「はっちゃん」のプロファイル 1997.2.1新規
1998.5.24更新
ハマ音イタリア音楽の夕べ アンコール舞台写真を追加しました

ようこそ「はっちゃん」のプロファイルへ

 「はっちゃん」は、私の小学校時代から現在に至るも通用している通称(早い話がニックネーム)です。合唱団の仲間には、私の本名は知らなくても「はっちゃん」だけは覚えていると言う人もかなりいるくらいで、もう本名と同等に使っています。

 年の上下関係なく・遠慮なく「はっちゃん」と呼んで下さい。
 「はっちゃんさん」は、おやめ下さるようお願いします。


 まず現況です:

住処:川崎市高津区下作延
本名:平松 八樹 (「はちじゅ」と読みます)

パソコン通信でRAM(アクセス速度は超遅い……)しているフォーラム・SIG
Nifty serve
FTRAIN(鉄道フォーラム)
FCLA(音楽フォーラム・クラシック)
FAGRI(農と食のフォーラム)
PC−VAN
SMU(ミュージシャンズ・スクエア)

活動中の合唱団(パートはテノールです)
・ハマ音(横浜音楽鑑賞協会)主宰の各種合唱団
・横浜YMCA混声合唱団
・首都オペラ合唱団
首都オペラの制作担当(本業ではありません…)


本業:鉄道の信号装置の設計・開発


生い立ち、略歴

 1944年2月 愛知県豊川市国府町に生まれる

 1950年4月 小学校に入学

 1956年4月 中学校に入学

 1959年4月 高等学校に入学

クラブ活動:
 入学時より「物理部」に入部
 1年の3学期より「音楽部」(合唱)に引きずり込まれ、2つのクラブを掛け持ちする
 1962年4月 大学(電子工学科)に入学
 不勉強がたたり、地元の国立には行けず、浪人すればもっと学力が落ちるからと(自分の意志が弱いだけだが…)親不孝にも東京の私学に行かせてもらう
 東京は世田谷区に下宿する
 (賄い付き、最後の1年ほどは外食)
クラブ活動:
 入学時より「グリークラブ」(男声合唱)に入部
 1年の1学期より「鉄道研究会」(現:鉄道研究部)の発足に加わり、結局、大学時代も2つのクラブを掛け持ちする
 1966年4月 現在の会社に入社
横浜の鶴見で寮生活をする
(借り上げ寮で、自炊せず外食オンリー……)
1971年 結婚し横浜の金沢区富岡に住まう
1994年 現在の地に転居する
 本業以外の活動:
 会社にあった「合唱部」で歌っていたが、3年ほどで自然解散となってしまった
 1983年 ハマ音の「第九」・当時の地元であった金沢区の「第九」で合唱に復帰
 1988年 当時は地元であった金沢区の活動がオペラに移り
 1992年頃から「首都オペラ」の制作を手伝う沼にはまってしまった

パソコン歴

 TK80に始まり、TK80BS・PC8001・8801・9801・9821と時代とともに変わり、現在はXa16とLa10を使っている。アセンブラでプロラムを作ったり、8001の回路を追っかけて回路図を作ったりもしたが、今は完全なアプリユーザーになってしまった。
パソコン通信・インターネット歴

パソコン通信:
 1989年8月に「Nifty−Serve」と「PC−VAN」に同時に加入申し込みをして始めました。
インターネット:
 1996年5月にホームページを持ちたくて「mesh」に加入

道楽の歴史

 鉄道道楽:
 中学時代に友人の影響で鉄道模型に興味を持ちだし、それが発展して卒業する頃には鉄道趣味となり、安楽マニアとなってしまっているが、現在も続いている。
 鉄道模型について言えば、当時は金がなく現在は場所とヒマがなく、雑誌を見るだけの完全な安楽マニアになっている。
 HOn21/2ナローの小さなレイアウト位作りたいとは思っているが…

 合唱道楽:
 高等学校入学時は物理部に入部したが、1年の2学期に音楽の先生に口説かれ、その年の暮れから音楽部にも籍を置き、合唱活動に首を突っ込み、現在の泥沼のきっかけとなる。

 大学に入学した時は、鉄道に関するクラブがなかったので、迷う事なくグリークラブに入部し、セカンドテノールを歌っていた(Fisが精一杯だった)。

 会社勤めになってからは、会社にあった「合唱部」で歌っていたが、3年ほどで自然解散となってしまい、その後合唱活動は休止をしていた。

 1983年にハマ音の「第9」に誘われ、合唱界に復帰することなる。
 このハマ音の合唱活動は、毎年行う「第9」の他、「ロシア音楽の夕べ」で始まり、毎年テーマ国を変えて行うようになった「サマーコンサート」がある。
 1991年の五十嵐喜芳(藤原歌劇団)と一緒に行った「イタリア音楽の夕べ」では、アンコールステージで五十嵐さんを差し置いて、ソプラノの斉田正子さんと椿姫の「乾杯の歌」をデュエットしてしまうハプニングをおこしてしまった。
 このハプニングステージはやんやの大喝采で、主催者側のメンバーですら計画的な演出かと思ったほど……すっかり「サマーコンサート」の語り草になっている。
 何しろ、少し前屈みにならなければしっかり高い音を出せなかった私が、振りを付けて歌えば目立たないと付けた振りが何とも酔っぱらい風(聞きに来ていた姉に言われた…)で、満員の聴衆は笑い出すし、後ろの合唱団も腹を抱えて笑っているし、相手をしてくれた斉田さんは吹き出しそうになるし……こんなに楽しかったコンサートは始めてと多数のお客さんが喜んでくれたと言う……
 その時の舞台写真はこちらをどうぞ・・・ 1997.2.1追加

 ハマ音の「第9」で合唱界に復帰すると同時に、当時の地元横浜市金沢区の「第9」(金沢区公会堂で公演……なんと選挙管理委員会の主催だった)も始まり、地元付き合いのしがらみもあり参加する。
 金沢区の「第9」は1988年で終わり、設立されたばかりの首都オペラに協力してもって「金沢オペラフェスティバル」(金沢区公会堂で公演)に変わる。

 1988年の第1回目は区の主催であったが、第2回目からは実行委員会の自主公演で続けていた。第2回目の1989年はレオンカヴァレロの「道化師」をオペラ形式で、その中で第2の村人と酔っぱらいの通行人をした。その後、レハールの「メリー・ウィドウ」を演奏会形式で、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」をオペラ形式でなど「オペラを身近に」と、オペラ形式にこだわり、経費の都合で舞台装置や照明を超簡略にして行うなどしてきていたが、実質実行主体であった金沢オペラアンサンブルが県民ホールで行う首都オペラの公演に参加する事などもあり、毎年開催とはいかず苦労をしていた。途中からだが、このフェスティバルの実行委員長をしていた。1994年の「ほほえみの国」の後、首都オペラの活動に力をとられ、金沢オペラフェスティバルは休止状態にある。

 オペラとの関わりは、金沢オペラフェスティバルが始まる直前の1988年3月に神奈川県民ホールでオペラ「サムソンとデリラ」の公演があり、ハマ音「第9」のテノール仲間とのしがらみで参加したら、立ち稽古に入ると面白くなってオペラやりたい人間になってしまったことに始まる。それまではオペラには全然興味がなかったのに……この時のしがらみで横浜YMCA混声合唱団に籍を置くことになってしまった。

 金沢オペラフェスティバルとの関わりで、1992年頃から首都オペラの制作を手伝うようになり、それが深みにはまり、制作担当という事で運営の中枢にかかわるようになってしまった。首都オペラの合唱団「首都オペラ合唱団」の団長も引き受けている。
 この合唱団では声帯に負担をかけない、本物の響きを目指して、ベルリンドイツオペラで主役を歌っていたウィリアム・ウーさんを育てた永田優美子さん直々の発声指導があり、学生時代より遥かに高い音が出るようになって、現在はトップテノールを歌っている。ハイCまで表声で出せるようになりたいと思っていますが……


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