口は陸からは見えない」
「よし、そこに案内しろ。もし無かった時は覚悟は出来ているんだろうな!」
と言うと男は祖父を立たせた。
「岩の影だから、誰かが岩の上から支えないと入り口すら見えない。2、3人の手が必要だ」
「じゃぁそっちの二人を連れいこう」
男は武志と叔父を差した。
「それから新一、お前も来い」
祖父に叔父と武志と男達2名を加えて居間を出ようとする。
「ちょっと待て」
ボスが声をかける。
「じいさんの話はうますぎる。そこまで準備してるのなら、当然そこには襲われた時の対処のための武器も一緒にあるだろう。嘘なら、時間稼ぎすると有利な何かがあるのだろう。とりあえず、早く方を付けよう。ここは、じいさんだけで行こう。そして、後2人が見張りで、残ったものはじいさんと一緒に宝探しだ」
場慣れているのか、このボスは様々な場面を想定しながら指示を出す。
「お前と新一がここに残れ」
ボスは二人の男を従えて祖父を先頭に部屋を出て行く。武志は今がチャンスだと思った。叔父に向かってめくばせをする。叔父もそれに答えて指で自分は新一を武志はもう一人の男を料理する様にと合図してくる。
その時、手の汗を拭こうと何気なく手をズボンでこすった武志の手に硬いものが関じられた。アパートを出るときにしまったナイフだった。男に見えないように引き出し後ろ手で刃を起こす。小さな音をたてて刃は固定された。横でシンシアがその音に気が付き心配そうな表情で叔父、武志そして新一を見回す。
「バラバラで居ないで、皆一箇所に固まるんだ」
男は武志に向かいアゴで示した。武志とシンシアだけが離れたソファーに座っていたからだ。
「こっちへ来るんだ」
男は二人が立ち上がらないのを見て向かってきた。武志の腕を取って引きずるようにした。
「解ったわ、乱暴はやめて」
武志がナイフを振り舞わすのを止めるようにシンシアが言った。そして立ち上がって皆のほうに行った。男の注意が武志からシンシアの方に移った。武志に背を向ける。武志はこの瞬間を逃さなかった。ナイフので柄で思いきり男の後頭部を殴り付けた。男は唸るような声を出して崩れ落ちる。と同時に新一が銃口を向ける。今度は本気で撃つつもりらしい。その手に叔父が飛び付いた。しかし、新一の方が力で勝っていた。腕を一振りすると叔父は赤子のように壁に飛ばされた。新一はその叔父に銃口を向けた。武志はためらわずナイフを投げた。銀色の一線が居間を横切り新一の腕を突き刺す。塚の根元まで食い込む。悲鳴ともに新一は銃を落とした。これをすばやく叔父が拾う。
二人の口から思わずためいきが出た。
「命中だ。ナイフの扱いは慣れているのかな」
新一の腕のナイフを見て叔父が言った。
「練習はしましたが、これがはじめてです」
武志はこんな時が来るとは思っていなかったが、あまりにも上手くいったので自分でも驚いていた。
「早く抜いてくれ。痛い、痛い、これじゃぁ死にそうだ」
新一がわめく。偶然ナイフの刃は腕に縦に入り、それほど傷は深くない。抜いても出血はたいしたことが無いだろう。武志は新一の腕に足をかけて一気に抜いてやる。このほうが痛みは少ない。しかし、抜けたナイフの刃の長さと、自分の腕の傷を見比べて新一は失神してしまった。一瞬外傷性のショックかと思ったが単に気が弱いためらしい。二人を二人のベルトで背中合わせに縛った
「さて、どうします。もうすぐ金を取りに行った連中も戻って来ますよ」
武志は叔父に尋ねた。
「うん。どうしようか。さっき祖父が言っていた宝石類だが、そんな物は無いんだ」
「無い!? でも何故それでは」
「たぶん、お祖父ちゃんの考えは、相手を二手に分ければ何か解決の糸口がみつかるかもしれないってことだろう。その一方は巧くいった。さて、これからだがこの二人と祖父を交換する。そしてから力で連中を追い出す」
「力で追い出す?」
「そうだ、君と私と二人だが銃の腕ではあの連中に負けない」
「撃ち合いをする気ですか?」
「ああ、願わくば、終わったときに残ってるのは我々になりたいね」
祖父は棚からライフルを取りだしてカートリッジに弾をこめながら言った。
「銃は人を殺す道具では無い。僕はそう思っていますけど」
「え!、じゃぁ聞くが、さっきもし新一君の銃を奪えたとして、4対1で何が出来ただろうか。あの時点では勝算は無かった。私にはタケシ君の行動はまったく無謀に見えた。ただ、暴力に屈しない反骨精神は感じたが。それでお祖父ちゃんは、賊を二手に分けてチャンスを作ったんだ。その君がいまさら銃を持ちたくないは無いだろう」
叔父は、手を休めずシンシア用に別な銃にも弾を込めながら言った。
「彼らは猟銃でハンティングする程度の腕前ですよ。人を撃てるとは思えない。新一君の銃を拾って二人のライフルを持った奴を制圧すればこちらが有利になる。そんな勝算が合ったからやったんです。相手は銃撃戦が出来るほどのプロじゃない。撃つまえに解決策を考えるべきだ」
「解った、解った。時間が無いから議論はやめだ。だけどタケシ君が知らないことがある。人が人を殺すなんてのは異常な事だ。もしかしたら殺す側は人で無い精神状態なのだろう。私は人でない精神状態の人間に襲われ撃たれた経験がある。自分が戦おうと思う相手が人間じゃなくて銃を乱射する鬼だとしたら。これから自分を守らなければ、むざむざ鬼に殺されては、なんの人生だったのだろう。そう思うことだ、最悪の場合、君はその鬼を見るだろう。その時までそんなに時間がかからないような気がする。だから、私の言うことにお願いだから従ってくれ。そうしないと我々は明日の日の出を見られない」
叔父は時間が無いので懇願した。こんな所で内ゲバやってる場合では無いのだから。
「シンシア、君はどう思う? 話し合いの方法を考えたほうが良いと思うけど」
武志は助けが欲しくてシンシアの方に向かって言った。だが、シンシアはそんな武志をどう理解して良いか解らないと言った風だ。本当は武志は臆病なのかと驚いているようにも武志には見えた。叔父からライフルを受け取ると予備の弾をポケットに突っ込み臨戦態勢をとる。そこには武志が今まで見ていた少女の面影は無い。昔雑誌で見たアメリカ軍の女性戦士のような崇高さが有った。
「タケシ。私はまた失うのはいや。タケシが居ればこの場面はクリアできるわ。力を貸して」
シンシアは言った。武志は回りを見回した、祖母も叔母もこちら側が3人になるのか2人、と言ってもシンシアが1にカウントできての話しだが、になるのかが重要なことが解っている。だから、武志の発言には恐怖に近い驚きを感じているようだ。
「僕が何処までできるかは解りませんが。指示をください」
武志は観念した。相手は人間として許されない存在なのだ。一緒の世界に居られる間柄では無い。そんな風に思えと叔父が言っている。シンシアも同じ感覚らしい。ならば、叔父の部隊の兵隊として役目を果たそうと思った。
「ありがとう。お互い全力を出そう。そして夕食を一緒に喰おう。君とシンディは丘の横に出て側面から連中を威嚇してくれ。私は正面の入り口で奴らを牽制しながら交渉する。その意味では交渉が始まったら、威嚇する意味で奴らに見えるようにアピールしてくれ。じゃぁ、作戦開始だ」
シンシアは叔父から渡されたM16カービンを、武志は部屋から軍用モーゼルを取ってきて鞄を開き必要な部品を組み立て叔父から受け取った弾を鞄に詰めてそれを持ってシンシアと一緒に叔父が指示した丘の上に向かう。
ここから見れば入江になっている所は岩の影だが洞窟の正面の入り口、そこへ通じる小道が下に見える。
 適当な岩影に身をよせるとカートリッジに弾をこめる。距離は50m程だろうか、肩にホルダーをあててみる。ライフルのほうがこの距離では良かったかなとふと考える。
銃を肩付けすると自分では気が付かなかったが興奮の為か銃のサイトを覗いた先が震える。何回か呼吸を整えてみるのだがやはり止まらない。逆に益々動悸が激しくなって照準を付けるのが難しくなっている。待たされるのはとても時間を長く感じさせる。そして色々無用な事が頭をよぎる。『4対2で圧倒的に不利だ。もし叔父がやられたら俺も危ないな。銃で撃たれて死ぬってことはどんな感じなんだろう。即死とは限らない、自分が死ぬ運命にあると感じている瞬間ってどんなものなのだろう。恐怖なのだろうか、それとも悟りの境地なのだろうか。たぶん俺はそんなになったら、シンシアと寝ていないこと一番悔やむかもしれない』
「タケシ。何考えている?」
不意にシンシアが小さく声をかけた。武志はシンシアが自分の考えを詠めるのではと驚いた。
「えっ?・・・・君は?」
「今度は私、何も失いたくない。前は父をそして母を。そして今度は私自身かも知れない。怖い」
「しっ! 連中が登ってきた。考えごとの時間は終わりだ。もし僕が死んだら僕のことは忘れてくれ。もし君が居なくなったら天国で会えるのを楽しみに僕はこれからの人生を生きる。それだけはシンシアに誓っておく」
「そのどちらでも無いわ。あんな奴のために」
シンシアは武志の頬をつねった。明らかに私は負けないとの意思表示だ。武志もシンシアの顎に手を当ててガッツポーズをとる。
祖父はボスの男に引き立てられるようにして登ってきた。殴られたのかこめかみから血が流れている。二人がライフルを残りの二人がハンドガンを抜いて手にしていた。
「そこで、止まれ!」
叔父の声が響いた。連中は身構える。
「お前達の仲間の二人はこちらで捕らえている。二人と義父を交換したい」
叔父は叫んだ。連中は近くの岩影に隠れる。武志の所からも影になって見えない。
「どうした、返事は!」
叔父の声が再度響く。
「ことわる! その二人はドジを踏んだ。俺達に助ける価値は無い」
叔父は次の展開をどうするか考えてしまう。武志も同様だった。そんな様子を見透かすようにボス言った。
「この爺いを返して欲しかったら、物を出せ。宝石でも金でも俺達の見える所に積め」
一人の男が祖父を盾に立ち上がり、入り口に近づいて行った。
「さぁ、銃を捨てろ。お前の銃口が光ったら俺はこの銃の引金を引く。弾はこのじいさんの頭の中だ」
と言いながら少しづつ入り口に近づいていく。
武志からは男と祖父の横上から見ている位置になった。武志はもう一人居ることを示すために発砲しようと考えたが、まだそのタイミングでは無いと思い留まった。
男は入り口から祖父と一緒に中に入るつもりらしく、祖父を押しながら洞窟に近づく。お叔父も祖父が盾では撃つことが出来ず男が近寄るままになってしまった。
 その時、弱々しく歩いていた祖父が身を翻して男に飛びかかった。まるでタックルするように体をぶつける。そして男に組付いた。そのまま崖に向かって押して行く。その時銃声が響いた。祖父の背中から貫通した血しぶきが飛び散る。
「あ、お祖父ちゃん」
シンシアが声を上げた。
事態は明白だった。祖父は撃たれたしかも、致命傷を負った。しかし、祖父は男に組付いたまま男を押して行った。そして二人は組み合ったまま崖から落ちた。一瞬の間があって二人が海に落ちる音がした。
「僕達を助けようとして・・」
武志は祖父の行動が解るような気がした。最初の晩に話した時に、英雄としての死について話していた。それを身をもって示したのだろう。
仲間が目の前から消えた驚きと、自分達が切り札を失ったことへの恐怖なのか、連中は岩影に隠れると叔父の居る入り口に向かってメチャクチャに乱射しだした。叔父も入り口から後退せざるを得ないだろう。
その隙をついて男達は入り口飛び込もうと走り出した。今度は武志の銃が火を吹いた、フルオートで男達の前に一本線を引くように撃った。まだ、男達が脅えて退散することを願っていた。
すばやくカートリッジを取り替える間に、縛って置いた新一ともう一人の男が入り口から飛び出してくる。すばやく岩の影に隠れる。叔父に何かあったのかと思ったが、叔父の発砲が聞こえた。
「祖父の言ったとおり、ここには何も無い。放してやるから早く立ち去れ。これ以上争っての何も無いぞ」
叔父が入り口から叫ぶ声が聞こえた。叔父が開放してやったようだ。
「その洞窟の中を全部見せてもらうまでは引き上げない!」
ボスが叫んで銃を連射する。徹底的にやるつもりらしい、さっき叔父の話していた「人では無い精神状態」にボスはなったのかもしれない。
「チッ、4対2になってしまったか。開放したのは拙かったなぁ」
武志は小声でつぶやいた。隙を見て新一が彼らが乗ってきた船に向かって坂を降りていく。引き上げる用意をするのだろうかと武志は銃を向けなかった。シンシアは時々威嚇するように下に向かって発砲するが効果は無い。叔父は武志達に期待するのかかなり奥のほうから撃っているようで発砲の音が鈍い。
「まずいなぁ。このままでは勝ち目が無い。弾が切れたほうが負けだ」
連中の弾を避けるために首をすくめながら武志は言った。
「相手は4人。こちらは3人と言うより2.5人だものネ」
シンシアは自分を1/2に数えて言った。
「人数で負けていても、長期戦になれば補給の面で守側が有利ってのが相場なんだよな。シンシアも弾を大事に使って持久戦に備えてくれ」
その時下で叔父の銃声としてガラスが割れる今までとは違った音がした。顔を出して見ると入り口に4、5mの所で一人の男が倒れている。その先1m程の所に火が立ち昇っている。
「火炎ビンだ!」
なんと用意周到なのだろうか、さっき新一が船に戻ったのは用意していた火炎ビンを取りに行ったのだろう。穴の中の相手を攻撃するには火炎ビンは効果的だ。後ろの岩影から次のビンが飛んでくる。入り口の中に吸い込まれた。しかし火は出なかった。途中で火が消えたか、それとも中の薬品のビンが割れなかったのだろう。
武志は連中に投げる隙を与えないように銃で威嚇した。まだ直接狙える踏ん切りが付かないでいた。カートリッジを取り替えようとしてシンシアから詰めたカートリッジを受け取ろうとしたとき背中のほうで物音がした。シンシアはそれを見たの驚いて動きが止まっている。
その様子にただならない雰囲気を感じて武志が振り返ると同時に銃声がした。耳元に弾が着弾しその衝撃で首がねじ曲げられる。武志の持っている銃の弾は空だ。シンシアの銃を取って撃ち返すのと2発目の銃声とが同時だった。シンシアの銃はフルオートに設定されていたため相手の右脇から左肩にかけてミシンで縫うように着弾の後が走る。その男は腹からちぎれるようになって崖から落ちていった。
一瞬武志は放心状態になった。人を撃ったと言うよりも、自分が撃たれた、命を狙われたショックが大きかった。相手を抹殺しなければ自分が消えるしかない。そんな実感を改めて思い知った。「敵」は忌み嫌うものではなく抹消する相手なのだと感情的には理解された。
武志は自分の体を調べた、弾は当たっていない。では、シンシアはと思考が移る。シンシアは力なく首をうなだれている。武志は心臓が喉からせり上がってくるような恐怖を感じた。『まさか、シンシアが』しかし、シンシアは気を失っているだけだった。体にはあたっていない。軽く頬を叩くと薄目をあけた。
「大丈夫か?」
「ええ、私、撃たれた?」
「いや、外れた。怪我は無い」
「そう。でも瞬間『もう、タケシに会えない』って覚悟みたいのあった」
「負けないぜ。なんか叔父さんの言うことが解ったんだ」
「下はどうなったの?」
岩の間から下を見ると二人の男が火炎ビンを降りかざして入り口に向かう所だった。その後ろで新一が船から運んきた箱からビンを取りだして並べている。連中は予め火炎ビンを用意するほど計画的だったのだ。武志の読みは悪い方に外れた。それとともに武志には祖父を失った責任が武志自身にあるように感た。
武志はM16を肩付けすると新一の前の火炎ビンの箱を狙った。3発程連続で打ち込む。割れたビンの横の岩を狙ってさらに数発撃つ。新一が何処まで理解できたか解らないが、ガゾリンを浴びてそれが発火して全身が火に包まれた新一は叫びながら崖から海に自らダイビングした。途中の岩で跳ね飛ばされて海に落ちる音がした。
残った二人はそれを見て恐怖に襲われたのか武志に向かって乱射してくる。箱から弾を詰めながら岩影でこれを避ける。再度、連中を目にした時には二人とも火炎ビンを抱えて入り口に突進する所だった。こちらからは全身がまる見えだ。武志は冷静に2点射で二人を倒す。もはや人間を撃っている感覚は無い。たぶん、撃たれた事で叔父の言った「人間でない感覚」になっているのかもしれない。
倒れながらもボスの投げた火炎ビンが入り口に吸い込まれる。「危ない」と思う瞬間鈍い音とともに大地が揺れた。ドーンと音をたてて入り口が火を吹く。同時に武志たちの居る丘への出口の扉も吹き飛ばされて、一瞬後黒い煙と炎につつまれる。
武志にもシンシアにも何が起こったのか解らない。火炎ビン1本で洞窟全体が破壊できるとは思えない。
「大丈夫かしら?」
シンシアが脅えたように言った。
「解らない。ただ、まさか火炎ビン1本の問題では無いと思う」
炎はすぐに納まったが中はまだ燃えているようだった。
目の前の出口の扉からは薄紫の煙が流れ出ている。M16の弾倉に改めて弾を装填してシンシアに渡した。
「連中は全部動けないはずだ。もし何か有ったらこれで合図するか自分を守らなきゃ。僕は中に入って見て来る。もし僕に何かあったら、これを使ってくれ。今の僕にはそれくらいしか出来ない」
武志はアパートの鍵をシンシアに渡した。今のシンシアには武志が居なければ何も無い。シンシアに武志が譲れるものは、このアパートの鍵くらいしか無かった。
武志はシンシアを入り口に残して洞窟の中に戻って行った。爆発の熱気は引いていたが壁一面が煤で覆われていた。爆発で電球も吹き飛ばされたのか、新一が発電機を止めたのか解らないが中は真っ暗だった。
「誰か居ますかぁ。返事してください」
武志は叫んだが返事は無かった。
各部屋は扉で通路と隔離されているから、爆発の有った部屋以外に隠れていれば助かる可能性はある。武志はシンシアから借りている自分の部屋のドアを開けた。真っ暗だが手探りで自分の荷物の中からペンライトを捜し出し点灯する。回りを照らしてみる。壁は所々にヒビが入り爆発の大きさを表していた。『何処で爆発が起こったのか解らないけど、爆発は洞窟全体に広がったみたいだ』武志はそれを知りたくて通路を奥、入り口のほうに進む。叔父の作業場にたどり着けばもっと大きな懐中電灯があるはずだ。
入ったことのない祖父や叔父の部屋のドアを開け中を調べるが誰も居ない。暗い中でパラパラとコンクリートの粉が降ってくる。所々では天井のコンクリートが床に落ちている。
最後に叔父の作業場の前に来た。ここだけがドアが内側から外に向かって開いて飛ばされている。部屋の中の溶接に使うアセチレンのボンベが置いてあったあたりの壁に大きく穴が開いている。そのボンベの口金はドアが開いていれば入り口からの跳弾が届かない場所ではなかった。おそらく連中のライフルの弾がボンベの口金を飛ばし、ここから漏れたガスに火炎ビンの火が移り爆発したのだろう。
 武志は叔父の工具棚の近くで懐中電灯を見付けた。ガラスは割れているが電球は大丈夫なようで、いままでの数倍の範囲を照らすことができる。そのライトの中に飛び込んできたのは折り重なるようになった3人の遺体だった。皆一様に黒く焼けただれている。たぶん、叔父は一番入り口に近いここに皆を集め後ろからの攻撃は武志達に任せて戦っていたのだろう。そのために、皆が居間ではなくここに集まっていたのだ。
『やっぱり駄目か!』武志は黙祈を捧げるとその部屋を出た。正面の入り口から出ると既に夕方だった。崖の上から海を見下ろすが祖父も一緒に落ちた男も見えない。途中の崖に引っ掛かっている様子も無い。足元にはボスともう一人の男が横たわっているが、二人とも絶命している。武志は叔父の工作室から持ち出した毛布で遺体を隠す。
「タケシ、どうだったの? 教えてちょうだい」
シンシアが丘の上から武志を見つけて言った。
「降りて来いよ。洞窟の中は危険だから、そこから真っすぐここに降りてくればいい」
武志は丘の上のシンシアに声を掛けた。
「どうして一緒じゃないの。中はどうなってるの」
降りてきたシンシアは武志に早口で聞いた。しかし、あの爆発を見ているので覚悟の様子だった。
「こういう時、何と言ったらいいか解らない。どうやら残ったのは二人だけらしい」
「誰も助からなかったってこと。中はそんなにひどいの」
「ああ、入らないほうがいい。何時崩れるか解らないくらいに壊れている」
シンシアは泣き叫ぶでもなく、じっと下を向いたまま黙ってしまった。
島に静寂が訪れる。波の音、そして風の声が戻っていた。時間は3時を少し過ぎた所だろうか。
「これからどうしようか。もう洞窟の中は使えない。今夜眠る所も無い。一番確実なのは、船でここを出ることだ。とりあえず僕のアパートに退避しないか」
武志は話す言葉も見つからず、せめてこれからの事を考えようと思った。自分は人を殺してしまった。でも、あの場合正当防衛だと思われる。しかし、結局助かったのは自分とシンシアだけ。祖父や祖母、叔父、叔母を守れなかった。そこに本当の正当防衛があるのだろうか。逆に生き残った事への憂欝が罪悪感となって心の中に広がった。それを考えないようにするには、これからの事に集中することだ。そんなふうに武志は考えていた。
「タケシ。これからの事はタケシが決めて。私はそれに従うわ。只、お祖母ちゃん達にもう一度だけ会いたいの。一緒に来て欲しい」
シンシアは武志の返事も聞かずに立ち上がると洞窟に向かった。武志はシンシアを追い掛け前にたって中に入った。ガラスの割れた懐中電灯を再度点ける。入ってすぐ工作室がある。
「居間はどうなったかしら」
武志が工作室に案内しようと思っていたのにシンシアはまず居間の状態を聞いた。
「さっき見たときは、かなり天井が崩れていたけど。状態はかなり悪くなっていると思う」
居間の戸を開けると砂埃が落ちてきた。シンシアはそれを気にするでもなく真っすぐに奥に入るとレコードキャビネットの有った壁の前に来た。武志はあわってて周辺を懐中電灯で照らす。
「ここに金庫があったはずなのに」
そうつぶやくとシンシアは壁の一箇所を引いた。30cm四方の小さな穴が空きその中に小さなジュラルミンのケースが入っていた。
「宝石はここに有ったんだ」
「違うわ。何が入っているか解らないけど、お祖父ちゃんが何か有ったら最後に残った者は必ずこの箱を持って行くことってここに来てから何回も言っていたの。お祖父ちゃんは? まだ生きているかもしれない。怪我をしているかもしれないけど、助けを待っている」
「シンシア、現状を割りきって見てみよう。奇跡が無いとは言わない、だけど、あの傷は見たとおりだ。お祖父ちゃんは英雄となって死にたいと前に言っていた。たぶん、お祖父ちゃんは生きそびれたんだろう。人は死に場所を失うと生きて行くのが辛いものらしい。戦争の時代を僕は良く知らないけど、お祖父ちゃんの人生の中で一番血気にはやっていた時にそう行動出来なかった自分を憂いていたのかもしれない。その意味で、皆を守ろうとした勇気は、お祖父ちゃんの生きる意味を実現した場面だったのかもしれない。あれが無ければ今生きているのは我々じゃ無いかもしれない」
武志はシンシアを促して居間を出る。何時もの習慣で誰も使わないのだがドアを閉める。工作室の中は前より荒れていた。絶え間なく天井から砂埃が落ちて来る。武志は部屋の入り口に立っていた。シンシアが一人、三人の横で祈っている。10分ほどするとシンシアは立ち上がった。
「さぁ、行きましょう。お別れは済んだわ。結局感謝しても感謝しきれない事が解った。これから、私の生き方で感謝の気持ちを伝えたいと思う」
武志はシンシアの肩を抱くようにして洞窟を出た。外は太陽が眩しく洞窟の中とは対象的だ。洞窟を出たのと同時に大きな音がして洞窟が壊れ始めた。二人が驚いて振り返ると奥のほうから崩れ始めたのか、音に遅れて少し後に砂埃が入り口から吹き出した。その埃を見ながら武志はつぶやいた。
「今まで壊れなかったのに、出てきた時に壊れるなんて。皆の魂が守ってくれたのかなぁ」
「みんなの魂。そう、やっぱり皆、もう居ないのね」
シンシアは今までこらえていたのか急に吹っ切れたのか武志に抱きつき泣き出した。
「そうして私だけ残されたの。皆は一緒なのに私だけ一人。そんな」
そう言ってシンシアは泣いた。
武志にはそのシンシアの気持ちが良く解った。数年前父を亡くした時の自分がそうだった。生き残ったと言うより残されたと言った感覚。自分を知って理解してくれる人と別な世界に生きなければならない苦痛。只、武志はその時泣かなかった。泣く相手が居なかったのだから。
シンシアはしばらく声を上げて泣いていたがやがて泣きやんだ。
「おかしいわ、パパやママの時には涙なんか出なかったのに」
「それは悲しむ余裕があったからじゃないかな。今は生きるために早く悲しみを振りきらなければと思うからじゃないだろうか。さぁ、誓いなよ。これで泣くのは最後だって」
武志は指でシンシアの涙を拭いてやった。そして指で十字を作って示した。シンシアは小指をからませて、子どもがゲンマンするように武志の手を握った。
「この島に残っても何も進まない。皆の気持ちを背負って私は前向きに生きてみる。タケシは想像した場面とは違うけどやはり私を連れて行ってくれることになったわね。もう泣かない」
洞窟は崩れてしまい、いまさら何も持ち出せない。丘を下り桟橋にでると、片方のスクリューが壊れたままのボートに乗った。少しばかりの食料もキャビンにある。ウインドブレーカーなどの唯一の衣類もある。エンジンを掛けると入江を出る。片方のシャフトのクラッチは切ったままだ。エンジンの回転を上げると島を離れる。
シンシアと振り返ると霧が出てきたのか、島全体が二人の目の前から消え、記憶の中だけのものになってしまうような気がした。霧が晴れたとき、そこに島は残っていなような雰囲気を感じさせた。
 
第16章 バラの翳り
 ボートは30km/h程のスピードでゆっくりと進んでいる。片側のスクリューは破損したまま島を出てきたので速度が出ない。武志があの島を訪れた記念のような故障だ。あれから3週間の島での生活は予想を越えた結幕を迎えた。
夕暮れの中に次第に小さくなりながら島は二人の視界から消えた。
「このスピードだと今夜はボートで一泊、明日の朝早く網走あたりに着くかも知れない」
ボートの速度にイライラしながら武志は言った。国境警備のソ連の警備艇に見つかったら振りきることも出来ない。逆に夜のうちに国境を越えるのが良いのかもしれない。
「明日の朝までに着けばいいじゃない。そんなに急ぐことも無いし」
「まぁ、普通ならそうだな。でも、このボートで夜に航海するのは危険だと思う。出来れば近くの島の海岸に泊めて朝出掛けたほうが安全かもしれない」
「でも海岸に着く前に浅瀬に乗り上げるか、岩場で船体を壊すこともあるでしょう。それよりも海図だってコンパスだってあるから、夜通し走ったほうが安全じゃない」
「航行の安全以外に、国境を越える危険もあって、もしかしたら突然岩礁に当たって砕けるかもしれないが、夜通し走ろうと思う。ただ、シンシアがそれに巻き込まれて危険な思いをする覚悟があるかどうかと思ったんだ」
「今更新しい危険がどうこうって気にしない。二人で頑張って夜通し走るしかないでしょう。その結果がどうなっても気にしない」
シンシアは強気な発言をしたが、その目は深い悲しみをあらわしていた。当然、武志よりはショックが大きいはずで、中々ふっきれないのだろう。
「でも私は無謀な投げやりな事をすると言っている訳じゃないの。皆の記憶は私の中で生きているわ。そのために私が精一杯生きて行かなければと思う。ただ、この話題は忘れない? 今だって結構危ない場面でしょう。まず、近くの問題から片付けることにしない」
そう言ってシンシアはキャビンからポータブルラジオを持ってきた。ダイヤルを回して音楽を流した。武志は割り切りが早いのかなと思ったが、結構若者は生きて行く力に満ちている。友達が交通事故で亡くなり葬式があって、でも式が終わって一歩外に出ると喫茶店で集まって軽いジョークで笑っている。時には亡くなった友達をダシにジョークを捻り出す。それが若いエネルギーだ。若い力が明日に対して積極的でいられるのは、そのエネルギーが有るからだ。決して不謹慎だったりするのではない。
「ラジオを使って自分の位置を求めることが出来るんだ。これは偏差や周りの金属に影響される磁気コンパスよりも正確に自分の位置を知ることができる」
武志はラジオを回しながら言った。中波放送はAMなのでラジオを回すと音が大きくなったり小さくなったりする。内蔵されているアンテナが送信所を正面にすると電波が強くなり音が大きくなるのだ。
「タケシって何でも知っているのね。私が思うのは、まさか、今みたいにオホーツクの海を漂う場面があるなんて事前に解らないのに、なんで、そのラジオで自分の位置を知るなんてことを勉強出来たのか解らない。有りもしないことで使う技術を事前に拾得するって無理でしょう。でも何故タケシには出来るの?」
武志は答えようがなかった。たとえば今のラジオの方向探知は昔全国のラジオ放送を聞いてベリカードと言われる受信記録を報告して得られるカードを集めていた時に知った方法だ。磁気コンパスの誤差についてはコラーサ号で日本人初の大西洋横断した鹿島さんの本に書いて合った。バイクにコンパスを付けたら使い物にならなかった。そんな経験の結果であって、事前に備えた訳ではない。
「叔父さんにもそんな所が無かったかい?」
「うーん。たしかに叔父も、こんなことが出来たらいいねって話をしていると何日かしてこんなもの作ったって見せてくれる。私にはそんな短時間で出来るのが不思議だった。でも便利だった」
「では、文系の発想のシンシアに工学系の僕から説明させてもらおう。と言っても僕はその卵みたいなものだけど。技術ってのは文化から見たらちっぽけで取るに足らないものなんだよ。でもね、自分が住んでいる環境は全て技術の発展に裏打ちされている。例えばテレビ。これが産業になるためには放送したり受信したりの技術が必要になる。で、我々はそれを今、手にしている。で、その時代にその技術を道具とする新たな人々が表れる。50年前だったらケネディは決してアメリカの大統領にならなかっただろう。テレビジョンて技術は我々の生活を一変してしまった。それは、人類の歴史を石器時代とか狩猟時代とか分けるレベルでテレビ時代と言ってもいいと思う。で、それを支えているのが経済的に製品を成り立たせる製造技術で、これって日本は得意らしい。シンシアの質問への答えだけど、技術ってのは何に使うかは解らないけど自己満足で覚えたもの。それが、「たまたま」今、利用できるってことなんだけど。解る?」
シンシアは解ったような解らないような表情をしていた。技術と言うのは日進月歩で課題が出来たら新しいことを考えてその課題を乗り越えて行かなければならない。シンシアのような文系の発想は、課題が出来たら過去の事例を調べ、そこから類推して解決策を考える方法だ。だから、武志のような理工系の問題解決手法には驚くのだろう。
武志は当面の課題である位置の確認を行う。
「この周波数はHBCの網走送信所、たぶん天都山の頂上だろう。これが、こっちの方向から聞こえる。こんどはNHKの根室送信所」
そう言いながらタケシはラジオを左右に回す。誤差は両送信所から見て角度にして±10度程度であろう。この両者の方向を海図にプロットしてみる。
「この2本が交わったあたりが今のこの船の位置。あまり正確じゃないけど、まったく手探りよりはましになるわけ。船のスピードを30kmにして南西に向かって3時間、その後は20kmで北に向かえばエトロフ島をかすめて、朝には知床半島が見えてくるさ」
武志は海図に赤鉛筆で折れ線を引いて言った。
「つまんない。タケシばかりやることがあって楽しそう。私にも何か手伝うことは無いの?」
なにか行動することが無いと考えごとをしてしまう。そして考えることはついさっきまでの生々しい事柄になる。シンシアも何かしているほうが気持ちが落ち着くのだろう。
「まず、夜通し起きているからコーヒーか何か眠気を防ぐものは無いかな? 食べるものも有った欲しいけど、多分無いだろうなぁ」
「キャビンの棚に少しだけれど非常食を入れて有るはず。水もその中に有ったはずだから」
シンシアはキャビンに降りて行った。日は完全に没した西の空の夕暮れも消えて星が見えてきた。今日も天気が良い。星がドームのように船を包んでいる。見える星座は秋の星座だ。蠍座のアンターレスも今の時間ですでに南の空高く見えている。星空も吹く風も秋の訪れを告げていた。日航機のドバイハイジャックに始まり金大中事件へと続いた73年の夏もそろそろ終わろうとしていた。
 武志は磁気コンパスで西方変位を考慮して220度を保ってボートを走らせた。北海道の西方変位の話をシンシアにするとまた『何でそんな事知ってるの? 知ってる必要があるの?』と言われそうだ。武志は一人で笑いがこみあげてきた。
「なぁに。何か楽しい事考えてるの? 一人で笑ってる!」
シンシアがキャビンから水筒と紙袋を下げて上がって来る。
「コーヒーはインスタントだけれど棚にあったのでヒーターで暖めたお湯で入れてきた。あとはビスケットと缶詰が有ったけど、直ぐに食べられるのはこのビスケットかしら」
武志にコーヒーを注ぐと自分の分もカップに注いで横のシートに座る。
ラジオはナイターが中止になったのか歌謡曲を流していた。
「タケシ。こんな歌知ってる? 『誰も居ない海、二人の愛を確かめたくって』」
「知ってるよ。2、3年前に流行った。南沙織の「17歳」だろう」
「歌手は知らないの。でも2年前なら私も丁度17歳の時だったから」
武志は今なんでそんな話が出て来るか解らなかった。実際、武志はラジオをコンパスの代わりにしているのであって、その放送内容には関心が無かった。シンシアは思いだしたことがあるのかクスッと笑った。
「その17歳の時に誰かと浜辺を走ったとでも言うのかい?」
「はぁ? タケシの発想って楽しいのね」
シンシアは笑って答えない。
「気分悪いなぁ。その態度」
「あら? タケシは焼き餅を焼くタイプじゃ、「前は」無かったよね」
「今もそうさ。ただ、少し変わった事がある」
「どのあたり、少し変わった部分って?」
「今は言えない。もし無事に北海道の僕のアパートまで辿りつけたら。話し合おうか。少なくとも今は話せない。結構今って危険な状態なんだぞ、解ってるのかなぁ、だから僕には話す余裕が無いんだ」
「解ったわ。それじゃぁ別な質問。タケシの部屋にパネルが飾ってあったけど、あれってもしかして南沙織のポスターだったんじゃないの?」
「そうだよ。まさか僕の部屋で一晩を共にする女性が居るとは考えなかったから、僕の部屋は僕の好みでレイアウトしている」
「私って、その南沙織に似ている?」
「え? さぁ、僕は南沙織と合ったこともないし話したことも無いから解らないなぁ」
「また変に理屈を付ける。そうじゃなくって単純に似ているかどうかを聞いているのよ」
「そうだなぁ、外観から話すと、髪の長さが足りないかなぁ。顔全体はシンシアのほうが少し丸い。でもまぁ似ている。沖縄生まれってのも似ている。歳も同じなんだろうけどシンシアの誕生日は何時?」
「54年の7月2日 日本で言えば昭和29年になるのかな」
「それはすごい偶然だ誕生日も一緒だ。かなり似ている範囲に入るだろうな」
 武志はそんな女性週刊誌のような情報を自分が持っているのが何と無く恥ずかしかった。23歳にもなって、南沙織のレコードをカウンターに持て行く恥ずかしさに通じた。でも、自分に正直になりたいと思うと、それは耐えなくてはならないのかもしれない。
「そう、やっぱり似ているの! さっきの話しだけど、家族で居たときにこの歌がテレビで流れていてたまたま叔父が来ていたのだけれど、テレビに映った彼女がとても私に似ているって言ったの。そしたらパパがそんな事は無い、似てないって言ったの。叔母も似てるって言い出して、もうパパったらムキになって似てない似てないって言うの。そんな事になんであんなにムキになるのかかしら。皆で笑っているのに一人だけ真っ赤な顔をして似てない、似てないって繰り返すんだもの」
コーヒーを一口飲み干すと、シンシアはその時の事を思いだしたのか、また笑いだした。
「親父さんは、自分の娘が世界一だと思っているから、それに似ている人間が居るのが面白くなかったんだろう」
武志はあまり興味が沸く話しでも無いので適当に返事する。
「そうなのかなぁ。でもタケシはどう思う? たしかに部屋にはポスターが張ってあったから、その南沙織のフアンなのよね。私が彼女に似ているから興味を持ったって事は無い?」
「シンシアは変な考え方をするんだなぁ。アイドルのフアンである事と、誰かを好きになることは全然違うんだよ。シンシアは今まで誰かを好きになった経験は無いのかい?」
「無くは無いけど」
「それじゃぁ解るだろう。芸能人のフアンになるってことは沢山の比較の積み重ねなんだ。歌が下手だけど可愛いとか、歌が巧いのがいいとか。でも、本当に人を好きになるってのは比較じゃないんだ。好きになる理由なんか無いんだ。気が付いたら好きになってしまってるってことなんだ。だから、誰かのフアンであることはアクセサリーを付けるような単純な事なんだ。勘違いしては困るな」
「ふーん。何と無く解るけど。でもかわいそうね」
「え、僕がかい?」
「いいえ、沙織ちゃんが。だって、タケシと会って話が出来ないなんて。私のほうが幸せだわ。何時でもタケシと話したり、見たりすることが出来るもの」
「シンシア。今、どんな状況か解るよね。最悪の場合、明日の朝には生きているか死んでいるかは別にして、ボートの上じゃなくて波間に漂っているのかもしれないんだよ。だったら、そんな歯の浮くようなおしゃべりしてる場合じゃないと思わないか」
武志は少しイライラしながら言った。なんで芸能人の話をこんな場面でしなきゃならないのか腹がたった。
「いいじゃない。タケシのほうこそ余裕がないよ。明日の朝、波間に漂っていても、昨日の夜にこんな話をしたなって思い出せれば幸せだわ。今が危険なほどタケシと話しておきたいの。タケシはそんなの嫌いなの?」
「僕は思い出を作る余裕が無いんだ。今夜を乗り切るのために一生懸命になりたい。万が一それが出来なくても、せめて悔いが残らないようにしたいんだ。そのためには、今の話は明日にとって置かないか」
「私は、悔いが残らないように、少しでもタケシと話していたい」
「僕はシンシアに悔いを残させないから安心しろよ。で、少しだけ僕にそのための時間が欲しい。そのためにおしゃべりは中断してもいいかい」
「ええ、タケシの邪魔にならないようにする。でも、もし、明日の朝日を見ることが出来なかったら、せめてタケシを知ってから死にたい」
シンシアはうつむいて武志のほうを見ようとはしない。でも、自分の言っていることの意味は解っていて顔が赤い。
「シンシア、僕にその気が無い訳じゃ無い。でも、明日の朝日は見せてあげるよ。何も急ぐことは無い。その機会はこれから2、30年何時でもあるよ。シンシアが弱気では僕も弱気になってしまう。安心しろよ。もし万が一があっても、僕が一番愛しているのはシンシアだ。それを確かめあうのは、とりあえず明後日からにしよう」
武志はシンシアを抱き寄せると頬にキスして言った。それから先に進める状況では無かった。逆にシンシアの事態の理解がこの程度なのが有り難かった。本当はエンジン停止、漂流、ソ連の警備艇のだ捕。島の事が発覚。闇の中で処理されて二度と日本の土は踏めない。そんなストーリーの公算は大きい。そのようにならないように今しなければ成らないことは多い。
「シンシア。寒いだろう。下のキャビンで寝たほうがいいよ」
長く会話が途切れた後で武志が言った。速度が遅いとは言え、深夜の風は冷たく頬をなでる。
「でも、タケシは起きている。私だけ眠られないわ。それに、私が岩礁を見付けられるかもしれない」
「二人居なくてもボートが岩にぶつかったりはしないよ。今走っている場所は周りに何もない所だから」
「何かあった時に手が繋げる距離に居たい。一緒に居たいの。いいでしょう」
武志は、ああ、とあいまいに答えた。そしてシンシアも変わったなと思った。前は内に弱くても外見だけは虚勢を張っているところがあったが、今はその殻が取れたようだ。いや、殻が取れたと言うより、外見と中が一致してきたと言ったら良いだろうか。武志自身も変わったのかも知れない。北見に戻っても銃とオートバイに狂気していた自分は残っているだろうか。たぶん、銃を握ることは無いと思われた。オートバイも興味を持って居られるか自信が無い。たぶん、自分も経験を通して変わったのかもしれない。
 片肺のボートは故障したスクリューが水に引かれるるためかゴロゴロと不快な音をたてて回っている。そこから発生する振動のためなのかエンジンの調子も落ちて来る。武志は北に舵を切ってからスピードを20kmに落とした。船が起こす波の音は小さくなったが、エンジンの振動はあいかわらず調子悪い。
「大丈夫かしら。知床まで着くかしら」
シンシアが武志の不安そうな様子を感じ聞いてきた。
「何とも言えないな。でも、いざとなったら漂流させてどこかにたどり着くこともできるだろう。海上保安庁とかいろいろ調べられるだろうから、その時は二人の話の辻妻を合わせるように準備する必要があるかもしれない」
武志はキャビンの前のエンジンルームの蓋を開けてペンライトの光を頼りに中を覗き込んでみた。浸水しているのかエンジンをマウントしている台が海水に浸かっている。
問題は何時間でどれくらい海水が入って来るかにかかっている。ボートが水没する前に陸に着ければ良いのだから。武志は逆さまの窮屈な姿勢から手を伸ばしエンジンマウントの横にグリースで浸水面から10cm上に線を引いた。その半分にも線を引いて置く。時計を確認すると午前3時だった。はたして5cm進むのに何時間掛かるか1時間後に調べる目安にした。
「どうなの? 大丈夫?」
「一番の問題はこのボートにたぶん壊れたスクリュー側からだと思うけど、海水が入ってきている事。これがエンジンルームでマグネットや電装関係に悪さをするとエンジンが止まってしまう。それが何時なのか今の段階では解らない。ところで、救命ボートみたいのは積んであるよね。万が一に備えて用意したほうがいいかもしれない」
「救命ボートは有るけどボートと言うより漂流用なの。お祖父ちゃんが、使うことは無いだろうって積んでるだけで、使い方は知らないの。もちろん開いたことも無い」
「なるほど。つまり、北海道に戻れなければ色々面倒な訳だ」
武志は夜が開けるまで針路の維持を最優先にする。次は浸水だが、これは武志にはどうしようも無い。水垢を汲出すポンプが有るだろうが、それを探している余裕は無い。シンシアに汲出しをしてもらっても良いのだが、どの程度の浸水か解らない今は無駄な作業、無意味な作業どちらとも判断がつかない。
計器板も含めて殆どのライトを消す。キャビンの夜間灯も消す。わずかな星の光で見えない海面を見ようと考える。真っ暗になると不安がつのるのかシンシアが体を寄せて来る。その肩を抱きながら『あと2時間くらいだろうか。結果が解るのは』と武志は考えた。船を止めれば岩場にぶつかることは無い。しかし、浸水による沈没は時間との競争だ。少しでも陸に近づいておきたい。今の速度が妥当なのかどうかは解らない。しかし、何処かに激突したとして、20km/hなら壊滅的ダメージではなく、再度航海を続けられるだろう。日が昇って当たりが見通せるようになったとしても、今のボートの状態では一気に陸に向かって走ることも出来ない。だとしたら、暗やみの中をゆっくりではあるが、少しでも陸を目指して進むしか無い。
ふとシンシアのほうを見ると疲れと安心からか居眠りをしていた。自分を信じてくれのを感じて武志には心強かった。『とにかく明るくなってからが勝負だ』武志はそう考えてそれまでは目の前の見張りに集中することにする。
時々赤いフィルターを付けたペンライトでコンパスを確認しながらほとんどは星を見ながらボートを進ませた。
 朝の気配は夜通し起きているとなかなか気が付かない。武志は今まで見えていた5等星が見えにくくなり。人工衛星の航跡が頻繁に見えるようになって朝が近いことを感じた。
まず、夜空から変化が感じられた。右を振り向くと水平線が見えるようになった。東の空では海と空が別れていく。さっきから星の見えない部分が左前にある。たぶん、霧の塊か島がその方向にあるのだろう。それが近づいてくる速度は緩やかだ。
やがて明るさが増すと、その影が大きな島に見えてくる。このあたりにそんな大きな島は無い。見えるとすれば知床半島しか無い。
「シンシア、僕達は乗り越えたらしいよ。北海道が見える。たどり着けそうだ」
「あ、私寝ていたのね」
シンシアは目を覚ますと武志の見ている方向に目を移した.
「あ、間違い無い。私、何回かここを通っているから。間違い無くあれが知床半島。あそこの先に風船岩って呼ばれる岩があって、これを回って左に進むと沢山港があるわ。タケシ、私達、誰にも捕まらないで北海道に渡れるってことね」
シンシアは武志に抱きついてきた。武志も強く抱き締める。しかし直ぐに体を放した。
「次は浸水の問題だ。昨日からどれほど進んだか見て来る」
再度エンジンルームの蓋を開けると、中をのぞき込む。前に付けた印の10cmの所を海水は越えていた。あと4時間以上はこのボートのエンジンは回っていないだろう。最悪を2時間を考え、その間に上陸しなければならない。
「何処で上陸するかだけど、このボートはあと2時間くらいしかエンジンが持たない。また、時間的に誰にも見られないで上陸するのは早い時間帯のほうがいい。だから、いつでも陸に上がれるように、荷物は手元に置いておいたほうがいい」
「島を出るときに持っていたものだけ。このバッグと箱だけもっていく」
シンシアは大型のバッグと島で最後に居間で見付けたジュラルミンのケースをもって行くと言った。武志はシンシアに運転を替わってもらうとキャビンに降りた。船籍を示すようなものは残しておけないと思ったからだ。しかし、叔父が同じように考えていたのか、そのような書類もプレートも既に外された後だった。武志はこの船の思い出にとキャビンの六分義をもって行くことにする。いつか自分が使うようになりたいと思って。
上に戻ってそれをバッグに入れるとシンシアが言った。
「斜里まで行って、あとはどうするの?」
「僕のバイクが修理工場にある。もう直っているから、それに乗って北見まで行けばいい。そして、ゆっくり休んだあとで、これからどうするか考えよう」
思い返すとあのバイクが故障した日がシンシアと初めて会った日だった。なにか、今年の事では無いくらい昔のように感じた。
左手に陸が続くのに安心して武志はボートのスピードを上げた。ガタガタとスクリューが音を立ててボートは40km/hまでスピードアップした。逆に浸水も激しくなっているだろう。でも、人に見られないで上陸するにはもう時間が無い。昼までボートがもっても上陸する機会は無くなってしまう。
斜里まで2、3kmの所でボートは浸水による影響が出始めた。キャビンの床が海水に洗われる。船足は極端に落ちた。近くの海岸に入江のような場所を見付けたのでここから上陸することにする。入ってみると周りは岩場だった。砂浜や石のなだらかな浜は無い。だから、誰も使わないのだろう。
「ボートが近づいたら波の調子に合わせてまずシンシアが飛び降りる。それから荷物を投げるから受け取るんだ」
「ボートはどうするの?」
「ここには置いていけない。調べられても困る。このまま沖に走らせることになる。それでいいだろう。それしか無いのだから」
「私とあの島を繋ぐものが無くなるのね。でもしかたがないわ」
シンシアはボートを残して置く方法が無いのは十分承知していた。ボートの先に向かうとタイミングを計って陸に飛移った。武志はジュラルミンのケース、シンシアや自分のバッグ、長波から極超短波まで聴けるポータブルラジオ等使えるものを何回かボートから投げてシンシアに渡す。最後に残ったスクリューを後進にして浸水しているボートの後ろからさらに海水を注ぎこむ。甲板まで水に浸った頃、エンジンが止まった。武志はボートを捨て海に飛び込む。波のタイミングを計って岩場に上がろうとするが2回程失敗して海に戻される。シンシアが助けようと近づいてくる。
「無理だ、僕を引き上げようとすると君も海に引き込まれる。手を出すな。それが一番安全なのだから」
海の中で立ち泳ぎしながら武志は叫んだ。3回目で引き潮に逆らって岩に登ることができた。両腕はスリ傷で血が滲んでいる。
「ボートはここに置いて行くの?」
シンシアが震えながら聞いた。武志が岩に登れない場合を考えていたのかもしれない。
「この波で岩にぶつかって少しずつ壊れると思う。だけど、それを見ているのは辛いよね。夜に調べたら叔父さんがやってくれていたらしく、このボートの所有者が解るようなものはボートには残っていない。金目のものもあらかた外したから係留しないで置いておけば誰かに発見されても船の捨て場に困った人間が捨てたとしか思わないだろう」
「なるほどね、解ったわ。で、これからどうするの」
「まず、濡れた服を着替える。シンシアはあっちの岩の影で待っててくれるかな」
武志は獣道より少しましな道の踏み跡がある場所の近くを差して言った。
バッグを開けてタオルを出すと濡れた髪を拭いた。シンシアの行動にかかわらず、Tシャツを脱いで海水を拭き取る。海水で濡れた衣服を替えないなんてことは出来なかった。体温で乾かす間に凍えてしまう。シンシアに見えないように着替えながら、『戻ってきたな』と何故か安心する気持ちが武志には起きていた。でも、逆にシンシアはここにたどり着くことにより、島での繋がりをなにもかも失った気持ちがあるのを武志は理解していた。
 
第17章 傷つく世代
 沿岸から国道までは300m程だった。それから1km程でオートバイを預けた自転車屋がある。時計を見ると7時半を少し回ったところだった。まだ店は開いていないかもしれない。武志はバッグの中から壱万円札を数枚抜き出すとシンシアに1時間程待つように言って自転車屋に向かった。
武志がキャンプ場から帰ってきた日とは違いドンヨリと曇った天気だった。気温も20度程であろうか。徹夜と上陸のために海に浸かった為かかなりエネルギーを消耗しているらしく半袖のTシャツ一枚では寒い。
 軽くランニングしながら自転車屋に向かう。汗が出て来る前に目的の自転車屋にたどり着いた。漁師が多いためか町の朝は早い。前に話した店の主人がすでに一仕事終わったように店先で煙草をふかしていた。
「お早ようございます」
そう声を掛けた武志を近所の青年とでも思ったのか、ああ、と気の無い返事で主人は答えた。
「バイクの修理をお願いしていたんだけど、出来ました? YAMAHAのツイン90なんですが」
 その時初めて主人は武志が客であることに気が付いたのか、急に顔を愛想笑いに変えた
「ああ、あのバイクか。1か月くらい前に預けていった。あまり取りに来ないからなんかの事情があったのかと思っていた。その時は中古で売ろうかと思っていたんだよ」
「修理に時間がかかるって聞いてたので、途中で電話でも入れれば良かったのだけれど」
武志は、そう言えば電話も無い所に3週間も居たんだと改めて気が付いた。
「あれの修理には苦労したよ。焼き付いたシリンダーをオーバーホールしてピストンを交換したら回るようになったけど、シリンダーヘッドがかなり削ってあるから今度は止まらなくなって。点火プラグのスイッチを切っても回り続ける。普通の修理屋ならヘッドも交換しただろう。でも、あんたが手を加えて改造したんだから、その楽しみは残しておいた。どうしたと思う?」
「キャブレターを調整するとかかなぁ」
寝不足ではっきりしない頭で武志は適当に答えておいた。シンシアが待っているし、あまりこの主人の講釈を聞く気にはならなかった。
「結局、ただ回るだけしかできなかった。ガスケットを数枚重ねて調整してある。あとは、あんたが、改造すればいい。これが、修理を頼まれた人間の出来る範囲だ」
店の主人はそこまで言うと、やっと重い腰をあげた。店の横手に数台のバイクが停めてある中から一台武志のバイクを引いてきた。またがってキックすると前よりも軽い感じでエンジンが始動する。
アクセルを開けてレーシングしても前と感覚が違う。エンジンの要素であるシリンダーとピストンが替わったのだから当然かもしれない。武志も忘れていたノーマルな状態のエンジンの反応に戻ったのだろう。
「修理代はいくらになります?」
店の主人は奥から何枚かの紙切れが綴られたクリップボードを持ってくる。
「あんた、学生さんだろう。16、630円。学生じゃなかったら30000円とおおざっぱに言う所だけど」
主人はクリップボードを武志に渡して言った。武志が明細書を見てみるとこの店宛てに送られている納品書が綴じられていた。ざっと見るとこれだけで16、000円程になる。
「工賃も入れていくらですか、さっきの値段は元値でしょう」
「いやいや、全部でこの値段だ。工賃は私の勉強代だから無料。それにしても、ここまでバイクをチューンアップする人が近くに居るとは思わなかった。大学は機械工学かなんかかい?」
「いえ、電気工学なんです」
「そっかぁ、でもこれからのエンジン制御はみんな電子制御になるから電気の知識が無いとバイク屋も勤まらない時代になる。俺も昔はカミナリ族だった割に電気には弱いからなぁ」
主人は声に出して笑った。カミナリ族の時代は20年程前だろうか。
「荷物も預かってもらったし、これでヘルメットをサービスしてもらうってのでいいですか?」
武志は2万円出してシンシアのヘルメットも買った。
店の主人は武志の言うとおりにしてくれた。リュックを後ろのキャリアに縛ると武志はシンシアの待つ場所に向かって走りだそうとした。
「また今度近くに来るときは気楽に寄りなさい」
店の主人がそう言って武志の肩を軽く叩いた。
 武志はかなり乗り心地の変わったバイクで海岸添いの道を戻った。今はただ走ってくれさえすれば良い、北見に戻ったらじっくり調整することにする。シンシアは岩場に腰掛けて手紙のようなものを読んでいた。武志が近づくまで気が付かなかった。
「なんだい、その手紙」
「あ、おかえり。バイクは修理が終わっていたのね。この手紙? 箱の中に入っていたの。書類と手紙が沢山入っているわ。それとお金」
「お金? どれくらい?」
「日本円で30万円、それにアメリカドルで1万ドルくらい」
「それで当面の生活は大丈夫なようにしようとしまっておいたのかな? 手紙には何が書いてあるのかな」
「全部見てはいなけど。色々書類もあるし。全部に目を通すだけでも結構時間が必要ね」
「ここに居てもそれは出来ない。そろそろ行こうか」
「何処に?」
シンシアは沢山の書類をケースに納めながら武志に聞いた。
「僕のアパートにさ。それともシンシアには何処か行くところがあるのかい」
「無いわ。でも私がタケシの所にいると武志に迷惑じゃないからしら?」
「迷惑? そんな事は考えたことも無い。ただ、シンシアが嫌なら一緒に行かなくてもいい」
武志は当然シンシアが一緒に来るものと思っていたので意外だった。ケースの中の手紙に何か指示が有ったのだろうか。
「でも、タケシにはタケシの生活が有るでしょう。タケシの友達とかが、私とタケシのことをどう思うかしら?」
武志にはシンシアが何を気にしているのか解らなかった。答える言葉が出てこなかった。
「まさか、北の島で私の家族が殺されて、身寄りが無いからタケシの所に居る。なんて言えるかしら」
「それは言えないな。じゃぁどうする? シンシアが一人でホテルに泊まるものいいだろう。でも、出来るならば、シンシアが嫌じゃ無ければ周りに慣れるまでは僕の近くに居た方がいいと思うけどな」
「でも、それじゃぁタケシに迷惑がかかる。絶対、私とタケシの関係を人は気にするわ」
「そんな理由はなんとでも成るじゃないか。とりあえずここで口論しても始まらないから出発しよう。あと少しでゆっくり休めるから」
 武志はシンシアに話をさせる暇を与えずに荷物をキャリアにリュックと一緒に縛り付ける。途中で警官に停められると面倒なのでシンシアにもヘルメットを被ってもらう。器用に長い髪を束ねてシンシアはヘルメットを被った。
「そうそう、これがあったのよね」
バッグの中からサングラスを取りだしてそれを掛ける。
「イージーライダーの雰囲気よね」
シンシアの性格なのか深刻な話をしていても直ぐに冗談が出る。奇妙な感じもするがそれがシンシアの人を飽きさせない魅力なのかもしれない。
 途中網走で朝食を取って北見に向かう。美幌あたりから自転車屋の苦心のガスケットが欠けてしまう。圧縮された混合気が抜けるためかクラッチを切ってシフトチェンジする度にエンジンの回転が急激に上がりアクセルでコントロール出来なくなる。武志は前にガスケットを飛ばした状態を経験していた。常にエンジンを繋いでおかないと信じられないくらいエンジンの回転があがる。だから多少クラッチに負荷がかかってもシフトチェンジは素早く繋いておく。武志のアパートに着いた頃にはシリンダーからは漏れたオイルが焼けた薄紫の煙が出ていた。
荷物を持って部屋に上がる。新聞がかなりたまっている。その新聞をまとめて部屋の隅に積み上げると武志はベットにひっくり返った。
「あーーあ、とにかく一段落だ」
シンシアはソファーに掛けるとそんな武志をぼんやりと見ていた。
二人とも昨日眠っていないので疲れていたそのためかお互い口を開くことが出来なかった。そんな沈黙の時間がしばらく続いた。武志はこのままでは眠ってしまいそうだった。ベッドから起きてステレオのスイッチを入れる。
「何かシンシアが好きな曲があるといいのだけど。リクエストはある?」
乱雑に入れてあるレコードをまくりながら武志は聞いた。
「FENで聞いていたのはサイモン&ガーファンクルかな。古い方に入るけどビートルズも一部の曲は好き」
「古い方ねぇ。シンシアはビートルズ、ppm、s&g、tom johnsの世代かな。僕は最初に音楽に触れたのはエルビス プレスリーなんだけど」
武志は歳の違いをそんな中で感じる。わずか数年の違いだけれど、自分が青春のピークであった時に何を見、何を聞き、何を感じていたかは結構一生残るものかもしれない。その意味で、武志が中学生の頃映画館で見たプレスリーの一連の青春もの。マイアミの浜辺のビキニの女優なんかが武志の記憶に強烈に残っている。それを知って加山雄三の若大将シリーズを見た者とそれを知らない人間とのギャップを昔武志は感じたことがある。年齢は3歳も違わなかったのだが。まだ袋に入っていて聞いていないレコードがあった。プレスリーが72年の春にステージを再開したライブレコードだった。キャンプに行く2、3日前に買ってまだ聞いていなかった。
「シンシアは音楽はBGMのように静に流れているのが好きかい、それとも強烈なのがいいかい」
「そんなの、曲によるんじゃない?」
「ま、そりゃそうだ。プレスリーの復活レコードがあるんだ」
武志はまだ聞いていないレコードをスレテオにかけた。
「誰か解るかい?」
「エルビス・プレスリーでしょう。最近ライブを再開したって何処かで読んだ事がある。LOVE ME TENDERは映画の主題曲でしょう。テレビで再放送だったかな映画でますますその歌の背景が解って、せつなかった想いがしたことを憶えている」
武志はまたベッドに戻って横になった。疲れているのが自分自身で良く解った。レコードを聞きながら考えがあっちこっちとさまよっている。そして、本当に眠ってしまった。
A面の終わりとともにプレイヤーのアームが戻る音で眼がさめた。眠っている時間は15分もなかっただろう。眼を開けるとシンシアがベッドの横に椅子を持ってきて座りジット武志のほうを見ていた。
「ビックリするじゃないか。どうかしたの?」
「タケシの寝顔って可愛いわ。子供みたい」
シンシアが武志が眼が覚めたことが残念そうに言った。
「何で人の寝顔なんかを観察してるんだい」
武志は年下のシンシアに可愛いなどと言われた事が気に障った。
「タケシのことを考えていたの。だって、解らないことが沢山あるでしょう」
「解らない事? 例えばどんなことかなぁ。僕は別に隠している事なんかないから、聞いてくれれば何でも教えてあげるよ」
武志はベッドから起き上がりその隅にシンシアと向かい合うように掛けて言った。
「じゃぁ、最初の質問。ガールフレンドは居る?」
「え! なんで、そんなことを?」
「いいから、答えて。さっき何でも正直に答えるって言ったでしょう」
シンシアは武志がどう答えても次の質問を持っているようだった。
「居ないよ。こう見えても僕は大学では女嫌いと思われてる。でも何でそんな事が知りたいのかなぁ」
「ウソ! 2、3人居るって答えれば信じるけど、居ないなんてウソね」
「シンシアが質問して僕が答える。なのになんでシンシアが答を用意しておくのかなぁ。それじゃぁ、答えようが無いじゃないか。それに、今更なんでそんな事を聞くんだい?」
「別に訳なんかないの。ただ、聞いてみたかっただけ。でも私にはタケシがそんなにガールフレンドも居ない人だと思えないの。だって、最初に会ったときに、このひとはプレイボーイだなと思ったもの」
「それって、おもしろいと思うな」
武志はシンシアの直感と自分の本質が随分違うので逆に余裕が生まれた。やはりシンシアは人生経験においても自分より若いのが確認できた。
「残念と言うか、お門違いと言うか、シンシアにそのように見えたのは僕がプレイボーイだと言うより、シンシアの思っているプレイボーイに近かったってことかな。でも、それは外れている。逆に、シンシアの眼に映る真面目一筋の好青年こそが、プレイボーイかもしれない。それを見きわめる力は今のシンシアに無いのかもしれない」
「タケシの得意の詭弁が始まったわ。私、タケシの話を聞いていると白も黒と思わされてしまう」
「ああ、そう言うことは自分でも感じるけどね。でも、言葉は人間が偽りを行うとために神が与えた。そんな事、前にシンシアが言っていなかったっけ?」
「それは、たとえの話。もしタケシがそういう眼で私と話していたら私、タケシの事を何も解らないままだとおもう」
「あ、シンシアに対してそんなことは無いよ。ただ、今みたいに変な質問をされると理屈を言ってみたくなるだけだから」
「お話ししながらタケシの事を知ろうとするのは無理なの?」
「それは、自分の目と耳で得られた知識も含めて生かすことだろう。僕は言葉だけで人間関係がつながるとは思わない。お互い目で見て手で触れて解る事が一番大切だと思う」
「だけど、時間が無いの。今、これからどうするの? まず、今夜はどうするの? 私がここに泊まったらタケシの男とか女とかも含めて友達は私たちのことをどう思うかしら? タケシのことをどう思うかしら」
 さっきの話のむしかえしだ。他にどうすると言うのではなく、今が心配だと言われても解決方法は無い。そんな単純な話をシンシアが繰り返し言うのが不思議だった。
「どうしたんだろう?。僕は何も変わってない。と言うより、前よりシンシアを近くに感じる。他人に僕たちがどう見えるかと言うより。僕たちがどうしたいかの方を大切にしたいと思う」
シンシアは武志が考えている事と自分が心配していることの違いを感じて黙っている。
「シンシアがここに居たいなら居る。他に行くのなら行ってもいい。でも、僕の気持ちはどっちであっても変わらない」
「でも、前みたいに一晩だけじゃないのよ。何時までとは言えないし。その間も今までと同じようにやっていけるかしら?」
 シンシアは何を恐れているのか武志には解らなかった。武志が考えられる範囲では、もう戻る後ろだてが何もないことがシンシアを臆病にしているのかもしれない。でも、武志はそんな事でシンシアを懐柔するほどのテクニックを持っているわけでは無かった。
「おかしいなぁ。急にそんな事を言うなんて。昨日の夜のボートの中での発言と180度違う。シンシアがどんな事を心配してるのか解らないよ」
武志が不機嫌になったので、シンシアは話を続けられない。きまずい沈黙の中で時間が過ぎていく。武志は読む気も無いのに、新聞を広げている。シンシアはぼんやりと窓辺から外を見ている。
「タケシから見たらやっぱり子供かな? 私、どうしたら人を愛せるか知らないからね」
沈黙を破ったのはシンシアのほうからだった。
「僕だって知らないよ。僕がシンシアを好きだって言ってもそれはシンシアに伝わらない。さっき話したように「好き」って言葉の意味はそれぞれの人によって解釈は違うから。でもね、スタンダールの「恋愛論」を読んだことがあるかなぁ。そこに書かれているクリスタリゼーションの期間は相手の言葉は全て自分へ好意的に発せられると思われる時期なんだって。でも今の僕はそのフィルター無しに、シンシアが好きだと言うのだけれど。それが変な下心と思われるのはつらい。だから、言葉にすることを迷う。でもね、スタンダールの恋愛論を読めば素敵な恋ができる訳で無い事はみんな知っている。だけど読んでしまう。そこで解ることは恋愛って一人一人もしくはカップル同士でそれぞれが主人公で演じられる独自なものなんだってことかな。僕がスタンダールの恋愛論を読んでいるのは極秘で誰にも話して欲しくないのだけれど。だいたい、何で工学系の大学の図書館にあんな本があるのかなぁて疑問もあるのだけれどね。で、個々のカップルで違うパラドックスが解ると「好き」って言葉も少しは同じ意味として受け入れられるのかなって思う」
「パラソックスって、何が恋愛のパラドクスなの?」
シンシアは窓の外を見ながら、それでも武志の話を興味を持って聞いているようだった。
「恋愛のパラドックスって具体的に言えないけれど。分かりやすい話に中国に少林寺と呼ばれる寺がある。少林寺拳法で有名なんだけど。少林寺拳法の少林寺は禅宗の総本山が有った河南省の少林寺で発生したけれど、歴史的に見ると福建省九重山少林寺のほうが重要なのかもしれない。とにかく少林寺と呼ばれる寺は中国各地にあったらしい。
 沖縄の空手なんかは唐の国の字をあてて唐手と書く事もあるのだけれど、まさに唐の時代に渡った少林寺拳法が今の空手のルーツだって言う人が多い。
その少林寺で修業する僧侶は、武力としての少林寺拳法を学ぶのと同時に精神の面でも優れた人間になるように修業を重ねることになる。その知識の修業の一部に問答があるのだけれど、その中におもしろい問答がある。
例えば『暗闇で烏を見るには』とか、こうして手を打ち鳴らした時に『音を立てたのは、右手か左手か』とか」
武志はそのとうりに右手と左手を打ち鳴らした。
シンシアはその音が気になったのか窓から目を外らすと武志のほうに向いた。
「それで、答はなんなの。どっちの手なの?」
シンシアが聞いた。
「それは、僕たち並みの人間には解らない。悟りを開く試験なのだから。ある時、師匠の所に言って『私は、こう思います』と答える。すると師匠が『お前がこの寺を出るときが来た』と言ったら合格。不合格な場合は『更に修業を積め』と言われる。僕はこの話を色々と考えてみたんだ。すると、なんか正解は事象の矛盾、パラドックスに気がつくかどうかじゃないかと思ったんだ」
 武志は本棚のnews weekのバックナンバーから一冊を取り出しそのテレビ欄を開いてシンシアに渡した。それはアメリカで人気の出てきたkaufhと言う少林寺の僧侶をモデルにしたテレビ映画のコラムだった。そもそも少林寺とは何かをトピックスとしてまとめられている。
「そこに色々書いてあるだろう。例えば『幸福とは何か』と聞かれて『幸福について考えない時のこと』とか『死とはなにか』聞かれて『死に付いて考えられない状態の事』とか、そんな答が正解なのかと思うんだよね」
「それって、ソフィズムだわ。答になってない」
「西欧の合理主義の欠陥だな。一つの問には複数の正解がある。その世の中のいかげんさに気がつくかどうかが少林寺の僧侶の修業だったんではないだろうか。で、話は戻るのだけれど、『どうしたら人を愛することができるか』これの答はなんだろう?」
そこで武志は話を切った。武志にも解らないから考える時間が必要だ、そのためにシンシアにバトンタッチしておきたかった。
「私には解らない。考えたことも無かった。それにそんな事を考えだしたのは最近の事。それまでは父とか母の愛を受ける側であって自ら人を愛することについて考えたことも無かった」
「シンシアはそうかもしれない。でもね、その中にすでに答の糸口があるよ。人間は生まれたての頃は愛を受ける側にいる。けれど生長するに従って自ら愛するようになるんだ。愛ってその表現方法を知る事よりもっと本質を知る事のほうが大切なんだ。愛を別な日本語で言えば絆だと思う。新しい絆を作りながら古い絆との関係で悩む。それが人間かも知れない。とまぁ、そこまで考えると、人を愛するために必要なことは自分が自分を愛しているかってこと。別な言い方をすれば自分に自信の無い人間は人を愛することが出来ないってこと。だって、古い絆とどうするか。新しい絆とどうするか。それは全部自分を中心に置いて考えなければならないこと。だから、シンシア。自分に自信を持て。それがこれからの出発点。僕は自信を失ったシンシアを迎え入れる程包容力は無いのだから」
「それって、逃げてる?」
「全然。出来ないものはできない。それだけ。過剰な期待をされても困るのだけれど。僕は僕でシンシアの4歳年上の子供なのかもしれない。だから、全てを受けとめる程の度量は無いと思う。シンシアが好きだけど助けになってあげられる場面は一部でしかないんだけど、解ってくれるかな?」
「だから、これからどうしたらいいの? 結論が出ていないようだけど」
「結論は出ているよ。シンシアが自分に自信が無いのなら正しい判断は出来ない。だから、一人で自信が付くまで暮らしたら良い。でも、自分が的確な判断が出来ると自信があるのならここに居れば良い。それだけ」
「それって、ズルイわ」
「何故?」
「私がここに居るってことはタケシを好きだってことを認めることでしょう。ここに居なければ私は自分に自信が無いから。どっちにしてもタケシは傷付かない」
「そう思えるってことが自信の現れかな。ま、結論は先に伸ばしてもいいと思うけど」
武志はシンシアが平常心に戻りつつあるのを感じた。島での出来事は忘れ去ることが出来ない。官憲の追求なんて場面も今後あるかもしれない。しかし、武志もシンシアも若い。これから生きて手に入れる事は多い。早く新しい環境に慣れて過去を引きずらないようにしなければならない。
「とりあえず、食事に行こう。それからもう一回考えることにしよう」
 武志は大きな問題が起きた場合、物事に順番を付けて結論を決めて行けば大きな問題も少しづつ解決することを知ってた。当面、シンシアが自分の元に居てくれれば、それから先はまた次に考えれば良いと思った。
 8月30日、あと一日を残して8月も終わろうとしている。恋する夏の日にはほど遠く、私の青い鳥も見つからず、しかし武志には予想すら出来ないような大事件が起こった73年の夏も終わろうとしていた。
 
第18章 新展開
 9月に入ると「もう秋だな」と感じる。東京あたりでは、まだ、残暑が残り汗をかく日もあるが北海道の9月は確実に夏は終わり秋に入っていると感じる。
 武志も大学の講義が始まり午前中は大学に、午後はバイクの修理にと時間を配分した生活が始まった。
シンシアが武志のアパートに来てからもう1週間になる。最初の日からシンシアは部屋にこもりがちであまり外に出ない。武志はシンシアのプライベートなことに干渉しないように、自分の寝室をシンシアの部屋としてた。鍵も付けたがシンシアは一度もそれを掛けていないようだ。たとえ夜眠る時にでも。
 武志は島での出来事以来、銃に対する興味は失ってしまった。銃を構えても標的を見つめても以前のように心が躍らなくなった。かえって不快に感じる程だった。だから銃は分解して大学の機械工学の実験室で徐々に溶かしてしまった。
 また、新しいバイクを購入した。これは原付と呼ばれる50ccのバイクで、これをレーサーに改造しようと思っていた。大学の敷地の中に完全舗装された道路が合わせて1km程あるので、ここでテスト走行してみるつもりだ。大学の自動車同好会が自作の自動車を試験運転しているのに紛れるつもりだ。卵一つよりも小さなエンジンでいかに馬力を出すか、それをどう操作して最大の能力を引き出すか。これは武志の好きなテーマだった。「規格」の中で努力するのがエンジニアリングであって、アメリカのようにモンスターを作れる一部の人間しか参加できないモータースポーツはスポーツでは無い。だから、武志は最近世界グランプリでも見直されて、クラスが設定されている50CCクラスに興味をおぼえた。このあたりが、武志の知的好奇心を支えるのに財源として妥当かもしれない。
 また。YAMAHAの90は高回転のエンジンを逆に作動レシオの広いねばりのあるエンジンに改造するつもりだ。レーサの作り方と街角を走るバイクの両方を試してみるつもりだ。
アパートの裏の空き地で手を油だらけにしてバイクをいじっている。YAMAHAの90が直ったらシンシアとツーリングでもしようと思って。
「タケシ、話があるの。上がって来て」
シンシアが二階の部屋の窓から下の武志に声をかけた。何か急ぐ用事なのか手を振り武志を招きながら大きな声で呼んだ。
「今、手が放せないんだ。少し待ってくれないか」
武志はスプロケットにギアを組み込んでいる最中なので作業を中断するのが気になって言った。10分もあれば組立が完了する。
「それが全然待てないくらい急用なの。今、すぐ!」
シンシアは命令するように言って武志に返答させる余地を与えずに窓から引き込んでしまった。武志はしかたなくウエスで手を拭くと部屋に戻った。
「何が急用なんだい。今、大事な組立をやっている最中なのに」
武志が部屋に戻るとシンシアは島から持ってきた例のジュラルミンのケースの中身をテーブルの上に広げていた。その中の手紙を一生懸命読んでいる。
「中の手紙に新しい発見があったのかな。ほとんで全部読んだって言ってたよね」
武志は油で汚れた手を洗いながら何が急用なのか解らないので聞いた。
「それが、不思議なの。今解ったんだけど、このケース底が二重になっていて、この底の板の下にも手紙が入っていたの」
シンシアは箱を逆さまにして二重底の所を武志に見せながら、そこから出てきた手紙を武志に示しながら言った。武志が普段見慣れたシンシアにしては少し興奮気味で箱が二重底であることよりもその中に隠れていた手紙の内容に驚いている様子が感じられた。
「ここに入っていた手紙。何と言ったらいいのか。とにかく信じられない。でも、本当の事じゃないかと思う。なんとなく今まで不思議だったことが説明付くもの」
何を変な事を言っているのかと思いながら武志はシンシアの横に掛けた。シンシアの言っている手紙は英文タイプで打ってありかなりの枚数だった。
「読んでみて。とっても不思議」
「英文じゃないか。僕には読めないよ。君が読んでくれよ」
「解らない所は私が教えてあげるわ。あ、その前にこれを見てくれる」
シンシアはその手紙と一緒に入っていたらしい書類を見せた。青く塗ったようなその書類は10年程前のコピーらしかった。
「なんだいこれは。戸籍謄本の写しだけど。色が変色してきている。コピーしたのは昭和39年になっている」
武志は青い紙に埋もれてしまいそうな文字を探して読んだ.
「戸籍謄本ってなに? 私は難しい漢字は解らないから。それってregisterの事かしら」
「registerそれって何?」今度は武志が聞き返す。
「手紙の最初に書いて有るの。そのregisterを読んで全て解るって」
武志は大学で使っている英和辞典で調べてみる。たしかに戸籍のことをregisterと呼ぶらしい。
「ええっと、内間一雄、長男英雄。あれ、シンシアの本名は内間だっけ」
「そう。でも、みんなシンシアと呼んでくれた。卒業式とかでもクリスチャンネームで呼ぶのが普通だったからあまり気にしたことは無いけど。時々家に来ていた手紙はそう書いて有ったような気がする」
「やれやれ、あまり戸籍に関係ない生活をしていたんだ。車の免許も船舶免許も持ってないものなぁ」
「そんなの必要無い生活してるのはタケシだって見たでしょう」
「ああ、でも僕たちが結婚するとしたら。戸籍は必要なんだぜ」
「はいはい。するとしたらね。いいから先を読んでちょうだい」
シンシアは武志の言い方が気に入らないのか少し不満げに先を読むように言った。
「お祖父ちゃんが一雄で、お父さんが英雄、シンシアは明美が本名なんだな。あ、戸籍上の名前って意味ね。それから昭和29年7月2日生まれ」
「そう、やっぱりそれって私のコセキだわ。生年月日は同じだもの」
「ああ、シンシアは双子だったんだ。明子って言う妹が居たんだ。でも、1歳の時に亡くなっている。そのことかい驚いたのは?」
「そうじゃないの。この手紙を読めば解るわ」
シンシアはもう一度、英文タイプで打たれた手紙を読むように武志に言った。もう少し英語に身を入れておけばよかったと武志は思ったが、その手紙をゆっくりと読みはじめた。
「1971年11月9日。あれ、僕の誕生日じゃないか。この頃は大学に入って最初の年だなぁ」
「ふーん。お祖父ちゃんがこれを書いていた頃の武志ってどんなだったのかしら。私はその頃・・・・」シンシアは独り言のようにつぶやいた。
『1971年11月9日
 愛するシンシア。お前はこの日を忘れないだろう。また忘れることが出来ないだろう。父を失いそして母も失った日なのだから。
私は今この手紙を書き初めて、はたしてシンディにこの事を伝えるのが自然なのか、それとも神はシンディの運命として知らないで過ごす事を指示しているのか迷っている。既に過去の事を知ってる人間は私しか居なくなった。本当であれば息子である英雄、シンディの父親がその役目を担うべきなのだろうが、悲しい事にいま私にその役目は委ねられている。
 私はこの事をここに書き留めて、これがシンディの目にとまるかどうかは神に委ねようと思う。もしかしたら、この手紙は箱もろとも朽ち果ててしまうかもしれない。それを望んでいる私が居る。でも、シディの運命はシンディのものだ。これを目にするかどうかは私の力ではどうすることも出来ない。ここに書かれたことはシンディの運命の一部なのだから。
 今、これをシンディが読んでいるとすれば、たぶん私はこの世には居ないのだろう。それは決して悲しむことでは無い。これが何時の日かシンディに読まれる淡い期待もまた私の中にあるのだから。
 シンディ、今はどんな時代なのだろうか。もう結婚して母となっているのだろうか。もっと時代が経って私と同じように孫に恵まれているだろうか。
 私が沖縄に渡った頃は、戦争が終わってから1年程した時だった。
その沖縄で私は子供、つまりシンディの父を育てる為もあって社会の仕組みの中に入る必要性を感じた。人間は社会的動物と昔の人が言ったが、その社会には制度があってそれに従わなくてはいけない。つまり、貴方は誰ですかと聞かれて私は誰誰ですと答えるよりも社会が私を私と証明する。そんな仕組みが社会にには必要になる。その仕組みに登録されてなければ社会で生きていくことができない。そんな矛盾を社会は含んでいる。
 そこで私は戸籍というものを手にいれようと思った。実際、これが無くては生活に困る場面が多々あった。そして戦争の後の混乱を利用して、私と同じ様な家族構成の内間さんから戸籍を買った。いや分けてもらったと言ったほうが良いかもしれない。
当時、内間さんは私たちの住んでいた島から宜野湾市へ引っ越すところだった。そこで私は一計を案じ内間さんの転出届を2枚書いて貰い内間さんは宜野湾市で転入届を、私は再度あの島で再転入の手続きをとった。転入先からの照会も無い当時では特に書類に不備な点は出なかった。島の役場の人も暗黙の了解だった。
 島の役場でお願いして戸籍を新たに作成することも可能だったが、戸籍というのは何時の時代に調べられるか解らない。だから、何年先でも不備のないようにしておきたかった。
 やがてシンディが生まれた。もうシンディは戸籍謄本を見ただろうか? 島を去るときに役場から届けてもらった。これをお前に伝えるための資料にしようと思って。
そう、シンディ、実はお前は双子だった。変な表現だな。お前は双子の一人だったと言うのが正しいのかもしれない。どちらも女の子だったので、シンディはお姉さんに当たる。
戸籍謄本の中ではシンディの妹にあたる子は死亡となっているが、本当は違う。
古い時代、そう私がロシア帝国で生活していた頃だが、双子と言うのはどちらか一方は里子に出す習慣があった。あまりにも似た二人を一緒の場所で育てることを嫌った為だろう。
また、子供のほうも互いに似かよった自分が目の前に居ると普通の子供のように育たないと思われていたためかもしれない。私もお祖母ちゃんも一年たったらどちらかを里子に出そうと決めていた。シンシアのお母さんは二人を手元に置いておきたかったと思うが、生長した二人が出会う時を楽しみにしていた。二人の子供が不完全に育つよりは、一人づつ立派に育ってもらいたい。そんな想いが当時は有った。
 ところで、シンディ、双子の姉妹はどうして決めるか知っているかな? 先に生まれたほうが年下で、跡に生まれたほうが年上になる。昔はそうやって決めた。だからシンディは後から生まれたから姉となる。ところが最近の戸籍は先に生まれた方を年上とする。つまりシンディは妹というわけだ。
話が飛んでしまった。
 シンディの妹、いや姉はちょうど一歳の誕生日に里子に出された。それは前から約束のあった内間さんの所だった。戸籍の時にお世話になったと同じく、生まれた子供が双子だったときに、内間さんのほうでも出生届を出してもらった。どちらの家庭でも戸籍に里子と書かれないためだ。そしてシンディ達(ここは、複数形で言うべきだろう)の1歳の誕生日に両方の家で「妹、明子死亡」の届出を出した。つまり、戸籍の上だが、内間明美の名前が同姓同名同生年月日で存在する。そしてそれは偶然の一致ではなく本当に姉妹なのだ。
 ところでシンディ、シンディと言うのは洗礼名なのだが、戸籍の上での「明美」と言う名前は初めて耳にするのじゃないかな。気に入ったかい。これは私が明るく美しい子に育って欲しいと思って付けた名前なんだよ。
 ここで、同封されていた戸籍の別な一面の話は終わりだ。さて、シンディの妹、いや正確に言うと姉はどうしているだろう。
 もしこの手紙を1980年代か1990年代に読んでいるとしたら、たぶん、今となっては解らないと言ったら良いだろう。だが運命とは不思議なものだ、何時の時代であってもシンディから姉を探すのは可能になってしまった。姉からシンディを探すのに比べて数段楽に捜せる。
 シンディは我々が沖縄を離れた頃の事を憶えているだろうか? 今が、あの頃からどれだけ過ぎているのか知らないが、あの時の事を今でも思い出す事が出来るだろうか.
米国の植民地、いや正確には統治下にあった沖縄が日本に戻る、帰属する日が近いと話題になったあの頃の事だ。実際にはまだ先の事になりそうだが、シンディの父である息子と激論を交わした琉球国として独立するのか日本の沖縄県なのかの議論の時代だった。
 シンディはハイスクールの友達からギターを習って、やっと「禁じられた遊び」が弾けるようになった。今の私にはわずか4ヶ月前の事が遠い昔のように思われる。
あの頃シンディはギター片手に歌を唱っていた。その歌の中にTVで活躍していた同じ沖縄出身の歌手の歌があった。『17才』という歌を憶えているだろうか。芸名は南沙織と言って沖縄出身なので沖縄にフアンが多かった。
 その歌手にシンディが似ていると友達や近所の人が言っていた。
それもそのはずで二人は姉妹なのだ。どっちが姉でどっちが妹かを正確に言い切れないが二人は姉妹なのは間違いない。私も内間さんに会って直接話を聞くまでは信じられなかったのだ。
 このことは事実なのだよ。このことを知ってシンディはどのように思うだろうか? ちょっとした運命のいたずらで一方はスポットライトをあびて歌手として歌い、また一方は暗い島の中で隠れて生活しなければならないなんて。シンディ、もしかしてステージで歌手として歌っている自分が有ったのだよ。
私たちが二人を離したためにそんな事になってしまったのだが、それを恨まないで欲しい。
私は事実を知ったからと言ってシンディがどう思うことも無いと信じている。今からどうすることが出来る問題でもない。ただ、シンディ自身が自分の知らなかった小さい頃のことが解った。それくらいに考えて欲しい。
 私はこの手紙を書いた事でシンディに伝わるかどうかを別にして事実を書き残したという意味で何とか自分の責任を果たせたと考えている。真実と言うのは事実と違う。真実こそがリアルであり、事実は誰でもが納得できるものだ。事実は事実関係と言われるように納得や説得を必要とする。がしかし、真実は誰も納得できないような奇想天外な事が起こる。
そして、真実は歴史だ。知ったから納得できたり幸福になったりするものでは無い。それは歴史としての価値しか持たない。生きていくために必要なのは真実を受け入れる包容力と事実を描く想像力だ。それを大切にしてもらいたい。』
武志が理解できなくてシンシアに助けを求めた部分も多かったが手紙の内容はこのようなものだった。
「どう思う? 本当かしら? 同封の戸籍謄本があるから本当なんでしょうね」
シンシアが何も答えず考え込んでいる武志に聞いた。
武志は壁に掛かっている南沙織のポスターを見ながら何も話せないでいた。既にソ連領の島に行っただけで自分の理解を越えているのに、この手紙の話しは信じられなかった。
「たしかに、そこのポスターの南沙織の本名は内間明美だったと思う。でも洗礼名が一致するのは不思議だなぁ。そのへんの話しは手紙には書いていないようだけど。でもね、それを知ったからと言って別にシンシアの人生が変わる訳ではないと思う」
「私もそれは解っているつもり。だから、過去にそういう事が有ったってことで理解している。でもね、問題はタケシよね」
「なんで、僕が出てくるんだい? 別に関係ないと思うけど」
武志はシンシアの目が壁のポスターに行っているのを感じてわざとそう言った。何かシンシアは武志に優越感を持ったような口ぶりだったから。
「偶然の結果にとまどうのはタケシかもしれない。世が世ならタケシは私のサインが欲しくて楽屋に押し掛けたり。握手なんかして感激して1週間くらい手を洗わなかったりして」
シンシアは武志の手を握りながら面白そうに笑った。
「勘違いしないで欲しいけど。僕の南沙織への想いとシンシアへの想い、じゃなくて感覚かな、それは全然別なんだぜ」
「解ってるわ、そんなこと。ただ少しジョークを言ってみたかっただけ」
シンシアはそう言ってから武志の前の灰皿を引き寄せると祖父の手紙に火をつけた。それは、この事を知っているのは、そしてこれを伝えることが出来るのはシンシアと武志だけだとシンシアが決めたということだった。
「戸籍謄本は残しておいたほうがいい。これから必要になるかもしれない」武志は別に反対する訳でもなくそれだけを言った。数枚の手紙は簡単に灰になった。そこに書かれている内容には関係なく。
「最近の2年って変化が大きいなぁ。沖縄は日本に返還されたし、南沙織も新人じゃなくなったし。今は沖縄からの歌手と言えばfinger5かな。天地真理、南沙織、小柳ルミ子のトリオに替わって森昌子、桜田淳子、山口百恵。政治の世界では佐藤栄作が辞めて田中角栄、林ぴょうは周恩来に殺される。ヨド号事件、浅間山荘、そしてドバイのハイジャック」
2年と言うと武志が大学に入ってから今までだ。その期間に起こったことを武志は上げてみた。
「まぁ! タケシは年寄りみたい。昨日の事を言うより明日の事を話さない?」
「明日かい。人類は1999年の7月に滅亡するんだって」
「その時にタケシはいくつ? それまでに沢山やることはあると思うけど。私、明日から2、3日札幌に行ってくるわ」
「え! なんでまた急に。もう少し待てよ。車を友達から借りてくるから」
シンシアがこれからの予定を自分で決めているのにも驚いたが、それを自分に相談してくれなかったことにもっと驚いた武志だった。
「いいえ。私一人で行くの。何時までも人に頼ってはいけない思う。自分一人で何事もやってみたいの」
「で、それからどこかに行ってしまうのか?」
武志は心配になって聞いた。シンシアが考えている明日には自分は勘定されてないような気がした。
「何か心配なことがあるの? 私、ここに戻ってくる。そんな顔しないで」
シンシアは武志の弱気な言い方を受けとめて答えた。
「何か目的があるんだろう。隠さなくてもいいじゃないか。僕も一緒に行くよ」
「隠す? タケシに私が隠すことなんか無いわ。銀行に行くの。お祖父ちゃんの遺言よ。札幌の神戸銀行とかの貸し金庫に預けてあるものを見なさいってことなの」
シンシアは残りの手紙の束から1枚取り出して読みながら言った。
「でも、知らない所に一人で出かけるのは賛成できないなぁ。札幌に行くのは初めてなんだろう。僕が付いて行ってもいいだろう」
「駄目! 私は自分を試してみたいの。一人で出来なければ今までと同じになっちゃう。一人でできることで自分に自信を持ちたいの。あまり、言うと黙って行くかもしれないよ」
シンシアは一度言い出したら引っ込めない所があった。武志は心配だが黙って行って帰ってこないのは困る。
「解った、解った。一人で行ってくるのがいいさ。でも、まず汽車の切符を買うことからはじめなければならないんだよ。出来るかい?」
「もう買ってあるわ。でも私、汽車に乗るのまだ2回。東京に行ったとき、まだ小さかったけど、その時静岡まで乗ったことがあるの」
シンシアはバッグを取ってくると中から切符を取り出して見せた。特急オホーツクのグリーン席だ。行きも帰りも2枚づつあった。
「2枚あるじゃないか。僕も一緒に行くよ」
「また言う。隣の席に誰が座るのか解らないのは不安じゃない。変な人と一緒じゃ困るから2枚買ったの。タケシの分じゃないの」
シンシアはそう言うと武志から切符を取り上げた。
 数日してシンシアは一人で札幌に発っていった。武志はシンシアが帰ってくるまで待つ事になる。札幌に行ってシンシアがこれからどうするのかを決めてくるだろう。それに自分はどのように関与していくのか。自分はシンシアにとって全然必要の無い人間なのかもしれない。そんな不安が有った。また武志はシンシアと離れたくないがシンシアに縛られたくないと考えていた。それがわがままな事は十分知っていたが武志もまだ23歳だった。
ひさしぶりに自分のベッドで寝られると思ったが寝室は衣装ケースや鏡台なんかをシンシアが買い込んでもはやシンシアの部屋だった。薔薇の香りのコロンの匂いが漂いシンシアと一緒に寝るようで何となく恥ずかしいような気がした。結局、前と同じようにソファーになってしまった。
窓の外では台風のためか風がなり雨が激しくなってきている。何か心の隅が欠けたような気持ちで武志は三日間を過ごした。
 
第19章 海を越えて
 三日の間武志は柄にもなく実験のデータを整理したり、実験レポートを書いたりしていた。今まで、少なくともシンシアと出会うまで孤独なんて言葉は考えもしなかったが、今では誰も話しかける相手の居ない事に慣れなかった。ついつい、独り言を言って仕舞う。無駄にラジオをつけっぱなしにしたり、部屋に音が無いのが不安になったりする。
「ただいま。あら、タケシ、もう寝るところだったの?」
レポート書きのような勉強をする時はジーパンに上は素肌にパジャマを羽織るのが武志のクセだった。夜、そうしてレポートを書いている時にシンシアが帰ってきた。
「いや、まだレポートが終わらないんだ。貯めすぎたからね」
「驚いたわ。銀行って手続きとかなんとか面倒ったらないの。でも、預けておいたものはこれだったの」
シンシアは片手のアタッシュケースを持ち上げて武志に見せた。
「それからタケシにおみやげがたくさんあるの。それはこっち」
今度は反対の手の大きな紙袋を示して言った。
「私チョット着替えてくる」
そう言ってシンシアは自分の部屋に消えた。武志はシンシアの持って帰った荷物の多さに驚いた。札幌のデパートや地下街を歩き回って手当たり次第に買い込んだのだろうか。長いあいだそんな消費をあおるショーウインドウを見た事が無いシンシアとしては当然な結果かもしれない。
「タケシ、私が居なくて寂しくなかった? 話し相手が居なくて」
隣の部屋からシンシアが声を掛けてきた。
「別にぃ。慣れているから気にはならなかった。でも時々はどうしてるかな、なんて考えたけどそれもたまにさ」
武志は心の中と反対のことを言った。とても心配だったなんて言ってシンシアを抱きしめれば何か自分の価値が下がってしまうような気がしたから。
「どう、この服、私に似合ってると思う?」
シンシアは何を着替えるかと思ったら、買ってきたドレスを見せるためらしい。ドレスと言うより長い丈のワンピースで色は淡いグリーンだった。
「似合っているとは思うけど。それより、なんでこんなに買い込んで来たのかな。札幌で商品の多さに目がうばわれて、って感じかな?」
「それもあるかもしれない。でも別な目的が出来たの。タケシはそれ開けて見ないの」
さっき渡された紙袋を開けてシンシアは中身を武志に見せた。中はTシャツだった。同じのが2枚入っている。
「これがおみやげ? Tシャツ? それも2枚」
「そう、これを見るとタケシなら解ると思う。ここのマークに470って書いて有るでしょう。4・7・0がヨットの規格だってのはタケシは知っているでしょう。吹いている風より早く走れるヨット。これを二人で着てヨットに乗りたいと思ったの。それからこれ」
シンシアは袋をひっくりかえすと中身を全部広げて、その中からサングラスを取り上げると武志に渡した。
「もう夏は終わったんだよ。それに僕はTシャツを着て町を歩くようなハイティーンじゃないんだぜ」
武志は言った。
「いいの、これから必要なの。私札幌でいろいろ考えたの。そして素敵な事を思いついたの。まず、何から話そうかしら」
シンシアはこれからどうしょうかを悩んでいる様子ではなく、確実に、これからしたいことを自分自身で目標設定できているようだった。その一部がTシャツだったり、ヨットだったりするのだろう。なによりも目の輝きが目標を持った人間の輝きになっている。
「そうだ! タケシ、私の居ない間、あのベッドで眠らなかったでしょう」
「ああ、なんとなくね。あの部屋はシンシアのプライベートルームだ」
「現実ていつも上手くいかない。この手紙をベッドに入れておいたのだけれど、タケシは読まなかったんだ」
シンシアは二つに折った紙を見せながら言った
「残念ながら、あの部屋は使ってなかった。カーテンの開け締めはしたけれど」
シンシアの手もとの手紙を見ようと武志が手を伸ばしたがシンシアはその手を引っ込めてしまった。
「駄目! 本人を前にして読まれると恥ずかしいから」
シンシアはその手紙をクシャクシャにしてしまった。
「どうして部屋を使わなかったの。もともとタケシの部屋でしょう。ソファーで寝たら身体が痛いでしょう」
「でも慣れたから。それよりシンシアの計画って聞きたいな」
武志はシンシアがベッドに残した手紙に興味があった。わずか数日前にシンシアが自分に何を伝えたかったのか。それを知りたくて話題を変えてみた。
「これもまた、壮大と言うか、大きな話なのよね。買ってきた物から解るようにまず、南のほうに行こうと思うの。そこから飛び石みたいに色々な所に行く」
熱心に話すシンシアに隙が生まれた。武志はクシャクシャに丸められて手紙を素早く手を伸ばしてシンシアから奪う。
「あ、それは読まないで」
シンシアが抗議するように言う。
中は英語で書かれていた、タケシにわかり易いように柔らかい筆記体で書かれていた。
『タケシにはとても感謝している。遅いか早いかの違いはあっても、あの島での生活は何時か破局を迎えるような気がしていた。祖父も叔父もいや、家族全員が何時か沖縄に帰ることを夢見ていた。そのためには多くの時間が必要だと言っていた。私は近くの北海道の何処かで新しい生活をはじめるのが良いと思っていたのだけれど、冬の寒さには皆は耐えられないと反対していた。もしタケシが居なければと考えると恐ろしい。たぶん私たち全員が誰に知られることもなく消えてしまっただろうから。
 タケシに助けられて、タケシにお世話になって、でも私には一つお願いがあるの。私もタケシもまだ若いし、人生なんか全然白紙、無色透明。そのなかで私は今、タケシを未来の伴侶とは考えられないってこと。決してタケシの事が嫌いだと言うのではないの。たぶん、私の中に自分も含めたファミリーって考えがまだ育たないためだと思う。前にタケシが船の中で「友達のままならいいやぁ」って言った友達の話をしていたでしょう。あれって、もしかして友達に名を借りたタケシのこと? でも私のお願いはタケシが最高の友達で居てくれること。これって、わがままかしら?
 札幌でこれからの私がどうするか考えてくるつもり。そして、帰ってきたら、最初にこの部屋のドアを開けて私が部屋に入った時に、yesかnoかで私に教えて欲しい』
 内容からシンシアが本人の目の前で読まれたくないのは解った。でも武志に読んで欲しいのだろう、手紙を取り戻そうとはしなかった。
「僕も同じ事で悩んでいたんだ。シンシアは心理学を勉強しながら、今の状況を正しく判断する力が付いたのかなぁ。まるで、僕の心を読まれているみたいだ。ところで、シンシアが帰って来たときに僕がNoと言った場合、どうするか考えていた? できればそれを知りたい」
「その前に、答が先じゃない? 今、Noと言ったら態度で示してあげる」
「僕が決してNoと言わないだろうと思うシンシアの読み。でも、言葉で確認したいシンシアの不安。そんなことが解らない僕じゃない。答はyesなんだけど、noの場合を知っておきたいだけ。単なる興味本位」
「まったくタケシと話してると疲れるわ。答はyesね。じゃぁ、それを知ってからだけど、noだったら舌を噛みきって死ぬつもりでおりました」
「うーん、手首切ったりしたほうが絵になるけど。でも不思議だな、僕も同じことで悩んでいたんだよ。なんか、スッキリしたじゃないか」
「タケシ、一つお願いしていい」
「なんだ、あらたまって」
「これを見て欲しいの」
シンシアは指輪の入ったケースを開けた。透明さからダイヤモンドと解る。たぶん3カラットくらいあるだろうか。
「これが、何?」
「私、いや私たちかな。が生まれた時に二つ購入して一つを私のために保管してくれた指輪なの。将来これを売ってお金にする必要があるのか、それとも、指に着けて幸せになるのかそれは解らないけど生まれた子供のために用意したって書いて有った」
「それを僕に預けるのかい」
「もう、タケシは勘違いが多いんだから。お願いの続き。これを差しだした時に、私の指に着けてくれるのはタケシでいて欲しいの。言葉で言うと恥ずかしいから、これから先、何時になるか解らないけど、これをタケシに今度見せる時は気持ちを察して欲しいの。恥ずかしいから言葉には出来ないと思うから」
「それは、その時に考えよう。でも、指輪のサインは解ったよ。ところで、札幌では何が解ったんだい。金庫には何が入っていたんだい?」
「そうそう、その話をすっかり忘れていた。貸金庫にはこのケースが預けてあったの」
シンシアはアタッシュケースを開けると鍵を開けた。フタを開くと札束が一杯に詰まっていた。武志は思わず口笛を吹いてしまった。
「現金か、どれくらい有るのかなぁ」
「日本円なのよね。3000万円くらいかな。少し買い物に使ったけど」
「少しねぇ。でもあのお祖父さんがドルでなくて日本円にしたのが不思議だなぁ。たぶんシンシアは日本で生活すると思ったのだろうか」
「うん、それも考えた。でも私、これを生かして日本を出ようと思うの」
シンシアは買ってきた紙袋を開くとブラウスやスカートを見せた。全部淡い夏色のものだった。
「で、その目的ってなんだい?」
武志はシンシアが札幌で決めた「これから」が気になって聞いた。
「それが解らない? これだけ沢山買ってきたのはその目的のため」
「そうだなぁ。まず夏、暑い、サングラス、海岸、海水浴、そんなイメージかな。それを合わせて考えると、シンシアは沖縄に帰るつもりかな?」
「うーん。帰るってのは無いわ。もう誰も居ないもの。私は私の帰る所をこれから作っていかなければならないの。それを作るの」
「でも、当面は南方面なんだろう。この荷物を見る限り」
「そうね。これから冬になるから、当面は南って思ったのかもしれない。まずアメリカ、南に下ってチリまで、それからヨーロッパ、南に下ってアフリカ、アジアを東に進んで、オーストラリアから日本に戻ってくる。そんな世界一周してみない?」
「世界一周? なんのために。順番に話してくれなければ解らないよ。で、それに僕も行くのかい?」
「そう、最初の「私たちWe」の計画。タケシには一緒に来てもらいたいの。一緒に居ないと私の事心配なんでしょう。じゃぁ、一緒に行ってくれるわよね」
「まず、順番に話を聞かせてくれるかな。それからでも返事はいいだろう」
「じゃぁ、順番にね。私銀行で手続きして貸金庫からこのお金を受け取ったの。特にお祖父ちゃんの手紙は入ってなかった。で、銀行を出たときに自分がお祖父ちゃんの最後のこの世の足跡を消してしまったと思った。この銀行の人も貸金庫が空になって、別な人がそれを借りたらお祖父ちゃんのことは忘れてしまうにちがいない。こうやって、私の思い出の中にある人が、私の思い出の中にしか居なくなる。だんだん周りから締め付けられて縮むような気がしたの。たぶん、パパもママもだんだんそうなるのかなぁって悲しくなった。
銀行を出たら目の前に小さな公園が有ったからそこのベンチに腰掛けてぼんやりそんなことを考えていた。お祖父ちゃんも何年か前にここに来て、この景色に触れて、このベンチに座ったかもしれないと思って」
「それって、時計台じゃないのかなぁ。札幌の観光の名所なんだよ」
「ええ、白く塗られた木造の建物で、そう言えば時計が付いたみたい。観光の名所みたいで私が居る間もバスが着いてゾロゾロ人が降りたり、それからあのリュックサック背負った、カニ族だったっけ、そんな人が来たり。
 なぁにあれ、なれなれしく私に話かけて来る人達。なんか全然解ってないのに旅の途中だから相手は誰でもいいと思ってるのかしら。私、ほとんど無視したけど。
その時子供の泣き声がしたの。英語で何か叫びながら泣いていたの。見ると金髪のかなりちじれた5歳くらいかなぁ、そんな女の子が泣いて居るの。回りの人が話しかけてあやしても言葉が通じないから泣きやまないの」
シンシアは思い出すように話はじめた。
「それが、触りの部分なんだ。話は長くなりそうだな」
武志はコーヒーでもいれようと立ち上がった。
「あ、コーヒーを飲みたいのね。私が入れてあげる。私も飲みたいと思っていた所だから」
シンシアは武志の視線を追ってサイフォンを見つけて言った。テーブルの上の物を手で払うとコーヒーをいれながら話を続けた。
「それでね、女の子が英語で話すから英語で聞いてみようって2、3人の大学生みたいな人がWHERE DO YOU COME FORM、とかWHAT'S YOUR NAMEとか聞いたの。そしたら女の子は益々大声で泣きだしたの。だって、そうでしょう。大人が子供に、何処から来たんだ、とか、名前はなんて言うんだなんて、それも大声で命令調に言われたら恐くて泣き出してしまうでしょう。で、私がその子をあやして泣きやませたの。そしてその子の相手をしながらそこのがどうして泣いているか聞いたりしたわけ。その子の名前はベルンっていうの。面白いと思わない?」
「ああ、女の子の名前としてはなんか変だな。ドイツあたりの人かい?」
女の子の名前として少し変だと思ったが、ベルンに思い当たる事が無かったので、武志はそう答えた。
「そんなんじゃなくて、ベルンってスイスの首都のベルンなの。都市の名前がその子の名前なの。おもしろいと思わない?それだけじゃないの。1時間くらいしてその子の両親が戻ってきたの。父親はアメリカ人で母親はフランス人。つまり、その女の子はハーフなの。二人はアメリカからフランスへ留学したご主人と学生結婚して、卒業後ご主人の出身地のアメリカへ大西洋じゃなくて太平洋を渡って戻る計画をたてたんですって。フランスで経済学を学んだだけではご主人の望んでいるような経済アナリストになれないので、世界各国の経済をそこで生活しながら学ぶ計画なんですって。もう5年くらいかかっていて、今は札幌で英語とフランス語の塾を開いているんだって。
その子は最初に銀行の仕組みを調べたスイスで生まれたからベルンって名前なんだって。もし札幌に居る間に子どもが生まれたらサッポロって名前を付けるなんて言ってた」
シンシアはコーヒーをいれながら楽しそうに話した。
「で、シンシアはその二人に感化されて世界一周なんて考えついたのかい?」
武志にはあまり面白い話ではなかった。世界一周とか夢であるうちはまだ救いがあるが、現実に実現可能になって考えてしまう。表面的に世界を見聞することよりも自分の生活する空間をより深く知ることのほうが大切だと武志は考えるほうだった。
「感化された!? そうじゃないの、話にはまだ続きがあるの。二人は初めて合った頃は米語と仏語で、お互いに会話も出来なかったの。でも日常会話から初めて二人とも米語仏語で会話ができるようになったの。そしたらドイツ語を話す友達ができて、それからイタリア語、ギリシャ、スペインと色々な国の言葉をマスターしてたの。そこで彼らが気がついたのは、それぞれの国の言葉とともに、それぞれの国の文化が言葉の中に隠れているってことなんだって。一つの感情を表すことばがどの国の言葉でも適切じゃない。やはり自分の生まれ育ったネイティブな言葉でないと表せない。そんな事に気がついたんだって」
シンシアは話しつづけた。武志は黙って聞き役に回った。シンシアと居ると何時もエキセントリックな事が起こる。今までのわずか2ヶ月の間に起こったことを考え直すと、二度と体験できないような2ヶ月だった。そして今度は世界へ出ようと誘ってくる。
「タケシ、聞いてるの?」
あまり武志が黙っているのでシンシアが聞いた。
「ああ、聞いてる。話を続けてくれよ」
「そう。あまり気乗りしないみたいね。でもね、ここからがすごいと思うの。言葉が話せるようになったら、その国を見たくなった。少なくとも観光じゃなくてそこに住んで何故こんな表現方法にその国の言葉がなったか知りたい。そうして彼らは東に向かってゆっくり旅をしてきたんだって。私も彼らと同じように東に向かって旅をしてお祖父ちゃんの暮らしたロシア、今のソ連、そしてシルクロードを逆に辿って、最後は沖縄でゴールするような旅をしてみたくなったの。そこで何が得られるか解らないけど、なんかお祖父ちゃんの旅って日本に途中下車で完結していないのかもしれない。それを孫の私が完結した時に、きっと私の背負っている役割が果たせるような気がする。そしてその時に新しい私が始まるのかも知れない。そして、それにはタケシというパートナが必要なの」
武志は迷っていた。シンシアと海外に出れば日本に戻ってこないかもしれない。それはそれで良いのだけれど、スポンサーはシンシアで武志はボディガードのようなのが気になる。このままシンシアを一人で送り出せば、また前の気ままな生活ができる。それを望んでいる自分が居る。しかし、そんな昔と同じ事の繰り返しでは駄目だと言う自分も居る。
「タケシ、どうしたの。賛成? それとも反対?」
「賛成も反対も無い。シンシアが得られるものは解った。でも僕が得られるものは何かを少し考えたい。このまま日本に居て大学を卒業して企業に就職して、そんな人生では得られない、なにかが有るのか少し考えたいんだ」
「OKなのね!」
「違う、少し考えたいって言っているだろう」
「手が鼻の頭に行ってる。それってタケシが嘘をついている時の仕草でしょう。つまり、GOって心の中では思っているんでしょう」
「シンシア。そんな単純ではないと思うよ。もう時間も遅いから明日考えよう。僕が考える時間も与えられずに引きずり回されるのを好まない性格なのはシンシアも知っているだろう。少し考える時間が欲しいんだ」
「返事は早いほうがいいわ。でも、私、タケシが行かないなら行かない。今までさんざん迷惑掛けたのに無理は言わない」
「ああ、解った。レポートをかたずけてしまうから。シンシアも疲れたろう。先に眠っていいよ」
武志はレポートを書き終えるとソファーに横になった。シンシアの言うように、自分はシンシアと行くだろうと思っていた。ただ、それが自分が今まで考えていた人生を根底から変えてしまうことなのだと思うと決断に躊躇してしまう。でも、自分はシンシアと外国に出ていくのだろうなぁと漠然と思っていた。
日本がオイルショックで翻弄されるわずか数カ月前の9月10日の朝だった。
 
第20章 旅立ちの詩
 翌日武志はひさしぶりにシンシアの声で起こされた。
「good morning darling. it's nice day!」
「なんだい英語なんかで」
「これからタケシが英語で会話できるように、日本語は禁止。全部英語で話しましょう」
「その結論ってまだ返事してないだろう」
武志はシンシアの押しつけがましい態度に寝起きの不機嫌も含めて乱暴に答えた。
「御免。でも、どうするかは決まったんでしょう」
武志は起きあがるとテーブルの横にあるマーカーペンを引き出すと壁のカレンダーに向かい10月10日の所に大きく丸印を付けた。
「出発は10月10日にしよう。進路は東向き。パスポートとかビザとかを得なければならないけど、とにかく10月10日に旅立とう。それが僕の結論」
「ビンゴ! じゃぁまずアメリカね。私は話せるしタケシだって少し練習すればいい。そして生活に慣れたらヨーロッパに移りましょう。それより、世界でいちばん人口の多いスペイン語に慣れるのもいいかもしれない。ブラジルって日本からの移民の人も多いんでしょう。まずアメリカ、そしてスペイン語ね」
シンシアは武志が予想していたとおりだったのか、早速自分が考えていたプランを話しはじめる。
「まず、何からはじめたらいいかな。とにかく方向は決まったから全力投球と行こう」
「英語のレッスンは続けるわよ。タケシが私と一緒じゃなくてもそれぞれの土地で色々見て回ることができるためにも、言葉はマスターしておかなければ。生きるって意味より生活するって意味が大きいのだから、言葉は最低限話せなければ」
「僕の英語はそんなにひどいかなぁ。アメリカで生活することも出来ないだろうか?」
「うーん。お金を振り回せば熱心に聞いてくれる人は居るかもしれないけど。ちょっと実践向きな英語では無いわね」
「やっぱり、そうかぁ。英会話の授業の先生はドイツから来た宣教師の人で、お互いネイティブで無いからこそ通じるって感じはしてたんだけど。でも、それが英会話コンプレックスを払拭してくれたから、先生はいいひとなんだけどね。これからは、寝言も英語で話せるように特訓しなきゃ駄目かな。シンシア先生、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「難しい言葉を使って煙に巻こうとしても駄目。まず、寝言で英語より、寝言みたいな英語から直しましょう」
「きついなぁ」
 武志は食事が終わると旅行代理店へ出かけた。パスポートとビザの申請について教えてもらい手続きを行った。さすがパスポートとなると市町村扱いではなくて道庁扱いなことが解ったりした。大学の研究室の教授にも休学や留学が可能か相談に行った。知床でのキャンプからの一連の流れを(必要ない部分は隠して)話すと教授も力になってくれるようだった。
本屋に寄って『100万人の英会話』てな本も買った。内容をパラパラ見てみると、自分が知っている英会話から見ると乱暴で粗野な感じがしたが、これが今のアメリカでの英会話なのかもしれないとシンシアの話に納得したりした。
 改造中のオートバイは、アパートは、観光ビザだけでその国にどれだけ滞在できるのか、金は十分にあるのだろうか、その金を外為法違反覚悟でどのように持ち出すのか。自分で決めた1ヶ月は少なすぎた。とても全部解決できそうにない。
 しかし、目標が困難であれば困難な程、武志は挑戦したくなった。今までの自分の生活を考えるとチャレンジすることは全て自分だけの世界だった。違法であっても、狩猟免許なんかは自分中心でエアライフルの資格の延長線上で免許を取得した。実際には違法だがライフルを入手していたのだが。でも、パスポートとなるとやはり国の証明の範疇で、相手のある場面である。それが目標達成に必要なら相手に合わせてでも取得しなければならない。そんな事に携わるのは初めての経験だった。
 シンシアのパスポート取得はさらに大変だった。シンシアは1週間沖縄を転々としながら戸籍抄本とパスポートを取得してきた。
「これが戸籍抄本なのね。手に入れるの大変だった。前にタケシが「俺たち結婚する時に必要なんだぜ」って言ってた書類がこれなのね」
シンシアは苦労して取得した戸籍抄本を武志の目の前でヒラヒラさせながら言った。
「そんな事、言ったかなぁ。でも、それが有れば運転免許とか大学受験とかとにかく今までシンシアは「何処の馬の骨とも解らなかった」のだから、立派な日本国籍を持った人間に証明されたってこと。もちろん、僕はそんな紙切れに頼るような考え方は無いけどね」
「前にタケシに言われて、この戸籍抄本を手にした時に、あ、タケシとの間がまた少し近くなったと思ったの。でも「少し」ね」
シンシアは自分が普通の国民に近づいたのが嬉しいのか、はたまた、自分が自分で戸籍抄本を得るために走り回った経験が自信につながったのか、少し大人になったように見えた。
「僕たちは世界に出たら日本代表って肩書きを背負うのだから、シンシアが日本国からお墨付きを得たってことはすばらしいと思うんだ。良く頑張った」
「この紙があったらタケシと結婚できる可能性が、あくまで可能性だけど、これがあるってことね」
「そんな紙が無くてもいいのさ。そもそも、それは最高の友達ってことで封印したよね」
「そうね、ただ、戸籍って不思議。私が私なのを誰かに証明してもらうなんて、なんか不思議」
「明日から横浜に向けてのバイクツアーだから。荷物の整理は今日中にしておこう。ただ、その戸籍抄本は持っていこうぜ。何時か解らないけど、今日の今をその書類を見て思い出せるために」
「タケシは何故私を抱こうと思わないの。これだけはこれから外国に行く前に聞いておきたかった」
「最高の友達と思っているからかな。前に言わなかったかなぁ、女性でも男性でも最高の友達には性別は関係ないんだ」
「それって、我慢してるってこと?」
「全然違う。前にシンシアの手紙の中に有ったファミリー感覚を僕は今シンシアに持っているんだ。前にシンシアを妹として受け止めるなんて言ったけど、今の僕にはシンシアは家族なんだ。だから恋愛の対象としてシンシアを今は考えていないのかもしれない。それにアメリカに行ったら攻守逆転でシンシアが居ないと街を歩けないかもしれないし。だから、しばらくは最高の友だち」
「私って、一番望んでいる人と出会ったのね」

 やっとたどり着いた。そんな感じだった都内で数回道に迷い時間までに着けるかどうか心配したが、「積載荷物は前日の17時まで受付」に30分の余裕を残して間に合った。
短かった1ヶ月に一つの区切りが付いた。10月9日午後4時30分。場所は横浜の第二桟橋だった。
「ラッキーだったな、昼食の時は十分間に合うと思っていたけど、交通渋滞があれほどすごいとは思わなかった。もしかしたら駄目かななんて本気で思ったよ」
武志はこの1ヶ月の習慣で英語でシンシアに話しかけた。
「そうね。私は後ろでキョロキョロ回りを見ているだけだったけど、タケシが同じ所を二度も走っていると思うより、東京って同じようなビルが多い町なんだって勝手に思っていた」
シンシアはヘルメットを脱ぐと軽く頭を振って長い髪を下げて言った。
「荷物の手続きをしてくるけど、一緒に行くかい?」
「もち、OFCOUSE」
シンシアは日本語と英語のチャンポンで答えた。
1ヶ月の間喧嘩も英語でしたくらいだ。なんとなくシンシアの日本語が耳に付く。武志は乗船予定の船のデッキから身を乗り出している船員にオートバイの積み込みは何処で手続きするのか大声で聞いた。
その船員は武志が英語を話したり、オートバイを自分の船に積み込むことを知って驚いたようで、親切に下まで降りてくる。
「この船の乗客なのか? このバイクも載せるのか? 何故アメリカへ行くのか? バイクのディーラーなのか?」等を立て続けに聞く。
そしてバイクを見ると「Oh!HONDA」と言って大げさに口笛を吹く。
 武志はシンシアと相談して外国でもアクティブに動き回るための足として新しくこのホンダのCB350を購入した。武志はYAMAHA党で4サイクルエンジンには乗ったことが無かったが外国ではホンダのディーラなら沢山あるし、350ccならいざ故障となっても自分で修理することもできる。2サイクルは故障が少ないが、そのかわり故障すると部品が無ければ修理不能でなかなか厄介な面がある。それにホンダの世界での知名度は高いので自分達を覚えてもらうのに好都合だ。。まだ、降ろしてから1週間程で新品同様だ、東京で初期点検を終えたばかりだ。
船員はバイクに触ってみたいのか自分でバイクを押してくれた。
「アメリカに行って何をする? レースか?」と聞いてくる。
「いや、ホンダでアメリカ一周旅行というタイトルで雑誌に記事を書くことになっている。僕はライダーとメカニック、彼女が記事とカメラを担当する」
武志はシンシアが肩にカメラバッグを下げているのにヒントを得て、そうでっちあげた。
「そうか。アメリカは広い。しかしこのバイクならアメリカの全部を回ってもまだ世界を一周するくらいの力は残っているだろう」船員はガソリンタンクを叩きながら行った。
『本当はそのつもりさ』武志はシンシアに向かって日本語で小声で言った。それにしても出発前に既にホンダの名声は海外で高い事が解った。バイクはホンダ、ラジオはソニー、車はダッサン(ダットサン)と本に書いて有るがどうも本当らしい。
 この船は太平洋を中心にシスコ、ロス、ハワイ、神戸、横浜と巡回航路にしている貨客船だ。客は20名程乗るらしい。倉庫に行くと既に貨物の積み込みは終わり、客の物も積み初めていた。
「予定に変更はありませんか?」
「ええ、明日の朝10時に出航です。遅れないように9時までに乗船しておいてください」
日本人の社員が教えてくれる。
 金もパスポートもビザも予防注射も既に済ませてある。外貨はすべてvisaのクレジットにしてある。特に多額の現金を持ち出す必要は無い。しばらくしたらアメリカでドル口座に移し替える予定だ。
あと、明日までに二人がしなければならない事は無い。倉庫を出て桟橋を歩いているともう太陽はスモッグの影に隠れていた。
「小さい船ね。本には太平洋では小山のような浪がくるって書いてあったけど大丈夫かしら。やっぱり飛行機のほうが良かったんじゃない」
シンシアが明日乗る船を見ながら心細いらしく、また飛行機のことを持ちだした。二人はアメリカに渡るのに交通機関を何にするかで長時間話し合っていた。武志は100年前に太平洋を船で渡ってアメリカにたどり着いたように、太平洋の広さを体験してこそ日本とアメリカの距離がわかるし、太平洋を渡ったって経験がこれから先々で生かせると思った。シンシアは一気にアメリカに入るほうを選んだ。結局、地に足が付いた体験を前提に必要最低限以外は航空機を使わないで日本に戻ってくる。そんな暗黙の了解をこの旅では続けようとの結論になった。
 武志は子供の頃に読んだ、堀江謙一氏の「太平洋ひとりぽっち」をたとえ船の乗客としてであっても体験したかった。時間に追われる旅行なら別だが今回は自分の目で足で知ることを大切にしたいと思っていた。
「北見からここまでバイクで来るよりは安全だと思うよ。途中結構危ない所もあったし。この船でアメリカに渡った人の数より、北見からバイクで横浜に来た人のほうが明らかに少ないと思うし」
「これからどうするの、日本で最後の夜を?」
「そうだなぁ、まず日本語で話すことにしようか。それから東京に戻ってどこかのホテルに部屋をとって、明日7時にはこっちへ向かう。だから逆に明日の7時までは東京に居る事にしよう」
 東横線の駅まで歩くとまっすぐに東京へ向かった。武志の高校時代の友達が2、3人東京の大学に通うために下宿している。その友達の案内でどこか面白い所に行けるかも知れない。どちらにしても武志は東京で食事する場所すら知らないのだから。
ホテルに部屋はなかなかみつからなかかった。明日は体育の日で休日のためか2、3日前からホテルは予約で一杯のようだった。
結局JTBの窓口で中野にあるホテルを探してもらった。部屋に入って一息入れた頃には時計は7時を回っていた。武志は東中野に下宿している友達に電話する。
「あれ、松任谷か、いま東京に居るのか? 前もって知らせてくれれば予定を合わせたのに」
高校時代の友達のTが電話で連絡できた。話ぶりはいつもの調子だった。
「しばらくぶりだな。今年の夏休みに合わなかったから正月以来かな」
「そんな所かな。実は俺は今日バイトの日なんだ。で、今から出かける所。フジテレビの夜のヒットスタジオって知ってるだろう。俺あそこの番組の助手みたいなアルバイトやってる。そこで落ち合わないか。どうせスタジオでは番組が始まったら時間があるし」
Tはバイト先で落ち合おうと言った。
「そうかぁ。無理してでも今日合わないともう会えないからなぁ」
「もう会えない? 何で?」
「ちょっと外国行くんだ」
「え! なんで急に・・・。ま、話は後にしようバイト先ではガードマンに名前を言ってくれれば入れるように話しておくから」
T達スタッフが入る入り口を教えてもらい結局テレビ局のスタジオなんて変な落ち合い場所でTと会う事になった。
 二人はスタジオの隅でTの仕事が終わるのを待つ。シンシアはつまらなそうにしていたが、武志は見るものどれでも珍しくスタッフの邪魔にならないようにあちこち歩き回る。Tからゲストの名札をもらっているので、スタッフにはスポンサー関係の客と思われているのかもしれない。そのTもシンシアと二人で現れた武志を見て
「うん、事情は解った。俺は二人のベースキャンプの役だな。外国から日本に連絡を取りたい時は俺を使ってくれ。日本に誰も居ないのじゃぁ帰ってくる気が無くなるといけないからな」
武志の漠然とした話を聞いてTは自分に会いたかった理由を察して言った。
「ただ、2年したら俺は商社マンとして逆に外国に追いかけていくかもしれないからな」
とも言った。何時も頼りになる友人だった。
「タケシ、おなか空かない。日本の地面での最後の夜じゃない。何処かでお寿司でも食べましょうよ」
放送機材に興味が無いのかシンシアが退屈して言った。Tの仕事が終わるまで待とうと思ったが、Tは番組の打ち上げなんかが有って二人に付き合うことが出来ないと言っていた。
「シンシア、君はもう一人の自分に会ってみたくないかい」
「どうゆうこと?」
「さっき、今日の出演者リストを見せてもらったんだけど、そこに南沙織が載っていたんだ。このまま待っていると見る事ができるよ。君の妹に会えるんだよ」
「会う!? 会いたくないわ」
シンシアは特に興味が無い様子だった。
「だって、私は私し、彼女は彼女。もう他人になって長いし、まさか私があなたの姉ですって名乗る意味も無いし」
「でも血がつながっているんだろう。この世で二人だけの姉妹じゃないか」
「違う!血なんて関係ないわ。日本ではハーフの事を混血って言うでしょう。血ってBLOODよね。でも英語では混血なんて言わないでハーフブリードって言うのよ」
「つまり、動詞になるってことかい?」
英語で話していたので、回りが仕事の手を休めて二人に注目している。
「あ、日本語で話そうよ。目立つから」
「解ったわ。タケシの英語の先生としてチェックね。BREEDってのは出血って動詞じゃなくて、育てるって意味なの」
「と言う事は、英語でハーフって意味は血が混じる、混じるは変かな? じゃなくって半分ずつ育てるって意味だってこと?」
「そう、血液って言うか血ってOとAとB、ABって血液型に分かれるけど、育つ環境って意味では様々でしょう」
「姉妹でも日本人の考える血のつながりなんて感覚でなくて、どのように育ったかが重要だってことかい?」
「もちオフコース。タケシは会わせたいと思っているかもしれないけど、それって、小さな親切大きなお世話なのよ。私にとっても彼女にとっても辛いだけなの。だけど他人からは面白いかもしれないけど」
『はい、本番30分前』スタジオ内にアナウンスがあった。同時に番組の観客が扉が開けられると前の席に座ろうと必死になっている。
流れに逆らって二人はスタジオを出た。武志はTに『またな!』とサインを送る。それだけでTは解ったようだった。
人の流れに逆らって二人はスタジオを出た。まず、このテレビ局を出なければならないのだけれど、廊下が複雑で迷ってしまう。
「日本最後の日なのにケチが付いてしまったかな。ごめんね、良く考えたらシンシアが言うとおりなんだろうな。悪い勘違いをしたみたいだ」
「あやまる事は無いわ。あそこを見て」
シンシアは廊下の先を示した。二人は間違って楽屋の方へ歩いてきたようだ。そう言えばさっき桜田淳子とすれ違ったような気がする。廊下の角から歩いてきたのは南沙織だった、マネージャーらしい男が横に居る。
「引き返すか?」武志は気になって聞いた。
「いいえ、会うって言うより、見るじゃない。逃げる事は無いわ」
シンシアは大事な時は英語になる癖があった、今度も急に英語で話した。
二人はすれ違った。只それだけだった。シンシアが振り返ると向こうも合図したように振り返った。二人とも微笑んだ。
シンシアは軽く手を上げて「GOOD LUCK!」と言った、南沙織も「Thank you and you SO.」と答えた。そして急に英語で答えた自分が不思議だというような顔をした。武志は、見るじゃなくて会ったってことかなと思っていた。ただ、二人は余りにも育った環境が違いすぎた。
角を回って見えなくなるとシンシアは声を出して笑った。
「おかしいわ。何か私が彼女に乗り移って、私が彼女になったみたいで。タケシには二人に見えたでしょうけど私、なにか自分が二つになってすれ違ったような感じ。不思議な感覚だけど、それでお仕舞い。やっぱり私は私だわ」
良かったのか悪かったのか武志には解らない。しかし、たぶんこの二人はお互いもう一人の自分を意識しながらも二度とすれ違う事がないのではと思った。

 錨を引き上げる音とその鎖を洗う滝のような海水の音が流れている。船員のかけ声がここのデッキにも伝わってくる。船はゆっくりと桟橋を離れた。エンジンの震動が急に強くなったと思ったら船はタグボートから離れて自力で走りはじめていた。ボーォ、ボーォと汽笛が鳴るのが船が陸地に別れを告げているのと同時に、自分は海の中で自力で走る本来の船に戻りつつあるのだと誇らしげに叫んでいるようだった。横浜の港が遠ざかっていく。
「ついに出発ね。1ヶ月の間、このことばかり考えていた。私、汽笛が鳴って船が桟橋を離れるときに泣き出すかもしれないと思っていたのに」
「何故そんな風に思ったのかなぁ」
武志はシンシアの肩を抱き寄せながら言った。
「だって・・解らないけど。たぶん、この国は私の故郷になるんだろうなって思ったから」
シンシアは船の手すりに手を当てて遠くを見ながら言った。そこにはさっき出てきた港が小さく見えていた。
「タケシ、今、なに考えているの?」
しばらく沈黙が続いたあとでシンシアが言った。
「そうだなぁ・・日本について? なんて言ったら大げさだけど、とにかく自分が22年間住んでいた自分の国、そして土地、地域、回りに居た人々。オートバイで走り回った山道。スピード違反で捕まった白バイの巡査。それから雪かな。今度は何処で雪を見るだろう。コートを着て手袋して寒そうに歩くシンシアってどんなかな。そんなこと考えてる」
「雪? タケシは雪が好きなの?」
「シンシアには解らないだろうなぁ。北国で生まれ育つと子供の頃から毎年ある初雪。ある日突然昨日までと全然違う風景が始まる。純白の世界。冬が近づいて寒い寒いと思っていても雪が降ると安心する。寒さは辛いけど、そのかわり雪景色をくれる。寒さだけではなんか損した気分。それが雪の正しい楽しみかた」
「タケシは意外と詩人な所があるのね」
「意外にはよけいだよ。で、シンシアは何を考えていたんだい」
シンシアは目を海に移した。遠くを見るようにしていたが急に伸び上がって笑顔になると。
「私、船酔の心配していた」
武志にはそう声に出すシンシアの辛さが解った。
「船酔の心配だなんて、嘘つきだなぁ」
笑いながらシンシアを抱きしめる。もっと強く抱きしめたいと思った。力いっぱい抱きしめてもまだ足りないような気がした。離れるとシンシアは泣いていた。
「泣くなよ。泣く事は全部あそこにおいてくるって言ったじゃないか」
武志は船尾の陸のほうを指して言った。その言葉どおりスモッグに隠れている。
「馬鹿、鈍感。こうやって二人で出発出来た事が嬉しくて泣いているのに」
シンシアは武志の腕をとると言った。その長い髪が潮風に揺れている。それは、初めてボートで島に向かった時と同じだった。
「船首のほうに行ってみましょう。タケシはこんな話知ってる? 幸せは風の吹くほうからやってくる」
「初めて聞いた。でもそうかもしれない。幸せはあっち、この船の先のもっと先に待ってるのかもしれない」
ボーーーーッ。汽笛が再度大きく鳴った。それは港横浜に、そして日本に別れを告げる合図だった。

第一部 北海道編      完

 
追記 潮風のメロディによせて 2000年2月の追記
A4のノートに140枚程のボリュームがあり、いちばん量の多い小説になっている。
書きはじめた時の構想は恐れ多くもヘミングウェイの「老人と海」の青春版みたいものをオホーツク海の自然をバックに書けないだろうかと思っていた。公開は出来ないが、結構感情的で長文の編集後記がこの小説には付いている。
南沙織とからめたのはまったくの遊び心からだった。本当は祖父の遺言にソ連(今ではロシアに国名も替わったが)に残した財産の発掘があり、これを実行すべく極寒のシベリアに渡る話にしたかった。しかし当時ソ連の情報を入手する技量は無かったから、南沙織を持ちだしたのだった。
30年を経て、改めてキーボードから当時の文章を入力しながら思うのは、やはり北海道はこれくらいの荒唐無稽の話が許される自然環境にあるのだということ。
 改めて黄色くなった作品ノートを読むと、初めて一人暮らしをした北見市のアパートで時には徹夜してこの作品を書いたのは、ここを第二の故郷とする一員に加えて欲しいという、学生というテンポラリーな住民だった自分のささやかな願いだったのではと30年を経て振り返る。
完 1977.05.10
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