幼児期 |
新潟市近郊の田舎町に生まれる。3人兄弟の末っ子。 今思えば、貧しい職人の家であったが、愛情にあふれて育つ。家の裏がお寺で、窓を開けると墓地であり、墓場が遊び場であった。 遅ればせながら家にテレビが入って、鉄腕アトムや鉄人28号を見た記憶が強烈に残る。ご飯は生卵をかけないと食べられなかった。 |
小学校低学年 |
働きづめで、遊んでもらった記憶が乏しいが、父からランドセルを買ってもらったことを良く覚えている。 自転車も買ってもらったが、捨てられていたような古自転車を近所の自転車屋が修理してペンキを塗ったものだった。 ご飯には丸美屋の「のりたま」。当時我が家で肉というのはクジラ。学校給食で初めて豚肉を食べた。 当時の思い出としては、学校からの帰り道に新潟地震にあい、屋根瓦が落ち、昭和石油が爆発してキノコ雲が上がっていたのを覚えている。その年の秋、近所の家にカラーテレビがあり、そこで見た東京オリンピックの放送で、陸上競技場のトラックの赤い色が目に焼き付いている。 また、家で猫を飼い始めた。チョコという三毛猫でったが、以後私が大学生になるまでいつもそばにいてくれた。 |
小学校高学年 |
兄の使い走りで、町まで少年マガジンや少年サンデーを買いに行かされた。 近所の少年野球チームに人数が足りないため参加するが、守備には自信あったものの、ヒットを打った記憶はない。 親戚の子が大阪の万国博に行ったのがうらやましかった。我が家には、家族旅行という余裕は全くなかった。当時のテレビコマーシャルを良く覚えている。 「出前一丁食べて、万国博に行こう!」 世間並みに家にカラーテレビが入る。真空管式のテレビで、スイッチを入れてしばらくすると音が出て、さらにしばらくしないと画像は出なかった。 小学校6年の修学旅行は会津であったが、まだ蒸気機関車であった。 |
中学校 |
勉強した記憶はなく、英語塾もすぐにやめてしまった。 学校の帰り道、「石沢書店」で本の立ち読みしたり、レコードを見たり。 「石沢書店」は、町内で2軒しかなかった本屋のひとつで、レコードやら文房具やらいろいろ売っていた。本を買うと、鉛筆を1本くれたが、よく折れる鉛筆だった。 洋楽に興味を持ち、ラジカセを買ってもらいラジオを聴くようになる。サイモン&ガーファンクルやカーペンターズなど。友人宅にはステレオがあり、ベンチャーズをガンガン鳴らしていた。ベースの低音にあこがれ、ステレオが欲しかったが、卓上型の電蓄しか買ってもらえなかった。 北 杜夫や星 新一と出会って、読書のおもしろさを知り、高校入試というのに、本ばかり読んでいた。中3の1年間に100冊読んだのが自慢。 ラジオ放送を聴き、受信状況を放送局に報告し、ベリカードという証明書をもらうBCLというのも楽しみであった。 愛読書は、初歩のラジオ、ラジオの製作。通信販売でがらくたを買っていた。ゲルマラジオやトランジスタラジオなどを作ったりしていた。エナメル線でコイルを巻き、バリコンとダイオードをつないでクリスタルイヤホンを付けると電池なしでラジオが聴けた。 |
高等学校 |
新潟市の高校に行く。通学のため列車に乗るのが楽しみだった。 ブラスバンド部はないのにジャズのビッグバンドがあるという変な学校だった。いきなりセントルイス・ブルースで歓迎を受けたのには驚きだった。 進学校のはずなのに、勉強を強制されるわけでなく、自由な雰囲気が漂っていた。クラブ活動には参加せず、帰りは古町をうろついたり、ダイエーに寄ったり。 サンタナ、ピンクフロイド、フォーカスなどに心酔。ライフ(注:当時新潟市にあった名画座)で映画の楽しみも知る。 「ツモリレコード」(注:名曲堂と並んで、新潟市では有名なレコード店であった。)の福引きで、サンタナのコンサートのチケットが当たる。これが初めてのコンサート体験であった。 大学入試に向け、受験勉強は人並みに頑張る。「英協の添削」は役だった。 まだ共通一次試験が導入される前で、国立は一期校、二期校とか言っていた時代である。 |
大学教養課程 |
なぜか医学部に現役合格する。現在は6年一貫教育だが、当時は2年の医学部進学課程(医進)を終えると、医学部専門課程に進むことができた。医進の2年間は他の学部と同じに学んだ。授業終了後はパチンコに通う。家庭教師のバイトで、小遣いには不自由なかった。 レコードを聴くだけで単位が取れるという音楽の授業を受講し、クラシック音楽に目覚める。石丸電気の常連となる。(注:あの秋葉原の石丸の支店である。レコードの品揃えは新潟随一であった。) キャンディーズが解散する。ファイナルカーニバルのテレビ放送を録画したかったが、当時ビデオは高嶺の花。テープレコーダーで音だけ録音。ミキちゃんと結婚する夢を見た。 |
大学専門課程 |
実習やらで、遊べなくなるが、レコード店通いは続ける。 左足に痛みが時々あり、整形外科の実習の折り、指導医に相談したところ、検査を勧められ外来受診。ここで骨腫瘍があることが判明。直ちに入院予約となる。入院待ちのとき、学生食堂で昼食を食べ、椅子から立ち上がろうとしたところ、突然の激痛。腫瘍の部分で大腿骨が折れてしまい、友人に背負われ緊急入院となる。以後寝たきり生活。寝返りできない苦しみを体験する。2回の手術、4ヶ月の入院で今なお元気でいられる。大量の輸血を受け、親類縁者の他、学生ボランティアから新鮮血をいただいた。感謝にたえない。(当時一緒に闘病した患者さんと最近再会した。お互いが元気でいたことに感激した。)退院後もしばらく松葉杖生活。復学した後も松葉杖で実習に参加。 このため、卒業が1年遅れたが、2学年に渡って友人ができた。患者の苦しみが分かるいい医者になるよと励まされたが、当時の苦しみはもう忘れてしまった。 |
そして・・・ |
各地の病院を転々として、現在に至る。 卒業2年目の研修医時代に、飲み遊んだのが今の家内である。 |