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■日本海軍沿革1(明治2〜15年)

明治16〜25年 明治26〜36年 明治37〜大正2年 大正3〜10年 大正11〜昭和7年 昭和8〜14年 昭和15〜17年 昭和18〜20年               
●慶応4年
土佐藩坂本龍馬の一派を海援隊と改称、藩付属となる。

●明治2年
この年の春、榎本追討艦隊、品川沖を出航、宮古湾に入る。幕府軍艦「回天」には、新撰組副長土方歳三も乗り込んでいたが、死所をを得ず生還した(この後、五稜郭にて戦死)。旧幕府艦隊は全滅。
榎本武揚は「梅津全書」(海上国際法)2巻を官軍参謀黒田清輝に贈り、助命される。黒田と福沢諭吉が共謀し、この書を翻訳しうるのは榎本をおいて他になしとし、黒田自身も丸坊主になるなどして、奔走した。
10月、海軍操練所を築地に設立する(海軍兵学校起源)。
11月、近藤真琴が築地の海軍操練所内官舎において、海軍予備教育を行い、攻玉塾と称した。

●明治3年
5月、兵学寮生徒前田十郎左衛門、伊月一郎を英国実習のため派遣(初の留学生)。
10月、兵制が統一され、海軍は英式と布告。
年末、海軍操練所が海軍兵学寮と改称された。「軍艦は士官を以て精神とす。能く学士を教育すること亦海軍創立の一大緊要事なり」との建議により、本格的な士官教育制度が発足することとなった。初代兵学頭(校長)には川村純義が就任。幼年学生(与・本科)が、日本海軍士官のメーンルートとなる。山本権兵衛、日高壮之丞は第二期生である。因みに、山本は本科生徒時代、西南の役に従軍の覚悟で帰省したが、西郷に説得され復学したと言われている。

●明治4年
3月、東郷平八郎、伊地知弘一など16名、米英に留学。
横須賀製鉄所、第一ドックが竣工。我が国最初のドック。
5月、横須賀製鉄所が横須賀造船所、長崎製鉄所が長崎造船所とそれぞれ改称される。
9月、兵部省に海軍部、陸軍部がおかれ、あわせて提督府もおかれ、不完全ながらも海軍条例も制定される。同じ頃、石川島造船所を石川島造兵所と改称した。
6月には、明治天皇が初めて長崎造船所を行幸され、造船関係者の士気を鼓舞された。

●明治5年
2月、「爾今海軍兵学寮園内にて立小便するを禁ずる」との告示が出る。およそ海軍士官らしくない風習があったものと思われる。海軍読法(軍紀)を制定。
3月、海陸軍刑律を定める。
4月、兵部省が廃止され、海軍省、陸軍省とに分割される。海軍兵員徴募規則が定められ、海軍水路寮から日本最初の海図(陸中国釜石港之図)が刊行される。
この年、海軍兵学寮にて本科生79人、予科正40人の大量の退寮者があり問題となる。

●明治6年
5月、海陸軍武官の官等を改正し、元帥を廃止した。(元帥西郷隆盛が陸軍大将となったのはこのときである)。
10月になって、勝安房が参議および初代海軍卿に就任し、海軍拡充案を提議したが、閣議で一笑に付された。
年末になると、海陸軍軍資にするため、家禄税、官禄税が設けられる。

●明治7年
初春、海軍兵学寮で競闘遊技会が実施され(運動会の始まり)、軍艦筑波が兵学寮の練習船となる。
5月、横須賀に兵学寮分校が設置。同じく、東京芝山天神谷に海軍会計学舎(後の海軍経理学校)が設置。
秋に、水雷製造局が仮設(後の水雷局)、築地には、兵器製造所(後の海軍兵器製造所)が設置される。
この年、海軍兵学寮では「山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と格闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり」という兵学寮ゲバルト騒動が起こった。

●明治8年
5月、大久保利通は軍艦3隻をイギリスに発注(扶桑、金剛、比叡)。
このころ、軍艦雲揚が釜山に入港し、江華島守兵と交戦(江華島事件)
ついで、中牟田倉之助少将率いる軍艦2隻が釜山に入港、儀仗兵を率いて上陸し、日本陸戦隊が朝鮮軍民と衝突する。
この年、海軍少尉候補生の遠洋航海が始まり、筑波艦にてホノルル、サンフランシスコを訪問。

●明治9年
夏、提督府を廃止し、鎮守府を東海、西海の二カ所に置き、東海鎮守府を横浜に設置した。
このころ、海軍兵学寮を海軍兵学校と改称。
この年、我が国最初の建造軍艦清輝が横須賀造船所にて進水している。

●明治10年
この年、鹿児島私学校生徒が磯にあった海軍造船所などを襲撃し、西南の役の発端となる(9月西郷隆盛は城山で自刃)。

●明治11年
1月、西南の役戦後処理に関し、各省経費一律五分削減令が出され、軍拡拡張案も流れる。
春に、太政大臣は外務省の上申により、良港探索の名目で、朝鮮沿岸測量を海軍省に命令し、軍艦天城が測量を開始した。
5月には、川村純義が参議兼海軍卿に任命される。同じころ、海軍兵学校横須賀分校を兵学校付属機関学校と改称している。
この年に、初の国産軍艦清輝がヨーロッパ諸国歴訪の1年3ヶ月の遠洋航海に出発。当時のイギリス紙は「清輝鑑をみるだけで、日本の開化の状況が推察されるに十分である」と論評。

●明治12年
6月、東京招魂社が別格官幣社となり靖国神社と改称。内務、海軍、陸軍の3省の管理となった。

●明治13年
この年の夏、二等砲艦磐城が横須賀造船所で竣工。この艦は、日本人だけの手で設計、建造された最初の軍艦である。

●明治14年
7月に、海軍兵学校付属から海軍機関学校が独立。
12月には、海軍刑法が定められ、軍人の政治関与が禁止された。

●明治15年
1月、「軍人勅諭」発布。
同月、海軍軍楽隊志願者を一般募集し、瀬戸口籐吉(後に軍楽隊行進曲を作曲)ほか14名を採用。
7月、朝鮮で壬午の変が起こり、仁川及び釜山に軍艦3隻が急派される。
9月、右大臣岩倉具視は清国に対する軍備のため、海軍拡張を急務とする意見書を閣議に提出。これに基づき、軍備拡張が内定。

              明治16〜25年


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