死のドラマ


 仕事柄否応なしに毎年何人かの患者さんの臨終に立ち会います。結果としての死は、誰も同じですが、死に至る過程というものは様々です。生から死への境目、そこにいろいろなドラマがあります。
 何をもって死とするか、その定義には議論があることはご存じの通りです。脳死か心臓死かという議論があります。脳死の患者は例外なくいずれ死に至るので、脳死をもって死と定義しようというものです。個人的には脳死と「正しく」診断されたのであれば、死としていいと思っています。ただし、心臓が動いているのに死と判定するのに抵抗を持つのもよく理解できます。移植医療に直接関係のない、私の病院のような所では、心電図がフラット(電気的にも心臓が活動していないことを)になっていることを必ず確認します。一般の病院でも、自発呼吸がない、心停止している、脳の反応がないことをもって臨終としています。では、心臓が止まっているということは死としていいでしょうか。否です。数年前貴重な死の現場に立ち会うことができました。
 筋ジストロフィーで心不全が高度な患者さんが、まさに死を迎えようとしていました。ベッドサイドには両親がいて、心電図のモニターが止まりゆく心臓を示していました。心電図がフラットになりました。つまり心臓は止まって、電気的にも活動していません。しかし、意識はまだあるのです。普通心停止するようなときは、意識がとうになくなっているのが普通であり、心停止しているのに意識がある患者は初めてでした。
 すぐに心マッサージをします。すると薄れかけた意識が戻ります。数分間のことではありましたが、確かに心臓は止まっていながら意識があったのです。両親もいたたまれず心マッサージをします。涙が患者さんの胸に落ちます。モニターはフラット。警報音だけがむなしく鳴り響いています。眼を見開いた患者さんが何かを言おうとしています。両親は泣きながら患者さんに声をかけます。そのとき患者さんの口からは、「ありがとう・・・・」とはっきりと言葉が発せられました。それを最後に意識はなくなりました。二度と眼を見開くことはなく、心マッサージの手を休めました。瞳孔の反応はなく、臨終を宣告しました。
 医師として10数年、こんなにすばらしい死の場面に出会えたことは幸福でした。ご両親はすばらしい人でした。自分の身を削ってでも患者さんのためにつくしました。いや、自分の子供以外の患者さんにもつくしました。そんな両親の子ですから、その患者さんも決して愚痴は言わず、最後まで気丈に病気と闘いました。こんな人たちに神様が奇跡の一瞬を与えてくれたのかもしれません。


1998年12月