あれは入社して何年目だったか。何かの伝票を入力する、普段はめったに使わないシステムがあって、初めてやってみたのだ。
それは大型コンピュータの端末だった。氏名などを入力。伝票番号を入力。あれ。間違えてる。「戻る」と書かれたキーを押すと、
一つ前の項目に戻る、ということらしいのだが…間違えた所まで戻れない。一番最初に入力した項目を間違えた場合、直せないのだ。
しかたがないので開発元に電話する。回答は
大失敗の感覚とは何か。ある人に言わせると、自分でお湯を沸かしてその煮え湯を飲んでいる、ということだが。 しかし煮え湯は飲んだことはないが私の大失敗は火傷したようないつまでも残るような感じではない。 それはピッチャーである自分が投げたボールを自分であるバッターが場外ホームランを打つような、ピッチャーからしてみれば とりかえしのつかないような自責感と、バッターの立場での爽快ささえともなう感覚、これではないだろうか。まだ責任の軽かった 頃はボールもそれほど速くないし飛距離も伸びないが、長年やっていると回数は減ったものの飛距離はドーム球場の天井を破るような 勢いだ。ただうっとりと見えなくなった飛跡を目で追いながら、バッターは走塁するのも忘れてたたずみ、ピッチャーはマウンドに 膝をつく。『ああ、やってしまった…』と。
組織ではなく個人レベルでの失敗について考える。 失敗が発生したときに「次からは気を付けます」という言葉は、当事者の口から聞くが、これはどの程度まで気を付けられるものなのか。 先人が失敗したことを教訓として文書や記録に残すことは有効か。 ある程度は予防になるだろうし、組織で何かをやる時の失敗の総数は減らせるだろう。 だが、個人のレベルでは失敗を体験することが重要ではないだろうか。本を読んだだけで実践が伴わないのと同じことで。 上司に怒鳴られ、同僚から馬鹿にされながらもある回数の失敗を重ねないと、失敗の重みはわからない。 仕事をして年月がたち、それなりに責任の範囲が広がるほど失敗したときのインパクトもまた大きくなる。 成功体験の蓄積と同じく、失敗体験も蓄積されるべきと考える。