村上さんページ  感想編2

「羊三部作について」

70'sコンプレックス〜80'sから見た「〈鼠〉三部作」

0年代も終りになって生まれた私にとって、村上さんたちが熱い青春を送っていた「時代」の記憶は何もない。そして、特に意識して小説を読んでいたわけでもない私が、村上さんの作品に出会うのは、やはり「ノルウェイの森」がブームを巻き起こしてからである。そんな遅れてきた村上ファンは、遡って、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」のいわゆる「〈鼠〉三部作」を読んでいくことになる。

 「ノルウェイ…」ですら「読みやすい」と言われていたその世界は、もっと読みやすかった。なぜだかは未だにはっきりとは分からない。けれどとにかく読んでいて心地よかったことは多くの人が指摘するとおりである。それは70年代という時代を経験していないから味わえないというものではないらしい(むしろ経験していないほうがいいくらいなのだろう)。

 改めて三部作について書くに当たって、やはり他人の感想というものが気になる。「HAPPY JACK〜鼠の心」というエッセイ・評論集があるが、そこに書かれている文章(それはたぶん世代的には村上さんに近い人達の文章だと思う)を読んで、この三部作が実に複雑な感情なり感想を呼び起こすことに驚いた。多くの文章のうち半数は私には理解不能で、理解できる文章についても最後まで読まないと(あるいは最後まで読んでも)、好きなのか嫌いなのかが分からない、非常にアンビバレント(ambivalent)なものが多かった。

 その時代にかかわっていない私は、同じ「歳」の人間として「僕」や「鼠」に共感はできても、決して同じ「年」に生きた者としての共感はできない。どんなに想像してみたとしても、それは実感としては伝わってこない。「羊をめぐる冒険」の最後で「僕」は浜辺で涙を流すけれど、私は涙を流せない。その度に私はちょっとしたコンプレックスを味わうことになる。どうして泣けないのだろう。それはその時代に生きた者だけの特権なのだろうか。それともただ私の心が乾いただけなのだろうか。
 「風の歌を聴け」の頃の「鼠」のような、議論をふっかけて楽しむような友人が私にも一人いる。とても気が合う一方で、まるで自分の裏返しのような性格だと思うことがある。もし彼が自分を突き詰めた挙げ句、そのまま帰ってこなかったとしたら、私は泣くだろうか。私にはよく分からない。でも私は決して自分を冷たい人間だとは思っていないし、涙を流せることだけが哀しみなのだとも思っていない。

 村上さんの作品は乾いていると評されることが多いが、表面的にはとてもドライなように思える「僕」の底にあるヒューマニティに共感できなければ、こうして今まで村上さんの作品を読み続けることはなかっただろう。
 そして、その裏返しとして襲ってくる虚無感を、シュールな登場人物や、時にダダとも思えるような比喩でもって掬い取ってくれるのも村上さんの作品ならではだ。それはさりげないユーモアなんだから、嫌いなら嫌いでいいけど、何も目くじらを立てて論じるようなことじゃないと思う。

 そんな私にとって「〈鼠〉三部作」は、「僕」のモラルに律せられた、純粋なファンタジーである。一般的には「鼠」とその時代に捧げられたレクイエムということになるのかもしれないが、私には「僕」の時代をくぐり抜けていく動きのほうが印象的だった。それはそのまま「ダンス・ダンス・ダンス」へと続いていく。
 近作の「ねじまき鳥クロニクル」は、ストーリーはより非現実化してきた反面、描写など文章のテイストはかなりリアルだった。主人公のスタンスは積極的かつ攻撃的になり、ファンタジーというには重い作品になっている。そういう作風の変化の中で、90年代の「僕」と「鼠」の物語も読んでみたいと思うファンは少なくないだろう。

 今まで、村上さんの作品はとても個人的なもので、誰しも自分だけが本当の理解者だと考えているんじゃないかと思っていた。特に私のようなコンプレックスがあると、実は自分の読み方は間違っているんじゃないかと恐れていたりもした。けれども、実際にはこれだけ時代を超えて、いろんな読み方を許容する懐の深さを持っている、それはこうしていろんな人と村上さんの作品を語るようになって気が付いたことの一つである。【ねじ】

「カンガルー日和」

「4月のある晴れた朝に100%の女の子に出会う事について」

は女の子の好みを一口では説明出来ない。ゆっくり食事する子とか、髪の長い子とか。だから今までは聞かれる度に「君のような子だよ」「リー・トンプソン」などと適当に答えていた。僕にとって100%の女の子っていうのは一体どんな子なんだろうか。限りなく100%に近い子はいたと思うけど、本当に出会うのは一体いつになるんだろう。その時は、この話を上手に出来るだろうか?【本間】

「ハート・バカラックはお好き」

章によるイメージの喚起という現象は僕にはよくある。従って、手紙を読んだらかりっとしたハンバーグが食べたくなった主人公の気持ちはよく分かる。僕は何かの小説にトーストやフライドチキンやピザが出てくるとどうしても食べたくなることがあって、年に何回かはトーストを一回に6枚食べたり、宅配ピザのLサイズを一人で食べたりする。味はともかくとして。
 26年しか生きてなくても、今までの人生には結構選択肢があった。深刻な物もどうでもいい物も含めて。ちょっと弱気になっている時は、あの時こうしてたらと思う時もある。どうなってたかなって。きっと、それで上手くいっていた時もあるだろうし、やっぱり駄目だった時もあるだろう。そういう事を考えていると急にしばらく連絡していない友達の事を思い出したりして、電話してみたりする。
 たまには少し過去を振り返ってみるのもいいかもしれない。【本間】

「眠い」

婚式ってみんなどこか似ている。顔ぶれも大体一緒だ。20代ばかりとか、女性ばかりだという結婚式なんて見たことない。結婚式に出るといつも眠くなってしまう主人公の僕は、退屈なスピーチを聞きながら考える。ただ単にろくに覚えていないだけなのだ、と。
 自分が所属している社会への公式認知行事としての結婚式。親しい人の式なら出るが、私もそれ以外の人の式には出ないようにしよう。式と名の付く物に楽しいものはほとんどないし、それにビール瓶を倒しちゃったり、ナイフとフォークを落っことしちゃうと困るからね。【本間】

「1963/1982年のイパネマ娘」

『イ パネマ娘』って歌が好きなんです。あのけだるい感じのボサノバを夏の暑いときに部屋でボーっと聞いているとすごくしあわせな気分になります。
 それと、サラダを食べるところすごくおいしそう。彼女と一緒にバリバリ野菜サラダを食べながら話をする場面は本当においしそう。村上さんの小説の中にはいくつもおいしそうな場面がありますがこの場面は特においしそうです。女の子と一緒にサラダをバリバリ食べてくれる人ってなかなかいませんよね。【YURIKO】

「図書館綺譚」

が少年時代を過ごした北の町の図書館は、中学までの児童用書庫と大人用書庫とで部屋が別れていた。もちろん、子供用のにいつも行っていたのだけどそちらはサンルームがあって明るい閲覧室だった。そこでポプラ社のホームズとかルパンとか乱歩とかを読みふけっていたんだけど、高学年ともなると大人用の部屋が気になった。そこで親に頼んで連れていってもらった。一階が書庫、二階の半分が閲覧室で一階から大きな時代物の階段で結ばれていた。一階しかみなかったけど、あまり日が当たっていなくて大人の人も重々しい感じで、何か怖かった記憶がある。
 中学はまた別の北の町で過ごしたので高校になって再びその図書館に行ってみた。無論大人用の書庫へ。下の書庫で本を探して、上の閲覧室で読みふけった。文学とは割と馴染みの深い町だったので小説は揃っていたと思う。時代物の本もかなりあった。その頃は良さが分からなかった太宰もここで読んだのかなと思いながらミステリーばかり読んでいた。その頃初めて知ったのだが、地下にも書庫があるらしく、司書の方がよく本を台車で運んでいた。扉を開けると真っ暗な地下へと。
 高校までの僕にとっては図書館は特別な場所だった。村上さんの小説と初めて会ったのもここだったし、本は静かに読むというのを教えられたのもここだ。「カンガルー日和」もここで見つけた。「図書館綺譚」という中編が気に入った。図書館は何かあるような気がして、大学を図書館情報大学に決めたのもここでだった。
 今でもこの中編を読むと、あの頃と公園の中にあった図書館を少し思い出す。僕の町の図書館は、僕が町を出るとすぐに立て直してしまい、すっかり現代的な建物になり他の町の図書館のように受験生があふれるようになった。冷房も入ったし。でも、僕の中の図書館は、やっぱり古くて暗いけど、みんなが一心不乱に本を読んでいたあの図書館以外あり得ない。ただの感傷なんだけど。【本間】

「パン屋再襲撃」

「パン屋再襲撃」

しぶりに読み返してみて最初に感じたのは、変わった文章だということでした。既にそれが何の違和感なく入ってくる、むしろその理屈のこね方が癖になっている私達にはいつもの春樹節でも、初めて読んだら面食らうだろうな、などと余計な心配までしてしまいます。
 まあ、初めて村上春樹を読むのに、いきなりこの本を手に取る人は多くはないと思いますが、それでもそのオープニングであるタイトル作には、ちょっと「?」という感じがしないでもありません。
 確かに空腹についての描写や二人の会話にはとてもリアリティを感じるんだけど、一番肝心のパン屋を襲撃するという行為(正確に言えば彼女がパン屋を襲撃しようと言い出すこと)にリアルさがないと思うのはなぜでしょうか。
 彼女は初め「どうしてそんなことをしたの? なぜ働かなかったの? 少しアルバイトをすればパンを手に入れるくらいのことはできたはずでしょ? どう考えてもその方が簡単だわ? 少なくともパン屋を襲ったりするよりはね。」と断言していた(これはもっともな意見だと思う)にもかかわらず、僕がパン屋と取引をすることによりかけられたという呪いの話を聞くと、「もう一度パン屋を襲うのよ、それも今すぐにね。」と180度方向転換してしまいます。これはどういうことなのでしょうか。
 私が考えつく範囲では、この再襲撃は果たせなかった襲撃の再生、目的と行為の再確認というぐらいですが、空腹を満たすという目的はともかく、行為があまりにも粗雑かなという感じを受けるんです。何か甘いというか。いくら強盗じゃないと言ったって、銃を持ち出せば立派な犯罪なんだから、それ相応の覚悟はあるべきだと思うのですが。
 まあ、これはそんな話じゃないと言ってしまえばそれまでですが。
 そう考えてくると、この話は前半の空腹の部分から後半の襲撃の部分へのねじれ方を楽しめるかどうかにかかってるような気がします。この話は結構人気が高いみたいなので、反論続出の予感がしますが、お待ちしています。

 今、図書館から取り寄せの「モモ」を早く取りに来てくださいと催促の電話があったので行って来ます。ついでに帰りにビッグマックを買ってこよ(もちろんお金を払ってね)。【ねじ】

『パ ン屋再襲撃』を読んで私が考えたことは、今の自分は「満たされているのか?」ということである。主人公の僕は食欲が満たされてなかった。今の自分は何が満たされていて、何に満たされていないのかもわからない。そんな自分を自分自信で見ていて、何かで満たそうとも考えなかった。ジレンマにも陥らなっかた。何かしてやろうとも思わなかった。結論もでなかった。それが普通なのかもわからなかった。
 日常の世界に生きる自分は、結局は日常の世界から脱却できないし、その流れに逆らおうともしなかった。この世界に包括されていることにより、満たされているのかもしれない。

 今でもわからない事がひとつある。主人公夫婦は、パン屋を再襲撃したことで、過去の『呪い』を消しさる事ができたのだろうか?
 完全に消しさる事ができたか、今でも呪われ続けているかどうかわからない曖昧さが、この作品のひいては村上作品の優れている点ではないだろうか。【歌磨】

った温もりというのは不思議なものだ。油断するといつのまにかそこに引きずり込まれている。例えば、夢の中。そこで僕は別れた彼女と交わっている。けれどもすぐに後悔が訪れる。どうして彼女と寝てしまったりしたのだろう。それは過去に封じられているべきものであり、決して掘り起こしたりしてはいけないものなのだ。でもそのときは誘惑に打ち勝てない。そしてもう一度昔の温もりに戻れそうな気が確かにしたのだ。でもいつも幻滅を味わって終わる。

 あるいは僕は温もりに飢えているだけなのかもしれないと思ったりもする。でもメイはやっぱりメイでしかないし、知らない女を買ってみても話し相手にはならない。余分なお金を払うのがせいぜいだ。温もりなら何でもいいというものではないけれど、それでも求めずにはいられないこともある。

   感傷というのとも少し違う。ただそうした移り変わりを不思議な気持ちで眺めている、そんな気持ちだ。あのとき僕の両脇には確かに温もりがあった。それがなぜあるかなんてそのときには考えたりもしない。ただあったのだ。
 それは通り過ぎ、僕はまた独りになった。独りでいることはそれほど苦痛ではない。損なわれたまま二人でいるよりはよっぽど気楽だ。それでもふとしたきっかけで孤独が襲ってくる。失われた温もりが蘇る。そんなとき、男に向かって「君には双子がいるし、僕にはいない。」と言いがかりのような思いを抱く。暗い顔をする理由なんて何もない…だけど、それはこないだまでの自分の姿じゃないか。
 結局、僕はどうしたいんだ? 靴箱の中で暮らしていればいいと言った君の予言は大当たりだ、今のところは。

   僕らは大洋をさまよう大陸のように、一つの形にとどまることはできない。その間にささやかな温もりさえあれば、それでいいと思う。いつか海の底に沈んでしまったとしても、周りを泳ぐ魚たちを眺めながら、静かな心を抱いて、眠りから覚める日を待ち続ける。【ねじ】

「ファミリー・アフェア」

当は、私、お兄さんが欲しかったのよ。兄と妹って絵になると思わない? だけど、私にいたのは弟が一人だけ。長い間、ずっとずっと不公平だと思っていたのよ。
 初めて義妹の写真を見たとき、母と二人して笑ってしまった。なぜって? それは、義妹の雰囲気が母にまるでそっくりだったから。「やっぱりマザコンだったんだ(笑)」って私が言うと、母は負けずに言い返した。「違う、違う。シスコンよ。なんたって流行りの年上の人だものね(爆笑)」
 大丈夫かなぁ−そんな心配をよそに話はいつしかきれいにまとまっていって、初めての対面の日。話せば話すほど「やっぱり似てるよ」と思うのだった。でも、今度はきっと義妹もびっくり仰天だったに違いない。だって、目の前に3人のそっくりさんが並んでいるのだもの−そう、父と弟と私はとってもよく似ているのだ。さすがに笑えなかった義妹もちょっと目を白黒させていた。改まって「お姉さん」と呼ばれるとなんだか変な感じがするわね。もう長い間、そんな風に呼ばれたことはなかったもの。
 喧嘩もたくさんしたね。離れてしまった今、懐かしく思い出すのは楽しかったことばかり(そうじゃないって?)。たくさんのことを話したよね、本当に。夜中までしゃべっててお母さんに「もう寝なさい」って叱られたこと、覚えてる? 口にしたことはないけれど、たった一人の弟が君で本当によかったって思ってる。こんな姉で君には気の毒だったかもしれないけれど(大いに気の毒だって)。きっと私が「してあげた」ことよりも、君が「してくれた」ことの方が多いんじゃないかな(笑)。考えてみると(考えるまでもなく)、私の弟でいることってずいぶん忍耐が必要だったに違いないよね。ほら、感謝しなさい! おかげで君は立派な社会人になれたのよ。人間、何事も辛抱が大事なの。ちょっと、ちゃんと聞いてるの?

 ・・・畏まって食事をしていたあの日は遠い。そうして君たちは、穏やかに幸せな毎日を紡ぎだしていって。
 あ、忘れるところだった。お母さんがね、君たちのまだ見ぬ娘に遠大な計画を立ててるよ。どんな計画かは直接聞いてみてよ。大笑いすること確実だから。君は一生母と姉に苦労しそうね(苦笑)。それも持って生まれた運だからもう諦めてるよね? え? 私はまだ諦めてないわよ、あこがれのお兄さまを持つ夢。もう不公平だなんて思ってはいないけれど。【愛音】


「ウォーク・ドント・ラン」 講談社 (1981.7.20 初版発行)

いつい読みそびれていた一冊その2。「1973年のピンボール」を発表した後の時期に行われた対談をまとめたもの。
 なんせ20年近く前なので、初期の頃の村上さんの考え方や小説に対するスタンス、これから書く予定の小説についてなど、読みどころが多くて面白かった。村上龍は今とはずいぶん性格が違うような感じがする。【本間】


「THE SCRAP」 文藝春秋 (1987.2.1 初版発行)

いつい今まで読みそびれていた一冊。
 雑誌「ナンバー」に82年から86年まで連載していたコラムをまとめたもの。今考えると村上春樹が「ナンバー」に連載していたというのは結構凄いことかも。アメリカの雑誌を元ネタにしながら話をふくらませていくというスタイルなのだけど、その頃読んでいた本や見た映画についても結構書かれているし、気楽な感じで面白かった。【本間】


「波の絵、波の話」 文藝春秋 (1984.3.25 初版発行)

真集サイズの本で、小さいのを持ってたけど買っておくか、と古本屋で買ってきた。その後、読んでみて「これは初めて読む」と遅まきながら気づいた。「使いみちのない風景」と勘違いしていたみたい。
 村上春樹の文章はそんなになくて、歌詞の翻訳とカーヴァーの翻訳1篇を除くと、数篇くらい。でも今まで全く気づいてなかったというのはショックだなあ。【本間】


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