Salvation through Punk: The Rancid Story

  若者の意見に反して、1994年は遠巻きにアメリカではパンクが流行した
バークレーのポップパンク界の英雄「Green Day」は「Dookie」をリリース
驚異的なセールスをあげた。南カルフォルニアのもと、Offspringも同じく
スターダムへと変貌をとげ、「Rancid」にとってもその波はストレートに
おしよせた。

  その噂は音楽業界へも飛び火した。ランシドはEpicに$7,000,000でさそわれたり
有名な話だが、マドンナも彼女のレコードレーベル「Maverick」に誘う為に
彼女自身のヌード写真をランシドに送った。パンク魂を捨て、金を取ろうとしたが
彼らは取らなかった。

  6ヶ月前だったら、だれが単にモヒカン頭でかろうじて知られていた、かせぎそうもない
バンドが注目を浴びる事を信じただろうか。ランシドは皆が思うパンクのイメージに
はまる数少ないバンドであるのではないか?だれもパンクに優しい顔はもとめていないんじゃないか?

  その上、ランシドのメンバーのうちの二人は既に前に売れるチャンスがあったのに
それを結局けってしまった。「富と名声は決して二度おとずれない」じゃなかったか?
ランシドはこれをくつがえそうとしている。

  ランシドはMcJobsの世界に運命付けられていると見える。
ギターLars Fredriksenはこう述べる。
「ランシドはストリートと同等の観点を持った、労働階級のパンクバンドである。
俺たちが過ごした毎日の生活での経験を書いている。俺たちは俺たちのした、
見た、あった、労働組合、労働組合ストライキ、労働について唄っている。
俺たちは根本的に労働階級で育ち、それを見てきた。」

  4人とも家は労働階級で子供時代に重労働倫理を染み込まされた。
ドラムのブレッドリードの家族は余儀なく低所得者用食料切符を当てにせざるを
得なかった。経済状況は物寂しいものでリードは16才で家計を助ける為に
学校を止めてしまった。

  しかし、少なくとも彼の父は一生懸命働いていた。
Fredriksenの父は、そんなもんじゃなくて、彼はかぎっ子だった。母は
訪問販売員として、長時間働き、ベースのマットはましな方で、父は警察で
中堅の労働階級だった。ティムの父はアルコール中毒で、母が秘書として
一生懸命稼いだ金を飲明かしてしまっていた。

  当然ティムは一番最後まで辛い経験をかせね連ねてきたが、それがランシドの
曲を掻き立て、他のメンバーにも言える事だが彼の労働階級という根っこを
曲に対して色濃く残す事になった。それがバンドをより、密なものにしている。

  実際、フリーマンとアームストロングとの友情は彼らの住んでいた
カルフォルニアのAlbabyで5才の初めての出会いにさかのぼる。
パンクをお互いすきになるのはあとで、ブリットパンクの最初の流行に
対する特別な感情をまず、避ける事は出来なかった。

  それらのバンドは、−−−もっとも、それらのバンドのほとんどは中流階級を
背景にしたバンドだが、−−−ダイレクトに労働階級について語っていた。
70年代の後半のイギリスの若者は周囲に起こっている事に対しての、
あえて、社会の不正行為を暴き、現代の秩序を崩したいという、圧倒的な驚異的な
欲望をあらわにしたいという怒り、不満を弦に叩き付けた。

  ランシドのメンバーも同様な理由で弦を叩き付けた。熱狂的で無秩序な荒れ狂った
パフォーマンス性を持ったパンクそれ自身も欲求不満や激怒に爆発しそうな
ミュージックシーンのよい吐け口となった。

  始めた頃はティムもフリーマンもギターを弾いていた。ただ部屋やガレージで
練習程度に弾くぐらいだった。

  しかし、1987年に状況が変わった。ドラムのDave MelloとヴォーカルのJesse 
Michaeleとよい仲になり、やがてOperation Ivyを組んだ。フリーマンはこのバンドを
”パンクスカ”バンドと銘打った。元々のちがう色のバンドと、バークレーでの
スカシーンから影響を部分的に受けた。

  フリーマンが語る「ここら辺で「Up Tones」というクソ素晴らしい
バンドが、80年代前半にいた。バークレーの奴で、86年か87年に解散してしまった。
昔はスカシーンがあったが、今となってはOperation Ivyにとっては遥か昔の事である。
しかしながら、俺らのレコードには「The Uptones」の影響が見られるだろう。」
かなり彼らは「Up Tones」の影響を受けている。

  Operation Ivyは結構スカシーンでえらく目立った。Operation Ivyの経歴2年間の
間の最初の年は、他のスカバンドとたった一度だけプレイしたが、次の年には
ホーンセクションを持っていなかった。実のところ、アルバム「Enegy」に入っている
「Bad Town」にと、一度ライブでサックス奏者とライブをやったが唯一この
2つの機会以外にホーンセクションを使った事がない。

「俺が思うに俺たちはホーンを持つ事が好きだと思われるが、そんなに欲しいと
言う訳でもない。そういう形態にはもう決してならないだろう。」っとフリーマンは語る。
Operation Ivyは1987年4月にMello's Grageでデビューした。
フリーマンの記憶が正しければその後、Gilman Streetで演奏していた。

  それから俺たちは出来る限りたくさんショウをこなした。185回かそこらした。
こんなに定常的に数をこなす努力をしてプレイしたバンドは本当に奇妙な話、
初めてだった。俺たちはたくさん演奏した、特に始めの夏、至る所でプレイした。
Davis(今は駐車場)にて、Chico,SanFranciscoのC&W SaloonやGilman Streetや
色々なパーティーにて。主に後者でショウをこなした。

 その年の後半、"Turn it Around"でデビューした。"Officer"と"I got NO."が
入っている。もとは7-inchで、1990年頃に12-inch singleで再販売された。

  2曲とも2分以下の曲で、"Bad Town"は2分半以上ある。
"Officer"はPunk色がたっぷり染み込んだスカな曲だ。
"I got NO."はもっと耳障りで無愛想で目茶苦茶なパンクの曲だ。
彼らの印象を型つけたのは、まっとうなデビューではなく、おそらくライブのであろう。

  Gilman Streetで有名なLarry Livermoreは初めてOperation Ivyを見た時から
彼らは特別であると感じていた。Livermoreはバークレーの他のバンドのメンバーで
Lookout recordsから自己出版のアルバムを出している。
Livermoreとその友達のDavid HayesはGilmanバンドたちのレコードを出す事を
考えていて、Operation Ivyも含む地元4バンドに話を持ち掛け、1988年1月
Lookout recordsから始めて7-inch 版四枚をリリースした。

  "Hectic"はハードコアな"Junkie's Running Dry.","Hoboken","Sleep Long"と
スカな"Here we go again","Yellin' in My Ear","Healthy body."と二つに
二分されたが、そのボーダーラインもすぐにブレンドされ、新しい「スカコア」
というジャンルがとうとう出始めた。LivermoreはOperation Ivyをレコード会社の
成功として、功績を称えた。