もくじと感想ページ1

INDEX

各作品の感想

   
「風の歌を聞け」    
「1973年のピンボール」    
「羊をめぐる冒険」    
「鼠三部作について」    
「カンガルー日和」    
「パン屋再襲撃」    
「ウォーク・ドント・ラン」    
「THE SCRAP」    
「波の絵、波の話」    
「蛍・納屋を焼く・その他の短編」    
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」    
「ノルウェイの森」    
「ダンス・ダンス・ダンス」    
「国境の南、太陽の西」    
「レキシントンの幽霊」    
「アンダーグラウンド」    
「辺境・近境」    
「辺境・近境 写真篇」    
「約束された場所で」    
「神の子どもたちはみな踊る」    
「そうだ、村上さんに聞いてみよう」    
「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」    
「またたび浴びたタマ」    
「翻訳夜話」    
「Sydney!」    
「村上ラヂオ」    
「ふわふわ」    
「海辺のカフカ」    
「バースデイ・ストーリーズ」    
「少年カフカ」    
「サリンジャー戦記」    
「アフターダーク」    
「地球のはぐれ方」    
「東京奇譚集」    
「意味がなければスイングはない」    
「うさぎおいしーフランス人」    
「走ることについて語るときに僕の語ること」    
「村上ソングズ」

  
村上作品を読んで食べたくなる物、飲みたくなる物   
村上作品を読んで、行きたくなる所   
村上作品を読んで、聞きたくなる音楽   
村上作品を読んで読みたくなる本
  
あしか堂探偵団   
村上作品人気投票   
村上作品年表   
村上春樹さんと会った話

各作品の感想

「風の歌を聴け」

の歌。私の場合は、ただ気持ちがいい。それが第一印象です。まず装丁がいい。私のは文庫版ですけど、白地に斜めのイラスト。黄色い空に土星なんか浮かんでいてラブリーです。そして颯爽としたタイトル。このタイトルのおかげで私はオリジナル・ラブも知り、その点でも感謝しています(ライブは絶賛のおすすめです)。

 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」この文章にはとても慰められます。文章って書いているその人自身だと思うから、完璧な人間はいないと思えば、自分の立つ瀬もあるというものです。加えて、完璧な絶望というものもないならば、今自分が味わっている無力感も救いようのないものではないんだと勇気づけられます。

 先日、久居つばき氏の評論をアップした後で、太宰の「パンドラの筺」を読んでみました。解釈的な読み方には異論もあるかとは思いますが、風の歌との接点として、希望(あるいは絶望しないということ)ということをやはり感じました。
 どんな哀しいことあるいは難しいことでもうまくやり過ごせるという確信。かわすというのとも違うけどぶつかって砕けてしまうのではない。確かに「僕」はハードボイルド・ヒーローでもあるけど、いつも疑問型の一青年でもある。そのスタンスが、私が憧れるかっこよさなのかなあと思います。

 そしてささやかなものへの賛歌。例えばビール。泥酔して車をぶつけてそれでもおいしそうに飲める半ダースのビール。ここら辺からもう我慢ができなくなって自分でもビールを取り出します。後はビール任せに読むだけ・・これがまた気持ちがいいんです。
 それに、ジェイズバーのフライドポテト。おかげで、飲みに行くと何も言わなくても同僚から注文してもらえるほど、私はフライドポテトマニアになりました。
 そして「カリフォルニア・ガールズ」がずっと鳴っています。
 ♪・・ア・ウィシュ・ゼィ・オー・クッビー・キャーリフォーニャ・グール
(こういうのは歌詞の引用っていうんでしょうか?著作権協会のみなさん)

 「風の歌」は酔っぱらっても気持ちよく読める唯一の小説です(翌日ちょっと辛かったけど)。【ねじ】

  っぱり第一作目はいいなぁ。恥ずかしいぐらいの若い文章が生々しくて。(←「ねじまき」で疲弊してしまいました)
 村上さんの作品でよく使われる”手紙”が私のお気に入りです。「風」でも難病の女の子の手紙が出てきますね(この歳の女の子にしては文章が上手すぎるような気がしますが)。一度彼女に会って話をしてみたい、そんな気にさせてくれる手紙です。D.J.のアンちゃんもこっぱずかしいこと言ってくれて、好きです。大事なことなんだけど恥ずかしくて出来ないことをこともなげに出来る人って、やっぱ尊敬してしまいます。

 カリフォルニア・ガールズはこの作品にピッタリの歌ですね。

  デレク・ハートフィールドが実在の作家だと信じていた【11】


 0分。再読にかかった時間。センテンスの短さと、断片的な構成、そしてなによりページ数の少なさ。ラルフ・ローレンのポロシャツのようにシンプルな小説だ。

 読み終わった後、僕は奥付の日付を見た。昭和61年4月4日第12版発行。9年前、何をしていたかな。思い出せない。きっと森の奥でリスとでも遊んでいたんだろう。

 左手の指が4本しかない女の子の事が気にかかっている。彼女はなぜ僕と会わずに姿を消してしまったんだろうか。「僕」がいやになったから? まさか。彼女は個人的な話もしてくれたし、最初に会ったときよりは打ち解けていたように思う。きっと、一人で生きていくことに決めたんだろう。誰かのせいにしないで、自分の責任だけでね。「僕」と会ったことがきっかけなら、それはそれでハッピーエンドだ。「僕」は少し混乱するだろうけどね。

 頭の中ではビーチボーイズが歌っている。「みんなカリフォルニアの女の子になればいいのに」。どうして同級生の女の子はそんな曲をリクエストしたのだろう。妹が難しい病気だから、健康的なイメージに憧れたのかな。病気の話は思い入れがあるから僕は冷静に判断できない。実際この小説で一番動揺したのは最後の入院している女の子のエピソードだ。あしかにカジキマグロの気持ちが分からないように健康な人には病院のやりきれない雰囲気は分からない。そういうものだ。
 同級生の女の子にとって、「僕」は心なごむ存在だったんだろう。普段は思い出さなくても、なにかあった時に思い出す特別の存在だったような気がする。誰かにそんな風に思われるのは素敵な事だけど、難しいことかもしれない。ドラゴンズのピッチャーがジャイアンツ相手にノーヒットノーランする位には。

 「他人の事と僕とは関係ない。はすにも見ていない。たしかに僕は下らない人間かもしれないけど、少なくとも他人の邪魔をしたりしない」(ある短編より抜粋)

 この小説の「僕」も、他人に対してこのスタンスを取っているように思う。機会さえあれば自分の主張を人に押しつけたり、影響を与えたりしたがる人が多いからこそ、「僕」の生き方に憧れるのかもしれない。そして、これからも。【本間】

「1973年のピンボール」

去を懐かしむことは、時には人の心を和ませる良いことかもしれない。
 しかし、今の生を忘れて、過去の幻想に心も身体も委ねて生きていくことはネガティブな生き方だと言っても言い過ぎではないだろう。

 「…ピンボール」に描かれている「僕」も「鼠」も「過去」を愛しんでいるということには変わりがない。だがこの二人の決定的に異なる点は「僕」が「生」の重心を現在に置いていることに対して、「鼠」は重心を過去に偏らせているというところではないだろうか。
 そう、「…ピンボール」において「僕」と「鼠」は非常に対照的な立場で描かれているように私は思う。

 「僕」は、スペースシップという青春の影を色濃く残しているピンボールの姿を激しく求め、そして再会する。そしてしばし彼女…ピンボールと語らった後で、彼女のもとを後にする。彼女に触れることもなく。

 "ゲームはやらないの? と彼女が訊ねる。
  やらない、と僕は答える。
 何故?
  165000、というのが僕のベスト・スコアだった。覚えてる?
 覚えてるわ。私のベスト・スコアでもあったんだもの。
  それを汚したくないんだ、と僕はいう。"

 「僕」にとって、過去は愛しむものではあるが身を委ねるものではないのだろう。「僕」は今を精一杯生きて行かなければならないのだ。明日に踏みだす為に過去に対して何らかの「けじめ」をつけなけらばならない季節(とき)だったのだ。
 それは「青春の終わり」と言っても良いかもしれない。明日を迎える為に、「僕」は彼女…ピンボールに会わなければならなかったのだ。

 「鼠」には現在(いま)と言うものがなかった。あるのは過去の残像にしがみついている自分なのだ。彼の住む街も、彼の部屋も、彼の車も、そしてジェイズバーも、すべて青春と言う幻灯機に映し出された像なのだ。「鼠」はその照らしだされた光の中から1歩も外に踏みだすことができないでいる。唯一の現実は週末に会う「女」だけだ。
 そのことを1番理解しているのは「鼠」自身だった。
 このまま何年かは安穏と暮らして行けるだろう。だが、それには必ず終わりが来る。もしこのままなにもしないで終焉を迎えてしまったら、本当に俺は脱け殻になっちまう。その時では遅すぎるのだ。
 「鼠」の渇きはそういうことではないだろうか。
 そして「鼠」は「女」を捨て街を出ることで、過去に「訣別」をする。今街を出ないと「鼠」には、永遠に明日がやってこないのだ。「鼠」にはそれが理解(わか)ったのだ。

 「僕」と「鼠」の別れを、私は「青春の終わり」と解釈したのだが、実は私自身、釈然としないものがある。果して、25歳という歳で、「青春」にピリオドを打っても良いのだろうかということだ。
 村上春樹はこの作品の中では、「青春」のおしまいの季節(とき)を25歳とすべし、と語っているのかもしれない。
 だが29歳の私は、未だにソレを終われないでいる。それは、私には終わる勇気が無い為だ。いや、もしかしたら終わる必要を感じていないのかもしれない。村上春樹の目には、そんな私は現実に目を向けることのできない、幼い者と映るのかもしれない。
 そう、私にはまだ「僕」や「鼠」の様に「青春」を終わることができないのだ。そういった意味では「僕」や「鼠」は私より「大人」なのかもしれない。
 それでは「大人」の定義ってなんだ、「青春」の意味ってなんだと自分自身に問いただしても、明確な答えが見つからない。答えが見つからないということが、私がまだ「青春」のはじっこに引っ掛かっているという証拠なのかもしれない。

 長い春は、灼熱の夏を迎えるのか、それとも夏が来ないまま枯れ行く秋を迎えてしまうのか、今の私にはわからない。
 しかし、「僕」や「鼠」のように、そろそろ自分なりの「おとしまえ」をつける季節(とき)なのかもしれない。それがまだ早かったのか、既にもう遅すぎたのかは、終わってみなければわからないだろうが…。【TAKA】

「羊をめぐる冒険」

局、僕は何を得て何を失ったんだろう。
 失ったものは容易に数えられる。鼠、仕事、彼女、羊博士の時間、昔のジェイズ・バー、神戸の原風景。
 そして得たものは幾ばくかのお金と喪失感。きっとこれが高度資本主義なのだろう。

 「風の歌を聴け」では短いセンテンスと細かい章分け。これは仕事が終わった後に書かれたから。「1973年のピンボール」もその傾向は続く。だけど「羊をめぐる冒険」では、徹底したストーリーテリング物である。そう意識して書いたという話だし、今読み返しても面白い。だけど、クーンツの失敗作のように読んだらそれで終わりという小説じゃなくて、なんだか余韻が残る。ラストは少しセンチメンタルすぎるけれども。

 僕の共同経営者のように昔の友達が少しずつまともじゃなくなっていくのは哀しい事だ。
 「1973年のピンボール」では、彼は一般的なさっぱりとしたまともな人物として描かれていた。それが一人では何にも出来なくなり、昔の事しか話さなくなるのは読んでいて結構辛い。そういうケースは現実だけでたくさんだから。

 鼠は少しも変わらないように思える。内部に羊がいる事を除けば。
 鼠は言う。

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。中略。君と飲むビールや・・・」
 (羊をめぐる冒険 下204ページより引用)

 これ以上確かな物があるだろうか。私も自分の弱さが好きだ。夏の夜の雰囲気が好きだし、ベッドの上で読む小説、仕事の後のビール、夜中に聴くボーカル曲なんかも大好きだ。
 世界がどんなに変わろうとも、私の中ではこれらは不変の真理である。太陽が東から出て西へ沈むように。

 私にとってのターニングポイントとなる「羊」はいつやってくるのだろう。「冒険」はいつ始まるのだろう。それこそ "Some people can sing, others can't." なんだけど。【本間】

いさきほど、二晩がかりで「羊をめぐる冒険」を読み終えました。もう5、6年ぶりの事だったと思います。
 僕自身が成長していないのか何なのか、昔と同じように、読み終えた後にいわれようのない悲しさに襲われました。僕はほかのみなさんのように、立派な感想文を書く事なんてできないのだけれど、それでも何かを書きたくなりました。いや、きっとこの小説がそれを引き出したのに違いありません。で、手紙を書く事にしました。行く先のない悲しい手紙です。あまりにも個人的で申し訳ないのですが、投稿させて下さい。少しなりとも彼の(手紙) 存在理由に寄与できれば、いいな。

 では、始まり始まり。

 元気ですか?
 僕は今君の知らない街にひとりで住んでいます。新しい生活の始まりです。
 規則正しく目を覚まし、朝はプールに通って1000mだけ泳いでから会社に行っています。
 時々は同僚と酒を飲みに行くこともありますが、たいていはこの部屋に戻り、スパゲティを茹でてネットサーフをやったり、知らない女の子と電子メールのやり取りをしています。
 ビールの量は幾分減ったように思います。あ、ダイビングを始めました。海は本当に僕をリラックスさせてくれる。
 あの中で僕は「あ、これならここで死んでもいいや。すごく気持ちがいいもん」と、思ったりしてしまいます。
 でも大丈夫。もちろんそんなに簡単に僕は死なない。

 孤独、死の恐怖は前ほど僕を襲わなくなりました。それを感じることもあるけれど、なんとか折り合いをつけてやっています。だから、あなたのあのときの温かさに本当に感謝しています。そしてあなたから奪ってしまったもの(それがなんなのかは、わからない。僕は阿呆だ)について心から詫びなければなりません。
 いろいろなものが僕の前を通り過ぎていきました。そうやって失ってしまったものを、よく夢にみます。たいていは別れてしまった女の子とセックスをしている夢です。
 目覚めたときにひどく悲しい思いをします。まだあきらめのいい大人にはなりきれていないのですね。それを引き止めることもせずに、なくしてしまったものをひどく悔やむ、往生際の悪い人間。やだなあ。

 僕の今年の目標は、自分自身を好きになることです。それは僕自身が誰かに愛される条件のひとつだから。
 足を止めないように、振り向かないように、前だけを見て走り続けること。あなたがどこかで自分自身のために何かしらの努力をしている(あなたは走り続けている。僕には分かる)のと同じように、僕も自分のためにいろいろやってみています。いつか胸を張ってあなたに会うために。(もう二度とあえない事は分かっているのだけれど、僕はそうやって生きていきたい)
 そして、きっとそれが何らかのかたちで報われることがあったときに、僕はやっと、僕が何を本当に欲しいのか、分かるような気がします。そしてやっとその後に、それを手に入れるための、僕の人生の中で本当の人生がまた始まるのでしょう。だから、生きていかなければならない。

 あなたは(あるいは僕を愛した別の人間)僕の何を愛したのだろう? そして僕はなぜそれをあっさりと捨ててしまったのだろう。
 ねえ、僕たちは(僕と、あなたと、僕を通り過ぎた人々と、あなたを通り過ぎた人々)一体どこに辿り着くんだろう。どこかに辿り着くことができたならば、その時は盛大にパーティを催そう。
 プリンスホテルかどこかの大宴会場にみんなを集めて、「やあひさしぶり」「なんとか幸せにやってるよ」という感じでシャンパンを飲むのです。もちろんそんなことは120%ありえないことですね。失ってしまったものをもう一度手に入れることは非常に難しい。マリアナ海溝で「碁石拾い」をやるようなものだもの。それでも、僕は連続ドラマの最終回で時々やる、後日談(必ず「何年後ー」というテロップが入る)がすごく好きです。離れていった友人、ハッピーエンドになったカップル、そんな人たちの何年後かの映像。彼らはドラマの本筋の中よりも、何百倍も幸せそうに見える。
 ねえ、佐野元春にこんな歌があります。

 友達のひとりは遠くサンフランシスコで仕事をみつけた
 友達のひとりは知らせも無く今行方も分からない
 友達のひとりは幸せなウェディング一児の父親さ
 そして同じ幻をみつめていた まるで子どものように

 僕はこの歌を聞くたびにあなたと岩井海岸(千葉のどうしょうもないあの田舎の海です。覚えてますか?)で夕日をみつめている情景を思い浮かべます。そして二人でさっきのドラマの最終回の後日談を夢に見るのです。登場人物はもちろん、さっきのプリンスホテルの大宴会場に集まるべき人々。
 それってすごく素敵なシーンだと思いませんか? 【大沢】

がこの作品に初めてであったのは、大学2年の頃だったと思う。この作品に出会って僕は決定的に村上春樹という作家を好きになってしまった。この作品を読むのはそれ以来のことだったんだけど、ページを繰る度にストーリー展開が鮮やかに蘇ってきて、“僕もこの冒険に引き込まれてるな”って感じた。

 正直に言って、この作品は哀しすぎるよ。
 誰とでも寝る女の子の死に始まって、最後に出会った鼠も死者としての存在でしかなかったんだから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。それでも、この作品が僕を惹きつけて止まないのは、「僕」が生きているからであり、『ダンス』という作品が存在しているからじゃないかな。

 3部作と『ダンス』を通しで読んでいるから、どうしても全体を通しての印象が強く残ってしまう。結果的に鼠も耳専門のモデルの彼女(キキ)も翻訳事務所の共同経営者も離婚した妻もみんな過ぎ去った人達としてしか僕の中には残らなかった。勿論、『羊をめぐる冒険』では鼠とキキは主要な人物であることは間違いないんだけどね。

 3部作だけを読んだ人、あるいはこの作品を単体で読んだ人はこの作品をどうやって受け止めているんだろうか。僕にはうまく想像できない。だって、物語の終着駅がたった一人取り残された自分しか残らないんだよ。そんな状態で放り出された時のことをうまく想像できないんだ。
 学生の頃、この作品に出会った時、僕はすぐ後に『ダンス』に出会っている。もし僕があの時『ダンス』にすぐに出会っていなかったら、何を感じたのだろう。そういうこと考えるだけで哀しくなってしまうな。こうした感情移入ができるっていうのがこの作品の素敵なところなのだろう。

 全部で4作品を読んでいるから、もっともっといろんなことを感じたのだけど、それをうまく言葉で表現できないでいる。難しいんだ。心の振れを言葉で表すっていうのが。ひょっとしたら言葉にならない思いがたくさんあったほうがいいのかもしれない。そうした部分を何年後かにはうまく説明できるかもしれないし、できないかもしれない。
 僕はきっとこれらの作品を再び手にすると思う。その時何を感じるのかを今からとても楽しみにしている。

 夏もぼつぼつ終わりを迎えようとしている。
 僕もそろそろ社会復帰をする頃に来たようだ。【田辺】

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