村上さんのページ 感想編3

「蛍・納屋を焼く・その他の短編」

「蛍」

「蛍 」、この作品はどうしても「ノルウェイの森」の為の習作的な感じが強くてついついノルウェイの同じくだりの部分と比較してしまいます。私は個人的にはノルウェイの方に想い入れが強いせいか、どうしてもノルウェイの一部を切り取って、それから余分な部分を削ぎ落として収載したように思えてあんまり強い印象がないんですよね。内容的にもノルウェイの方がより細部まで味付けがよくされていて話に奥行きが出ていると思います。もちろんノルウェイよりも先に「蛍」を読んでいたらもっとインパクトがあったと思いますが・・・・。
 そんなわけで、「蛍」を読むとすぐにノルウェイを読み返してみたくなります。【わぞ】

「納屋を焼く」

れ結構好きです。この手の話を語らせたら村上さんは日本一ですね。「他人の納屋を焼く」という犯罪行為でありながら、村上さんの手にかかると不思議と現実感が希薄になり夢の中の出来事のように思えてきます。おそらく「納屋を焼く」という行為の犯罪性については、ほとんど無関心を装い、それを「彼にはあって僕にはない」奇妙な性癖ぐらいのものとして語っている独特の語り口ためなんでしょうね。そのせいか私は、「彼」に対して不思議と悪い印象を持つことができません。むしろ「彼」が「ダンス・ダンス・ダンス」の五反田くんの姿にたぶってきて好感すら抱いてしまう程です。そう考えてみると「僕」と「彼」の前からある日忽然と消えてしまう「彼女」がなんだか「キキ」とダブってくるように思えてきませんか? 「納屋を焼く」の「僕」「彼」「彼女」の関係は「ダンス・ダンス・ダンス」における「僕」「五反田くん」そして「キキ」の関係を私に思い起こさせます。
 それにしても、「納屋を焼く彼」そして「納屋を焼かない僕」、この両者の行為そのものには、はっきりとした違いありますが、その両者隔てる本質的な違いって一体何なんでしょうね。読み進んで行けばいくほど私はこんな思いに混乱させられてしまいます。私にとっては、なんだかもやもやとした消火不良な気分にさせられてしまう、それでいて妙に心に引っ掛かる短編です。【わぞ】

「踊る小人」

ーん、困った困った。なんとなく御伽噺風というか、或るいは寓話的とでもいったほうがよいのか、でもそのわりにその手の話に付き物の教訓臭さい何かを暗示させるところもないしと、個人的にこの手の話はコメントが付けにくいですね。(なんだかひどい文章)
 でもなぜ象工場なんでしょうね?村上さんの作品の中には、引取り手のない象が動物園から突然消滅してしまう話もありましたが、村上さんにとって「象」ってなにか一つの特殊な世界を象徴するシンボリックな動物なのでしょうか?
 確か読んでないけど「象工場のハッピーエンド」って文庫も出てますよね。今度買って読んでみようと思います。果たして私の謎は解けるでしょうか?【わぞ】

「めくらやなぎと眠る女」

か友人の彼女を見舞いにバイクで病院にいくくだりは「ノルウェイの森」にも引用されてますね。この短編集は村上さんの長編小説のいろいろなエッセンスが随所にちりばめられているように感じます。【わぞ】

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」

者としてのボクにとって「世界の終り」は深い悲しみを湛えた呪縛だ.呪縛から解放される方法はこの本を読み「僕」へ感情移入するとき,完全に失われている.ただ,ボクが「鳥」となって壁のこちら側とあちら側とを行き交うことができれば,壁を越え死を超越し空高く浮遊することができるのならばその範疇ではない.けれど,この本を読むボクが「僕」になり,この「世界の終り」で生きる時「世界の終り」から解き放たれることは完全にない.何度読み返そうとも,ボクは「僕」になって「世界の終り」に残ることが決められている。

 数多くの午後がこのように過ぎ去っていくのだ、と僕は思った。高い壁に囲まれたこの街の中で、僕に選びとることのできるものは殆ど何もないのだ。

 『大佐』の章,この終結部分を読むたびにボクは深い悲しみに満たされる.「選びとること」を放棄させられた者,理不尽な力で。

 けれども,「僕」はなんとか「世界の終り」という「影(自我?)」を切り放された世界から,「影」と共に脱出しようと試みる.そのために,「世界の終り」の地図を作り出す.しかし,地図作りの目的で壁沿いに歩いているうちに雪が降り,冬が来て,「僕」は高熱を発してしまう.朦朧とした意識の中,「彼女」の「僕の手を握りしめ」ながら「まるで遠い闇の奥から長い時間をかけてやってきた」ような「言葉」が,僕の耳に届く。

 お眠りなさい

 この言葉も,やはり悲しい。なぜかというと「僕」が「選びとることのできるもの」の「殆ど何もない」という僕が認識した事実が,再び彼女の口から優しく繰り返されていると思うから。「貴方に選びとることができるのは,ここにとどまってなにも選びとらないということだけなのよ」と。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」.この世界はボクの日常生活に重なりつつ読み進む。けれども,「私」は「ハードボイルド・ワンダーランド」において,苦痛や怒り,そしてかすかな愛とほのかな優しさに寄り添われながらも,自分が望んだはずもない「世界の終り」への道行きを余儀なくされる。「私」は「世界の終り」に自分の意志とは無関係に運びゆかれてしまう。「世界の終り」に自分が吸収され,「ハードボイルド・ワンダーランド」に存在する自分が消滅してしまうことを強引に受け入れさせられるのだ。

 読者のボクは現実生活の中で時に選びとり,時にさまたげられ,その繰り返しの辛さのなかでなんとか生きているし,その限定された可能性の中に,できるかぎりの自由を追って生きている。時には,ボクが選びとったと思ったものも,本当はそうでなかったことに気づいたり,失われもするだろう.けれども,ボクは自分の意志で何かをつかんで行こうともするのだ。しかし,そのように生きていくとしても,最後に人に残された可能性が「死という絶対的な喪失」だとするならば、この「世界の終り」は「完全なる喪失」の世界だといえる。

 再びこの本の中に入るとき,読者のボクはこの「完全な喪失」「世界の終り」に存在している。そしてそこへいたる現実の世界「ハードボイルド・ワンダーランド」を歩く(読む)「私(現実のボク)」をその位置から見るしかない。常にそのように「世界の終り」にボクの心は占領される.この呪縛から逃れることは不可能だといってもいい。この作品において,ボクの心は「世界の終り」の「僕」のように「世界の終り」に生きることしか許されていないかのようだ.そして,その「世界の終り」にいる読者のボクは「世界の終り」に至るボクを含めた現実のすべての人間,またあらゆる意味ですべての存在の悲しみを「ハードボイルド・ワンダーランド」の中に生きる「私」に投影する。

 『ハードボイルド・ワンダーランド』最終章の終結部分

 私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。

 失われたものが「世界の終り」に至ることによってやっと取り戻されるとき,「私」は既に「ハードボイルドワンダーランド」にはいない。「ハードボイルド・ワンダーランド」という世界をまるごと失ってしか初めて何かをとり戻すことができない「私(現実のボク=人間)」。でも,その「私(現実のボク=人間)」を「(「世界の終り」に行き着き存在している)僕(読者のボク)」はとてもいとおしく思う.「世界の終り」という完結した世界から見返すたびに,「ハードボイルド・ワンダーランド」とは,とても悲しくでもとても美しい世界だと感じながら。【まこと】

初にこの作品を読んだのは20を過ぎたばかりの頃(だったと思う)。そのころ、この作品に何を感じたか、今となってはわからない。まめに記録をつけておけば良かったなぁ。と少々後悔した。ミステリに関しては”日記”にちょこちょこ記載があるのだが村上作品に関しては、書いた記憶がないので、きっとないのだろう???

 ”ハードボイルドワンダーランド”の最終章は哀しみに満ちていて、どうにもやりきれない気分になってしまって・・・、こんなのってあるのか〜〜〜!!!と叫びたくなった。ハッピーエンドが好きな僕には辛いラストだ。

 結局、このラストはどう行った結末になったのだろうか?
 影を失った僕は”世界の終わり(第三回路)”で完結した世界の森の住人として、苦悩の日々を送り、影(心)は”ハードボイルドワンダーランド(第一回路)”に戻り、私は深い眠りから覚めて、残りの人生を送る・・・、と、こうなったのか?
 どのように考えても、ババを拾うモノが出来るこのラストの構造は、残酷だ!

 どうも私の頭はこの小説を深く考えるのには向かない。ただ、この作品の余韻に浸っている方がよさそうである。【11】

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