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因島関係

ファーナム牧師

因島についての雑感

因島についての雑感

因島についての雑感

尾道市の因島重井西港斜面の除虫菊

因島は隣の島にあたる。正式な呼び名は「いんのしま」であるが、地元では「いんとう」のほうが通りがよい。東ちづるやポルノグラフティの出身地といったほうが分かりやすいだろうか。

先日、友人と気晴らしに愛媛県の岩城島まで出かけた。時間があったので帰りに因島を一巡りすることにした。隣なので親しみは感じていたが、このようにゆっくりと「観光」するのは初めてである。いろいろと面白い発見もした。

思っていたよりも大きな島で、友人によれば島内には郵便の集配局が三つもあるとのことだ。尾道市でさえ一カ所だし、私が住んでいる向島には当然ながらないので、かなり珍しいことのようだ。昔の行政区域を反映している様子だが、そう考えてみると、因島が島としての一体感を持ったのはつい最近のことではないかと思い始めた。全国でも珍しい一島一市なのだが、島内の経済不振の遠因もこのあたりにあるのかもしれない。

重井西港の待合室では、不良高校生が煙草を吹かしていた。連中は三原市内の高校に通学するようなので、この近辺は明らかに三原市の経済圏に入っている。

また、因島大橋ができるまでは、大浜と尾道の間にはフェリーがあったので、ここは尾道の経済圏になる。現在でも、この地区からは尾道市内に通学する学生が多いとのことだ。

土生は、尾道との間に航路があったので、尾道との交流が盛んであったと思うのだが、すぐ目の前にある弓削島や岩城島はもう愛媛県になる。岩城島からはいまでも今治への航路があることを考えると、土生と四国との間には、私が感じているほどの距離感はなかったように思われる。

浦々に点在する小さな集落をみると、どうしてこのように不便なところに住んでいるのかと不思議に感じるが、海路を利用すればそうでもなかったようだ。交通機関といえば、すぐに自動車や鉄道を思い浮かべてしまうが、いまでも船のほうがよほど便利な場合が多い。ごろっと船室で寝ているだけで目的地に到着する。

向島の立花地区は向島町として統合されるまでは、立花村として独立した行政区域であった。ここには青木姓が多いのだが、因島の青木庄の存在と無関係でなかったはずだ。交流は島内よりも、むしろ対岸の因島とのほうが密であったに違いない。潮の流れに乗れば、布刈瀬戸もあっという間の距離だ。

本四連絡橋が完成して航路が廃止され、いまではどこもかなり辺鄙な場所になってしまった。しかし島々を巡っても暗さよりは明るく開けた感じを受けることのほうが多い。これは東北などを旅行したときとは印象がずいぶん異なる。偏見があるのかもしれないが、瀬戸内海が経済の大動脈であったころは、江戸や大坂の情報もふんだんに入ってきたことだろうし、内陸よりはよほど文化的にも進んでいて、その影響がまだ残っているせいかもしれない。

椋の大木があるので椋浦と名付けられている小さな浦がある。ここに石碑(下記)があり、それによると出身者が船将として幕府軍に参加したとある。村上水軍の系譜に連なるものかと興味が尽きない。ここの法楽踊は近辺では一番古く、有名とのことだ。小さな集落だが歴史は相当に深いようだ。

高校生のとき、家老渡の親戚を訪ねるのに、椋浦を一度自転車で通ったことがある。その時の記憶と重ねあわせながらの感慨深い一日となった。

 椋ノ浦に小さき子らの遊び居り波にたゆたふ秋の夕暮れ

(金森國臣 2002年5月28日。1999年秋に作成した文章に加筆・訂正)

因島の地図(広島県尾道市)画像


徳川幕府軍船船将青木忠右衛門の碑

徳川幕府軍船美嘉保丸は慶応元年六月オランダより購入した三本マスト八百頓の機帆船(フランデンボルグ号)で当時としては優秀な艦船であった之に乗り組み幕末期縦横の活躍をした 船将青木忠右衛門は榎本武揚に率いられ他艦隊と行を共にし北海道に新天地を樹立する目的をもって慶応四年八月二日品川沖を抜錨第一集結地奥州陸前松島湾に向け航行の途次下総国銚子浦沖にて大時化(台風)に遭遇難破黒生浦に漂着すると「復古記」に記るされている  因に艦隊編成は開陽丸を旗艦とし回天幡龍長鯨千代田神速咸臨美嘉保丸の八隻であった船将青木忠右衛門(壮年名茶屋宗作)は当椋浦の出身である


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