初めてのパソコンです。学生時代にカシオのポケットコンピュータで遊んだりしていたことがありましたが、ちゃんとしたものはこれが初めてでした。秋田の病院から転勤になり大学病院の勤務になったのですが、私の知らぬ間に、神経生理検査の担当にさせられ、検査機器を操作しなければならなくなりました。キーボードの操作もしなければならず、慣れない私は、何でABCがばらばらに配列してるんだろうと恨んだものでした。
当時ワープロ専用機が普及しようかという時代であり、キーボードに慣れようということで、エプソンのワープロを買いました。ワードバンクLとかいうもので、未だ捨てずに取ってありますが、パソコン通信ができたり、フロッピーに記録できるというのが自慢の最新鋭機でした。しかし、そのフロッピーは何と1D
というもの。今は売ってませんよね。エプソンのワープロだってないですし。
その後放射線科をローテーションし、CT担当になったのですが、当時検査技師がおらず、コンピューターの立ち上げ・操作、磁気テープの掛け替え、画像処理、果てはフィルムの現像、報告書作成とあわただしい生活でした。おかげで、キーボードにはかなり慣れ親しむことができました。ちょうど結婚したころで、新婚というのに帰りは夜中でした。
さて、大学にいると研究もしなければなりません。放射線科を終えたあと、神経生理の研究室に配属され、電気刺激や脳波記録という生活になりました。刺激装置の制御や波形解析に当然ながらパソコンが必要でした。当時パソコンといえばNEC
でしたから、研究室では VM が活躍し、無印の 9801まで動いていました。I/Oボードや A/DコンバーターなどがCバスを塞いでおりました。プログラムはもちろん自作。先輩の先生方の手作りです。もとより私にはプログラミングの素養はありませんから、ユーザーとして研究の手伝いを始めました。パソコンくらいいじれなくてどうするとのことで買ったのが
UV2 なのです。
話が長くなってしまいました。さて、このマシンですが、CPU は V30 といい、NEC製の8086互換チップです。10MHzで動いたのですが、ゲームには速すぎるとのことで、8MHzへの切り替えスイッチが付いていました。当時珍しい3.5インチの
FDDでしたが、2HDのディスクは1枚1000円位して、とても買えず、2DDを大事に使ってました。メモリは384KB。当時発売された一太郎Ver.3が動かないことがわかり、640KBに増設したのですが、結構な費用でした。CRTと併せて30数万円は厳しい出費で、しばらくプリンタも買えませんでした。今となっては信じられない話ですが、640KBがメモリの上限で、それ以上の増設のためにはEMSというメモリボードを差さなければなりませんでした。このとき
UV2には FM音源が内蔵され、これも売り物だったのですが、サウンドを切らないと EMSが使えないという制限がありました。もっともEMSを入れる経済的余裕はありませんでしたが。
また、HDD が出始めで、研究室にロジテックの20MBの HDD が入ったときは驚きでした。20MBというのは夢のような世界でした。インターフェイスはSCSIでなくSASI。その後進歩はめざましく、1MBが1000円と言われたときに、アクセルの100MBのHDDを導入しました。世の中では、CPUは80386の時代でしたでしょうか。この頃はもうパソコンは道具としてなくてはならないものとなっていました。一太郎4.3、桐、LOTUS
1-2-3というのがばりばり動いていました。起動スピードだけなら今よりずっと快適でした。一太郎が辞書を含めてフローッピー1枚で動いていたんです。現在はどうなのでしょうか。巨大化した姿をみると、果たしてバージョンアップされたと言っていいのかどうかふと疑問に感じます。当時のATOKの辞書は、現在のATOK12まで併合を繰り返しながら受け継がれています。
UV2は某氏に寄贈したのですが、今だに現役です! |